1. パニック


***


ぺらひょろには、どこへ行ったら会えるかなあ。


そう思いながら、くまさんは今まで行ったことのない方角へと歩き続けました。

時々水を飲んで、ごはんを食べて。眠たくなったら寝床をさがして、一眠りしたらまた歩いて。

のんびりふらふらと歩いていたら、きょうのお日さまも、いつの間にか山の向こうのおうちへ帰ろうとしています。


やがてくまさんの後ろから、たったったっ、と何かが駆けてくる音がしてきました。

なんだろう、と追いつくのを待っていると、果たしてそれはくまさんが会いたかったぺらひょろでした。

くまさんに気づいたぺらひょろは、ピタッと立ち止まり、くまさんをじっと見つめたままそろそろと道のはしっこへと避けていきました。


何かおいしいもの、もってる?

そう聞きたくて、くまさんはぺらひょろに近づいていきました。

「ひっ」

かすかな鳴き声を出したぺらひょろは、よく見るとブルブルと震えています。

大きな生きもののくせに、小さな動物のようです。

さらに近寄って、くんくんと匂いをかいでみました。


木の実よりもあまい匂いがするぞ。


くまさんは目をキラキラさせてぺらひょろの顔を覗き込みました。

すると、ぺらひょろは腰のあたりから何かを取り出し、くまさんの後ろへ投げました。

ふり返ると、四角くて枯れ葉色をしたものが落ちています。

近寄って匂いをかぎ、少しかじってみて、くまさんは大喜びしました。

おいしいなあ。昨日食べたものもおいしかったけど、こっちはとびっきりあまいや。

うれしくてぺらひょろの方を見ると、いつの間に移動したのか、さっきより少し遠くからくまさんを見ていました。


もう行っちゃうの?おいしいものもっとちょうだいよ。

そう思って近寄ろうとすると、今度は背中にあった何かを前に抱えて、ごそごそと中をまさぐっています。そうしてまたくまさんの方に何かを投げました。

それはきつね色でふかふかとした、さっきより大きくてまるいものです。

かじりつくと、中からくろくてあまい、しっとりとしたものが出てきました。くまさんはこれも大好きになりました。

ねえ、ほかには?ほかには?

期待に満ちた目でみつめると、さらに何かの中をまさぐっていたぺらひょろは、やがて天を仰ぎ見ました。


ぺらひょろが抱えているものは何だろう?おいしいものがどんどん出てくるぞ。


あらためて近づくと、ぺらひょろはくまさんに向かってその『抱えていた何か』を放り投げました。

くまさんはすぐさまその中に鼻先を突っ込んで、くんくんと匂いを嗅いでみましたが、さっきぺらひょろがくれた食べものの匂いがかすかに残っているばかりです。

もう何もないのかなあ、と爪でばりばり引き裂いてみると、なにやら匂いのする水が溢れ出てきました。

ぺろりとひと舐めしてみると、それは果汁のようにあまくておいしい水でした。

くまさんは大喜びで、しつこいくらいキレイに舐めまわしました。

ようやく気がすんだ時には、ぺらひょろはとうにいなくなっていました。


まあいいや。歩いていればきっとまた会えるよね。

そう思いなおして、くまさんはふたたび歩き始めました。


*****



息を弾ませながら日の傾いた登山道を登り、中継地点にある展望台から遠くのビル群を眺め、喉を潤す。

風が気持ちいい。夕方とはいえまだ9月だ。これくらいの気温なら汗冷えもしないだろう。

「昨日はちょっと脅かしすぎたかなあ……」

我ながら声が低く大きくてガタイが良い分、他人が自分に対して威圧感を覚えがちなのは自覚している。自分の趣味が山登りだと知った職場の同僚達に、陰で「森の熊さん」と呼ばれていることも。

この威圧的な外見のせいで、あの若者達を過剰に怯えさせていなければ良いのだが。


東京在住の山ヤ達の中には、アクセスの良い足慣らしの場として、あるいは散歩がてらにと高尾山へ登る者も多い。

彼らにとって、ケーブルカーに乗り街着で訪れる観光客は、未来の山仲間であり、自然破壊容疑者であり、遭難予備軍でもある。

しかし怖いもの知らずな行動を取る彼らを心配して注意しても、『山をなめるなオジサン』などと言われて怖がられ、疎まれるばかりでうまく伝わらない。

自分のような人当たりの良くない風体の者は尚更である。

自然を大切に、できる限り安全に、山を楽しんでほしいだけなのだが。

「人付き合いは難しいな……」

ごちゃごちゃ考えてしまう時は、体を動かして山に登り頭をカラッポにするに限る。

俺は大きく溜息をついて、再びぬっと立ち上がった。


平日の日没近くという事もあり、山頂に近づくにつれてすれ違う人はいなくなった。

茶屋も既に閉まっているし、さすがに観光客は少ないだろう。残るはビアマウント目当ての人達と、俺のような物好きな登山者くらいか。

今日はきれいな夕焼けが見られそうだな、と空を見上げ、そのまま山頂直下の長い階段に目を移す。


その時。

大きな黒いものが、階段の前を左から右へと横切った。


頭の中が真っ白になり、次の瞬間ドッと汗が吹き出る。

一瞬だが間違いない、あれは大型動物だ。

大人のイノシシ――いや、もっと大きくて足が太く、全身が真っ黒だった。

まさか――!

耳の奥が煩いくらいにドクドクと脈打つ。周囲の音がかき消される。

一瞬の硬直の後、短距離走のスタートのように体が前へ躍り出た。目の前にそそり立つ急階段を全速力で駆け上がる。

息が上がる。胸が苦しい。足がもつれる。全身が悲鳴を上げる。

ちくしょう、おっさんを走らせるんじゃねェ!

最後は這い上がるようにして何とか頂上に辿り着くのとほぼ同時に、山頂直下にある展望トイレのあたりから悲鳴が聞こえた。

山頂にいる人達はみな何事かと悲鳴がした方向を見ている。その中から登山ウェアの男の肩を掴み、「デカい動物が出た!イノシシか、熊かもしれん!」とだけ言い残し、悲鳴のした方向へと走り出した。


――間違いない、熊だ!

人が落としたのか、それとも人から奪ったのだろうか。地面に落ちたデイバッグに顔を突っ込んでいる。

持ち主らしき女性が近くでへたり込み、じりじりと後ずさりして何とか距離を取ろうとしている。他の人達も体が硬直して動けないようだ。

そのまま刺激してくれるなよ……

下手に騒ぐと興奮させる恐れがある。ヤツが興味を失って立ち去るのを待つしかない。

固唾を呑んで見守っていたが、ふいに1号路からガヤガヤと騒がしい声が近づいてきた。


熊も顔を上げ、声のする方を見やる。

逃げようとする気配はない。

やがて声の主達が姿を現した。

登山者ではない、明らかに酒が入った後のほろ酔い集団だ。おそらくビアマウントを楽しんだついでに登ってきたのだろう。

「えっうわ、熊じゃん」

「え〜まじで!カワイイ!」

そんな事を口々に言う集団に、熊はおもむろに近づいていった。

さっきまで顔を突っ込み、爪と牙でズタズタにしたデイバッグのショルダーベルトを咥え、ズルズルと引きずりつつも決して離さずに。

その姿の異様さにようやく気づいた彼らは、顔を引き攣らせながら後ずさりはじめた。

「なあ…これもしかしてヤバくね?」

熊はなおも彼らに近づく。

一人が耐え切れずに体を翻し、叫びながら走り出す。その場にいた皆も弾かれたように悲鳴を上げて走り出した。

「あっバカ走るな!」

俺の叫びもパニックを起こした人達には届かない。その殆どは舗装された1号路を逃げていく。熊もそのあとを追いかけた。

このままではパニックが大惨事を引き起こす。

この時間帯、山中で働く人が確実にいる場所は、寺とケーブルカー、ビアマウント会場だ。

最も近い寺へは、3号路から裏道へ――いや駄目だ、間に合わない。確実に熊の方が早く辿り着く。

とにかく何とかしなければと、人々と熊を追って全速力で駆け下りた。

一体どれだけの人が山にいるのだろう。

どれだけの人が巻き込まれるだろう。

最悪の事態が頭をよぎる。それを振り払うようにひたすら走った。


――いた!

別段足が速いわけではない俺が追いつけたのは、熊が走るのをやめていたからだ。

興味を惹かれる何かがあったのだろうか、熊は中年女性のザックに前足をかけて後ろへ倒そうとしている。半狂乱になった女性はかろうじて左腕に引っ掛かったザックを引っ張り返そうともがいている。

「離せ‼死にたいのか‼」

思わず叫ぶと熊の動きが止まった。ハッとした女性がザックから手を離し、そろそろと後ずさる。

熊の目玉がぎろりとこちらを向いた。


ああ、これは死ぬかな、俺が。


熊から目を逸らさないままゆっくりと、自分のザックのポケットに突っ込んだストックを後ろ手で掴む。

せめてもの武器にしたいが、飛び掛かられる前に取り出せるだろうか。先に出しておくべきだったと後悔する。

熊はこちらを凝視している。

威嚇はしてこない。むしろ興味津々のように見えるのは気のせいか。警戒心がないのか。

折り畳まれたストックをそろそろと取り出すと、目玉がきらりと光るのが見えた。

組み立てて構えたいが、さすがに目の前で下手な動きをすれば熊を刺激するだろう。

こめかみと背筋を汗が伝い落ちる。

じりじりと気ばかり焦る。

どうする?



ブオォォォォォォォ…

ドン!!!!

ドン!!!!

ドン!!!!


突然鳴り響いた法螺貝の音。

さらに地の底から轟くような太鼓の音。

一瞬の静寂。


――本堂だ!

本堂にある、いつも御祈祷の時に鳴らされる大太鼓が2台、力の限り轟いている。それに呼応するようにして無数の法螺貝が鳴り響く。

更に釣鐘の音も加わった。御祈祷のためではない、この騒ぎに気付いてくれている。

戦国時代の戦に巻き込まれたかのような錯覚。

熊がそわそわと周囲を気にしだした。

法螺貝の音が近づいてくる。錫杖を鳴らす音もする。間違いなくこちらへ向かっている。

だんだん大きくなる音に、熊も落ち着きがなくなってきた。明らかに動揺している。

気を逸らしてくれたその隙に、俺は素早くストックを組み立て構えた。

こうして構えるのは中学時代以来だが、剣道の基本は文字通り体に叩き込まれている。

禁じ手だった突きまで教え、みっちり鍛えてくれた鬼顧問に今更ながら感謝したい。

法螺貝の音に鼓舞され、高揚し、力が漲った目で熊を睨みつける。

熊はこちらをしばらく凝視した後にふと目を逸らし、向きを変え、裏高尾方面へと斜面を駆け下りていった。


熊の姿を見送った後、俺はストックを手放し、その場で大の字に倒れこんだ。

大太鼓にも負けない勢いで心臓が早鐘を打っている。全速力で走った直後に熊と対峙したのだ、無意識に息を止めていたのだろう。体が酸素を必死に取り込もうとしている。喉がゼイゼイと鳴っている。息が苦しい。

良かった。俺は生きている。

やがて姿を現した僧侶たちに引き起こされるまで、俺はそのままずっと空を眺め続けた。

思った通り、今日はきれいな夕焼け空だった。



起こしてくれた僧侶にお礼を言って麓へと歩き出す。

しかし間もなく奥ノ院へと続く階段の上で立ちすくんだ。

大勢の人が倒れている。将棋倒しになったのだろう。

血を流しながらショックで呆然と座り込む人々。

恐怖で泣き叫ぶ人々。

倒れたまま苦しそうに呻いている人々。

そして、ぴくりとも動かない人々。

まさに地獄だった。

地獄の淵から救おうと、寺の人らが慌ただしく駆け回っている。


俺も手を貸そうと思ったが、今更ながら自分の外見が気になった。この状況で熊のような大男が救助にあたるなど、皆を怯えさせてしまわないだろうか?

先程の僧侶に尋ねると助力は大変助かると喜ばれ、暗くなってきたのでヘッドランプをつければ熊と間違われることはないでしょう、と苦笑しながらもアドバイスをくれた。

お疲れでしょうがよろしくお願いします、と頭を下げ、僧侶は救助へと戻っていった。

紫色の法衣を翻して負傷者へ駆け寄っていく背中は、力強く頼もしかった。


アドバイス通りにヘッドランプを装着して弱い光を点け、怪我人の救助と搬送を手伝う。

将棋倒しになった人達以外は、擦り傷など軽傷の人が殆どのようだ。しかし誰もが顔面蒼白で震えている。熊に追いかけられ、荷物を力ずくで奪われた人もいる。その恐怖は計り知れない。

ふと見ると、仁王堂の敷地の奥まった暗がりで、仰向けに倒れている人影があった。

ランプの光量を調節してよく見ると、固く目を閉じてはいるが外傷は見あたらない。それどころか、きちんと両手を組んで姿勢正しく寝ているではないか。

どうした、大丈夫か、と肩に手をかけて声をかける。

するとその人は目をパチリと開き「く……熊はどうなりましたか?」と聞く。

最新の黒いウェアを身に着けた細身の若い男に、俺は見覚えがあった。

「……またお前か」

昨日の夜、助けてやって説教をしたばかりの、カップルの男だった。



1号路で負傷者を救助し、ケーブルカーと緊急車両を駆使した搬出が完了した頃には21時を回っていた。

パニックになり山中をさ迷っている人が残っている恐れもあるが、他の登山道などを捜索するのはさすがに危険だ。本格的な捜索は明朝から行われるだろう。

緊急車両は山中に数台残り、ライトで周囲を照らして警戒している。

俺たち即席ボランティアは最終のケーブルカーで下山したが、駅周辺にマスコミや野次馬の姿は見当たらなかった。ありがたいことに、高尾山口駅周辺を含めた一帯に規制線が張られているようだ。

「おっさん!無事だったか!」

登山ウェアの4人組の男達が駆け寄ってきた。俺が頂上で熊出没を知らせた男もいる。

聞けば彼らが各所に通報し、山頂付近にいた一般客を誘導して稲荷山コースから下山したとの事だった。

大変でしたね、と労うと、いやあれには参ったね、と揃ってうんざりした顔をした。

「予備のヘッドランプも使ってできる限り足元を明るくしてさ、先頭と最後尾と、間に1人ずつ挟んで誘導したんだけど、最初の階段から『こんな急階段降りられない、手すりがない』とか怖いとかわめくヤツが出てきて。そりゃあ俺らだってもっと短くて楽なルート使いたかったけど、熊が1号路へ行っちまったら一番離れてる稲荷山使うのが安全じゃん?宥めすかして脅かしながらなんとか下山したけど、幼稚園児の遠足の方がよっぽど速いのよ。

ハイヒール履いてる女がいるわ、底ツルっツルの革靴履いてる男もいるわ、滑るわ転ぶわ泣くわ喚くわ、カップルで喧嘩おっぱじめるわ、もう散々。たいした怪我人も出さずに済んだのが奇跡だよな」

展望台のあたりで救助隊と合流できた時は神に出会ったような気分だった、と顔を見合わせて笑う。

聞いただけで眩暈がする。俺なんかより彼らが一番の功労者だ。

酒の一杯も奢りたいところだがどうだろう、と提案すると喜んで同意してくれた。


下界でどれほどの騒ぎになっているかは分からないが、マスコミ回避のため途中で大きく迂回して繁華街へ出て、個室居酒屋で乾杯する。

「いやぁ、でも皆さん凄いですね!オレなんか死んだふりしかできなくって」

例のカップルの男――鈴木もなぜかついて来ていた。

「いやむしろ死んだふりなんかしたら喰われるぞ」

「アイツら死んだ鹿とか平気で喰うからな」

口々に言われ、マジすか!と小さく叫んで顔面蒼白になっている鈴木に、俺は開いた口がふさがらなかった。

「お前、アレ死んだふりだったのか……アレはないだろ」

再現してみせるとウケた。ついでに昨夜の遭難騒ぎについても話が及ぶ。

「彼女、あの後『全然頼りにならない!男らしくない!』って怒っちゃって、電話もLINEも無視するんですよ…。男らしいって何スか!?これだけ世間はジェンダーフリーだって言ってるのに時代錯誤もイイトコでしょ!?

腹立ったけど、彼女の言う『頼りになる男』になって見返してやらぁ!って山登ることに決めたんです。彼女、おっさんのこと『頼りになる』って褒めてたし、オレも山に登れば何か変わるかなって。――あ、彼女に手ぇ出さないでくださいよ?オレのですから」

ビール半分で既に顔が赤くなってゴキゲンだ。羨ましい体質だな。

「子供には興味ねェよ。それにしても昨日決心した割には、ウェアもギアも良いモノばかりだな。元々アウトドア系が好きなのか?」

「あ、やっぱりこの良さ分かっちゃいます?実は今日、朝イチでショップに行って全部揃えてきたんスよ!もちろん親の金っスけどね」

でもコレ、センス良くないですか?カッコよくないですか?と胸を張る。

「カッコいいけど全身真っ黒はハチに狙われるぞ」

「万が一遭難しても目立たないから救助してもらえないぞ」

「むしろ今日もよく気づいてもらえたな」

「いっそクリスマスツリーみたいにLEDライトでも巻きつけたらどうだ?光ってカッコいいぞ」

とまた口々に言われ揶揄われ、しょげている鈴木の頭をわしわしと撫でてやる。

理由はどうあれ、山に興味を持ってくれたのは嬉しいことだ。

「――まぁ、メインルートしか行かないなら、気をつけていれば大丈夫だろ。但し無謀な行動はするなよ?地図は買ったか?」

「いや、高尾山だしいらないかな、って」

「いくら高尾山でも、ルートが頭に入ってないうちは持っておいた方がいいぞ。標識が随所にあると言っても、分岐が多いから迷う人もいるしな。万が一の時にエスケープルートの選択肢も広がるし、山にハマれば色々なルートを歩きたくなるから持っていて損はない」

そう言って地図を広げてみせる。


「ここが山頂。俺が今日登ったのはこのルートで……熊を目撃したのはここだ」

と、稲荷山コースを指でなぞり、コース最後にある階段付近の分岐を指す。

「それから熊は5号路を進んだから、このまま行けばこう……4差路に出て……6号路を下る可能性もあったが、3号路方向へ下る道と、さらに登ってでっかいトイレの前に出る道の分岐の方がすぐ目につくし、そっちへ行く可能性の方が高いと思った。

山頂へ行けばビジターセンターもあるし、スムーズに通報できると判断したから階段を駆け上ったんだが」

「おっさんアレを駆け上ったのか……あれ?でもあの時間だと」

「ああ。途中で、ビジターセンターもとっくに閉まっている時間だと思い出してなあ。立ち止まっても仕方ないからそのまま走ったが、頂上にあんた達がいてくれて本当に助かったよ」

ぽかんとしている鈴木のために寄ってたかって解説してやる。

「山頂にはビジターセンターっていう、高尾山の自然について説明してくれる人達がいる場所があるんだよ。ただ16時で閉館だからなぁ……」

「お前には分からないだろうけど、あの階段駆け上がるって地味にキツイぞ? けっこう急なうえに200段以上あるし……」

「今は286段だよ。改修前は242段だったんだがなあ」

「うへぇ……オレなら途中で心が折れるわ」


「――ともかく、アンタ達に会うと同時に悲鳴が聞こえたからな、そのままトイレの方向へ走ったが、既に一般客のデイバッグを漁っていた。随分執着していたから、封を切った菓子でも入っていたか、あるいは」

「デイバッグに食べ物が入ってることを既に学習していたか……」

「ああ。学習していた場合は、もっと前に遭遇した誰かが襲われているかもしれない」

顔色をなくした鈴木が恐る恐る聞いてくる。

「な、なあ。く……熊って学習とかするのか?」

「熊は頭がいいぞ。しかも喰い物に対する執着心は並大抵のモノじゃない。痛い目にあった事も覚えて避けるが、それ以上に『こうすれば喰い物にありつける』と覚えればその場所や対象物にも執着する。

1号路での救助中に確認したが、熊に荷物を奪われた人が何人かいた。人が喰い物を持っている事を学習済みだと考えるのが妥当だろうな」

「つまり、人を見ると襲いかかってくる可能性大、という事か……」

「警察にも説明したが、事態は結構深刻だ」

「そういやオレらと一緒に下山した中に『人が落ちるのを見た』って言ってた人がいたんだ。警察にも言っておいたけど、どうやら4号路方面に走った直後に落ちたらしい」

「4号路?ってどこスか?」

「別名『吊り橋コース』と言ってな、トイレの左横からこう……途中の吊り橋を通って、山門の横に抜けるコースだ。人気のコースだが、下りは最初の階段がやや急だし道幅が狭いところも多いからなあ。パニックになって逃げた人なら落ちてもおかしくない所だ。落ちたにしてもうまく木に引っかかっていてくれれば良いんだが。

…しかし4号路か……心配だな。熊が逃げたのはこっちだ」

俺は不動堂から少し先の方を指さし、4号路といろはの森コースを横切る形で指を滑らせ、その一帯を大きく囲った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

高尾山の熊 にゃりん @Nyarin_AV98

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ