〔三月三十日〕

 私は一人、八ッ場やんばダムにいた。

 特に何かが気になったというわけではない。もう一度見てみたいと、それだけだった。

 快晴ということもあり、土曜日午前中の展望台には昨日と違って幾人かの人影があった。

 人のいないところを見つけ、鉄柵のきわから見下ろすと、タイミングを見ていたかのように若葉がざわめき、風の後を追った水面がキラキラと太陽の光を反射していた。

 かつてこの谷間たにあいに母の家族が暮らしていたことを思うと、その光景には意味があるのではないかとすら思う。


 きゃっきゃっ

 あははは


 そのとき、また子どもたちの声が聞こえた気がした。それは私の背中を走り抜けていく。この展望台に来たときには、大人しかいなかったはずだ。声につられ、走り去った方に顔を向けるが誰もいない。

 否。

 男性が一人、満足そうに顔を綻ばせて谷底を覗きこんでいた。切れ長の目にすっきりとした鼻筋。その横顔が春の景色の中で輝いて見えた。

 私の心臓が踊り出す。

 耳が痛くなるほど顔が熱を帯びる。

 木々のざわめきが鳴りを潜める。


 けれど、彼は私に気付かず、行ってしまった。



〔三月三十一日〕

 夢を見た。いつもの夢だ。夢の中の私はそう思っていた。けれど、そうではなかった。

 笑顔の家族に行ってきますと言った。返事はない。

 直後、場面は切り替わり、ただいまと言って玄関を開けた。

 するとどういうことか。家の中は腰くらいの高さまで水に浸かっていた。

 それでも夢の中の私は玄関に踏み込み、次にはソファーに寝ころんで天井を眺めていた。

 深紅の花びらを揺らし、きらきらと光る波紋越しの天井はとても幻想的で美しかった。

 そして、顔の分からぬ子どもたちが水面の上から覗き込んで言うのだ。


「おかえり」


 目が覚めると、カーテンから差し込む朝陽が滲んでいた。

 私は泣いていた。

 でも、とても気持ちの良い目覚めだった。


 そうだ。あの花を探しに行こう。

 結局、立川の自宅に戻ってきても、夢に出てくる深紅のビロードを知らないままだった。母方の祖父母なら知っている可能性は高いが、二日続けて車で遠出する体力は私にはない。


「おや、美津流みつるちゃん、今日も来てくれたのか。ありがたいな」


 そうなれば、近所に住む父方の祖父を頼るのが良い。

 つい三日前に訪ねたばかりだというのに、祖父はニコニコと私を出迎えてくれて、「すぐにまた来るんじゃないかと思って、お菓子を多めに買っておいたんだ」などと言う。


「それでね、お爺ちゃん。またこの前の写真の話なんだけど」


 久し振りに食べるチョコレートのお菓子を口に含みながら、祖父にタブレット端末で写真を示す。


「この花なんだけど、なんの花か知ってる?」

「ああ、この花か。たぶん木瓜ぼけだね」

「ぼけ?」

「うん、木の瓜と書く木瓜ぼけだと思う。花は梅みたいに見えるけど、でも背が低いから木瓜ぼけだろうね」

「そう、ぼけって言うのね」

「この辺りだったら、昭和記念公園に行けば見られるかも知れないよ」

「私、行ってみる。おじいちゃん、ありがとう」


 私はお礼もそこそこに車を走らせた。

 日曜日の立川市はやはり快晴で、道はどこかへ向かう車で混雑していたが、それでも二十分もかからずに西立川口に到着した。そう言えば入園料の他に、駐車場も有料だったと少し後悔するが、今さら戻る時間ももったいない。

 Suicaをかざして中に入り、正面の池を反時計回りに歩いて中心部を目指す。そうしながらきょろきょろと背の低い木を探すが、どうやら池の周囲には見当たらなかった。そうこうしている内に、小さな建物が見えてきて、正面玄関と思しき自動ドアの上には花木園展示棟と表示してあった。ここなら教えてくれるかもしれないと中に入れば、カウンターにいた愛想の良い女性がニコニコしながら話してくれた。


「この前の道を五分か十分、あっちに歩くとね、原っぱが見えてくるんだけどそっちには行かないで真っ直ぐ行くの。そうするとね、向かって右に木瓜ぼけの木がいくつかあるから。赤いのもその中にあったかも知れないわねえ」


 同じ方向に向かう親子連れの後ろ姿を眺めながら、子どもの時分には何回も連れられてきたことを思い出すと、私の足は自然と原っぱに向いていた。

 広い広い原っぱの隅には黄色や薄紅色や赤や白の花が咲き乱れ、泰然と佇む大きなケヤキを遠くから囲んでいた。

 途端、足裏の柔らかい感触と若草の匂いが私を包む。


 この広い原っぱで子どもの私は何を考えていたのだろう。

 どうやって走っていたのだろう。

 どれくらい走り回れたのだろう。

 弟と上手に駆けっこできていただろうか。

 お弁当をこぼさずに食べられただろうか。

 父や母におんぶばかりされていなかっただろうか。

 泣いてばかりいなかっただろうか。

 両親に迷惑ばかりかけていなかっただろうか。

 ちゃんと弟の面倒をみていただろうか。

 私はちゃんと娘だったろうか。

 私はちゃんと姉だったろうか。

 空が青いと思えていただろうか。


 もう返事がない疑問ばかりが頭をぎって仕方がなかった。

 子どもたちの笑い声が聞こえる中を歩く。

 大きなケヤキの下で空を仰いで深く、長く、一呼吸。日はまだ高い。向き直り、東のカフェの方へと足を向けた。

 休日のカフェテラスは満席で、私が座る余地はない。だけど目的地はその裏、元々案内されていた場所だった。

 近づくにつれて、確かにスマートフォンで調べた木瓜ぼけの花が見えてきた。

 白と赤。

 深紅は……あった。ちょうど先客の男性がいて、花が見えなかったのだ。

 その男性はつま先で立ってみたり、ときには身を屈めたりして、色々な角度から撮影を試みているようだった。


「あ、どうぞ」


 すぐそばまできた私に気付き、男性は足を開いて横に移動する。

 近くで見るとその花びらはより深く昏く、深紅というよりは黒に近しい。

 スマートフォンで何枚か撮影をしてみたが、ディスプレイに映る色は目の前の色よりも随分と明るかった。


「やっぱりこの色、出ないですよね」

「ええ、本当に出な――」


 その顔を見て、心臓が俄かに踊り出した。

 私は何を話していたのか。何を話しかけられていたのか。

 八ッ場やんばダムで見かけた彼がそこにいたのだ。


「これは、なんという花なんですか?」


 すっかり気が動転し、知っていることを尋ねてしまう私が情けなくもある。


「これは木瓜ぼけ黒光こっこうという品種で――」


 それから私は空が黄昏色に染まるまで話をして、連絡先を交換した。会話の内容などどうでも良いことだった。彼が私の視界の中にいてくれれば。



〔四月一日〕

 自宅の庭先で、家族全員で黒光こっこうを眺めていた。

 その花はまだ蕾で、弟はスマートフォンを片手に得意気にそれを説明していた。

 両親も私も弟も、みんな笑っていた。

 やがてみぞれ交じりの雨が降り始め、庭も家も、みんな、みんな、何もかもが水に沈んでいった。

 私は仄暗い水底から淡く光る水面を見上げて、それを怖いと思った。

 手をのばし、水を掻き、けれど水面はどんどんと遠ざかる。

 私はもがいた。

 一生懸命にもがき、水を掻いた。

 苦しかった。

 息ができなかった。

 周りがどんどんと光を失っていった。

 怖かった。

 寂しかった。

 声を出さずに何度も泣いた。

 涙を流さずに何度も泣いた。

 一生懸命にあのキラキラした水面を目指してもがいた。

 それでも届かなかった。

 どんどん遠ざかっていった。

 ざぶんと音がして私の手を誰かが掴んだ。

 その腕は力強く私を引っぱり、水面まであと少しに迫った。


 気付けば、私はどこか知れない縁側に座っていた。

 視界一面に広がる青い空、白い雲、そしてそれを映す広い広い水たまり。遠くには大きなケヤキが泰然と立っている。


「行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 後ろから誰かの優しい声がした。

 私は立ち上がり、ケヤキの下で手を振るあの人に駆け出す。

 足跡は次々と波紋を生み、それは太陽を反射して一際強く輝いた。



『水光』 ― 完 ―

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水光 津多 時ロウ @tsuda_jiro

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