二
〔三月二十七日〕
水曜日の空は鈍く重かったが、それでも雨は降っていない。
有給休暇の初日、私は押し入れの段ボール箱にしまいこんでいた、紙のアルバムをめくっていた。
どこかであの景色を見たことがあるのかも知れない。
重たいアルバムに挟まれた、やや色褪せた両親の記憶を少しずつ吸収していくが、パリパリと音を立てながら二時間近く眺めても、そこにあの花は見えなかった。
一つ年を取るたびに印刷された、弟の冊子状のアルバムなどは言わずもがなである。
私はどうなのだろう。可愛らしいキャラクターの表紙に収められた小さな私は、誰に向けてのものなのか、一生懸命に笑顔を振りまいていた。あっちも、こっちも、どれもこれも、誰も彼もが笑顔だった。大きな私から前借りしたのではないかと疑うほどに。
でも、笑顔ではないものもある。
無表情の私の何が面白いのか。
むすくれた私の何が面白いのか。
おにぎりをほおばる私の何が面白いのか。
歩くだけの私の何が面白いのか。
母におんぶされる私の何が面白いのか。
弟と手をつなぐ私の何が面白いのか。
顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくる私の何が面白いのか。
オムツ姿の私の何が面白いのか。
寝ている私の何が面白いのか。
私という存在の、何がそんなに愛おしかったのか。
――一枚だった。
たった一枚。
あの花の隣で、同じくらい小さな私が笑っていた。
〔三月二十八日〕
「
木曜日。私は父方の祖父を訪ねた。祖父の家は相変わらず古くて狭い木造平屋建てだった。
「もう五年も経ったのか。あっという間だな。一人暮らしには慣れたか?」
同じ立川市内に住んでいることもあって、両親と弟を一度に失ったときも祖父には大変お世話になったものだったが、普段は全くと言っていいほど付き合いはない。この人はこの人なりに気を遣ってくれているのだろうと思う。
「ええ、まあ。ところで、今日は見てもらいたい写真があるんだ」
「いいとも。どんな写真だ?」
「これなんだけど」
タブレット端末に保存した写真を見せると、祖父は口元を大きく緩めていた。
「ああ、懐かしいなあ。美津流ちゃんが何歳くらいの頃かなあ」
「この場所、どこかの家の庭だと思うんですけど、心当たりはありますか?」
「うーん、さあねえ。ここがどこだかは俺には分からないなあ。だけど、ほら」
祖父は写真の一点を指し示すために、指で宙に円を描いた。
「ここに沢山の山が見える。だからお母さんの親戚に聞いてみたら分かるかも知れないよ」
「……本当だ。ありがとうございます。それじゃまた」
「うん。来てくれてありがとうな。美津流ちゃんが来るといつも息子のことを思い出すんだ。また、いつでも来ていいんだよ」
〔三月二十九日〕
金曜日の空はとても爽やかだった。
平日の高速道路は空いていて、実に気分がいい。
「美津流ちゃん、よく来たね。さあさ、上がって茶でも飲んでおいきよ」
「お婆ちゃん、ありがとう」
母方の祖母は群馬県みどり市に住んでいて、私が到着したときは、家の前の畑をいじっていた。小さい頃は毎年来ていたが、あの件があってからというもの、父方の祖父以上に疎遠になっている。
だというのに、つい先日も会ったように気さくに接してくるものだった。
「お
「うん、見てもらいたい写真があるんだ。これなんだけど」
「おやおや、これはまた随分と懐かしいね」
「ここ、どこだか分かる?」
「ああ、昔の家の庭だな。ここに越してくる前に住んでた家だ」
「そうだったっけ?」
「そうだよ。まだ十年ちょっとしか経ってないのに、もう忘れちゃったのかい? まだ若いのにねえ」
「言われてみれば、そうだったような気がしてきたわ。ところで前の家ってどこにあったんだっけ? 行ってみたいんだけど」
「沈んだよ」
「え?」
「今はもうダムの底なんだ」
「そう、なんだ」
住んでいた家を追われたというのに、祖母はサバサバしていて、だけどどこか寂しそうに目を伏せている。
「ねえ、近くまで行くことはできるの?」
「見晴らし台やらがあるからねえ。行くのかい?」
「うん」
「じゃあ、お
私は祖母をナビゲーターに、春が訪れ始めた群馬を走った。赤城山から吹きおろす風はもうすっかり衰えていて、慣れない道でも運転に支障はない。山道に入った車はやがて榛名神社の大きな鳥居と榛名湖の横を抜け、国道145号線と合流した。
「あともう少しだよ」
祖母が懐かしむようにゆっくりと言う頃、空には薄っすらと灰が差し、車は茂四郎トンネルへと吸い込まれていく。
緩やかに左へ曲がるそのトンネルを抜けると、遠くにはまだら模様の山が広がり、けれども空はみぞれ交じりの灰青色で、果たしてそれは誰の色だったのだろう。
「トンネルを出て標識を左に曲がって、一本目を左に行けば資料館、二本目のうどん屋の角を左に曲がると普通の展望台だよ。資料館からも見渡せるけど、お
トンネルの中で祖母が言っていたことを思い出し、私は資料館を選ばなかった。
築山のような展望台に到着してもやはりみぞれ交じりの雨で、視界は良好とは言えなかったが、色の濃い湖面の様子を眺めることに問題はない。
祖母と二人並んで傘を差し、特にどこかをじっと見るわけでもなく、こんなものかと思いながらぼんやりと眺める。
「丁度この下の辺りにね、昔の家があったのさ」
祖母が昔の家を指さしたとて、とうに解体されたそれが見えるわけでもない。眼下にダムがあり、濁ったダム湖がある。私にはただ、それだけのことだった。
近くのうどん屋で体を温めると、駐車場のアスファルトには雨粒だけが跳ねていた。
遠くで雷も鳴る中、急ぎ足で車に乗り込む。
運転席のドアを閉めようとした瞬間、子どもたちの笑い声が聞こえて、消えた。
「ねえ、お婆ちゃん。今夜、泊まっていい?」
「もちろん。お
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