高尾山の熊
にゃりん
プロローグ すべてのはじまり
***
ひとりぼっちのくまさんは、狩りのしかたを知りません。
おかあさんとはぐれたのは、ほんの小さなこぐまの頃。狩りを教えてもらう前でした。
それから必死に生きてきて、なんとか大人になりましたが、狩りだけはどうもうまくいきません。
それでもこの山には、食べものがたくさんありました。
木の実や草花、昆虫たち。死んだ小動物にありつけることもあります。運よく魚を食べられたこともありました。
でもくまさんが大きくなってからは、大きなおなかがいっぱいになるほどの食べものにありつけることはありません。
ああ、おなかがすいたなあ。
おいしいものをおなかいっぱい食べられたらなあ。
そんなことを思いつつ、くまさんはいつも食べものをさがして山をあるき回っていました。
ある日の夕暮れ、くまさんは初めて見る生きものに出会いました。
毛のないつるつるの腕、つるつるの顔。
立ち上がればくまさんよりも大きいでしょう。でも腕も足も胴体もぺらぺらのひょろひょろ。まるでちょっとの風でも大きく揺れる小枝のようです。
くまさんはその生きものに『ぺらひょろ』と名前をつけました。
ぺらひょろは、くまさんが今まで食べたことのない、なにやらとっても変わった匂いのするものをズルズルと食べています。
あれはなんだろう!?
おいしいのかなあ?おいしそうな気がするなあ。
思わずガサガサと近づくと、くまさんに気づいたぺらひょろは、手に持ったおいしそうなものをばしゃんと落としました。
そしてガタガタと震えながらじりじりと後ずさり、やがていなくなりました。
くまさんはその落ちたものに近づき、フンフンと匂いをじっくりかいでみましたが、いやな臭いはしないようです。
ちょっとだけ食べてみようかな。
くまさんはおずおずと口をひらきました。
はくり。
くまさんは驚きました。死んだばかりの狸よりもあたたかいものを食べるのは初めてだったのです。
それにこんなにもおいしいものがあるなんて!くまさんは天にも昇る心地です。
夢中になったくまさんは、たちまちぺろりと平らげてしまいました。
ああおいしかった。
おいしいもの、もっとたくさん食べたいなあ。
きっと、ぺらひょろはおいしいものをたくさん知っているにちがいない。
くまさんは歩きだしました。
おいしいものを食べるために。ぺらひょろにまた出会うために。
***
都心から急行列車で一時間。きれいな景色とおいしい空気、お手軽ハイキングも楽しめる、ミシュランにも選ばれた自然スポット。
ケーブルカーに乗ればすぐ、おいしいスイーツやビアマウント、夜景まで堪能できる観光地。
「それでもここは山なんだよ。人間以外の、野生動物たちの世界だ。いくら観光地と言われていても、そこは忘れちゃいけないよ」
俺は何をやっているのか。
諭しながらも思わず遠い目をしてしまう。
平日なら人も少ないだろうと、ナイトハイクをしに高尾山へ来たらこの有様――道に迷った若いカップルを救助するハメになった。
夏休みだから肝試しに来たという彼らはライトすら持っておらず、スマホの明かりを頼りに歩いていたものの、あまりの闇の深さに身動きが取れなくなったらしい。
男はジーンズにスニーカー姿だからまだ良いが、女はキャミソールワンピースにハイヒールだ。さすがに無謀というものだろう。
仕方なく予備のライトを貸して、転ばないようにゆっくりと誘導する。ところがさっきまで泣きべそをかいていたカップルは下山した途端ケロリとしている。挙句にメイクを直し自撮りを始め、「SNSにアップする」だの何だのと騒ぐ始末だ。
人様に迷惑かけておいてバズるもあるか、と内心腹立ちながらも、多少は山を知る人生の先輩として軽く説教中だ。
「山に街の常識は通用しないよ。街灯もないし、街にはない危険もいっぱいある。特に夜の山中で安全に行動するには、高尾山でもそれなりの服装や持ち物が必要だ。
ここにも猪くらいはいるし、熊だって目撃された事がある。近くの山にいる熊が、夜に高尾山まで来ていないという保証はどこにもないよ。
痛い目に遭いたくなければ二度とこんな危ない真似をするんじゃない」
わかったね、と念押しすると、はーい、と素直な返事が返ってきたので信用することにして解放した。
若者特有の軽率さを責めるつもりはない。俺にも覚えがあるし、誰もが通る道だと思っている。思慮深さを身につける良い機会になってくれれば結果オーライだろう。
「ついでに観光地や肝試しスポットじゃなく、『山』としての高尾山にも興味持ってくれないもんかねぇ」
さて行くか、と一伸びし、ザックを担いだ俺は再び山頂に向かって歩き出した。
その少し前に、堂所山で熊の目撃情報があった事は、ずいぶん後になって知ることになる。
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