第5話 早朝散歩とおんぶ

 明くる日の早朝、ジャージ姿の志門は家を出て前の路地で準備運動をはじめた。

 辺りはまだ薄くもやが掛かり、息を吸い込む度に冷たい空気で眠気が覚める思いだった。

 そうして一通り身体をほぐし終え、ゆっくりと走り始める。

 幹線道路沿いから住宅街へと、幾度となく通過したコースだ。

 走行車両もまばらで、通行人もいないこの朝の頃合いが、どこか特別な感じがして志門は好きだった。

 何も考えず、ただ規則的に地を蹴る動作が心地よい。

 街路樹の横を走り抜け一回りすると、ようやく血流とともに気の流れまでも目覚めだした気がした。


 およそ三十分ほど走った後、仕上げのダッシュ走をするために、家の付近へと戻ってくる。

 この仕上げは、線路の下をゆくアンダーパスで行う決まりだ。

 程よいアップダウン、直線百メートルコース、おまけに人通りがほぼないから、打ってつけだった。


 軽く屈伸すると、これまでとは違う前傾姿勢で一気に駆け抜ける。

 まるで戦闘態勢のような勢いで軽い足音だけが、通路内にこだました。



 さて、そんなすがすがしい早朝の風景を、こよなく愛するもう一人の人物がいる。

 神芝駅の書店で『武将たちが愛したにゃんこ本』を至極幸せそうに胸に抱えていた少女だった。

 ランニングパーカーにタイツ姿で、足取りも軽い。

 頬を撫でる空気を楽しみながら、弾むステップでご機嫌だ。



(うーん……やっぱり朝は気持ちいいわね。今日もきっといい天気……?)



 にゃんこ少女がいつもの散歩コースをゆくと、はて何やら変な音がする。

 これから始まる素晴らしい一日であろうはずが、聞きなれない雑音で顔まで曇ってしまった。

 どうやらアンダーパスの中らしいと突き止め、そろりと近づく。



(ったく、何この変な音。しゅたたたすぽぽって……)



 素早い勢いで地上へと突然現れた志門。膝に手を付き大きく肩で息をする彼をみとめると、少女はぎょっとした。


 

(あっ! こないだの駅にいたヤツじゃない。……一体どこへ行くのかしら)



 休息もつかの間、姿勢を正すと志門はくるりと向きを変え、再び走り出した。つられて少女も追いかける。

 どうしてそのような行動を取ったのか、にゃんこ少女にも分からない。

 それでもどこか頭の片隅に引っかかるような、心が動けと命じたかのように、志門の後を付けていった。


 しかし彼の速度が思いのほか早く、どんどん突き放されてしまう。

 あっという間に志門の背中を見失いかけた時、近所の小高い寺への階段をのぼる姿を捉えることができた。

 もはや見失ってはしまったが、行き先は明白だ。

 半ばうめき声をあげながら、階段を踏みしめると共に、にゃんこ少女は自分の選択を呪った。


 見かけほど長い階段ではなかったが、なんとか登り切った頃には息も絶え絶えだった。

 前屈みで自分のツインテールが揺れるのを見ながら、やっとの思いで息を整える。



「はあっ、はぁっ……なんなのよ、もう。朝から……キツ過ぎだっての。乳酸溜まるわ」



 少女が顔を上げるとそこに寺の名前が目に入った。



龍顕寺りゅうけんじ



 重い脚をなんとか動かし、寺の入口へとすり寄った。

 割と広い境内の真ん中で、何かを待つように志門が静かに佇んでいる。

 すると、本堂とは別の庫裡くりの方から、一人近づいてきた。

 距離が縮まると、志門は相手へと恭しく一礼する。



「お久しぶりです、師匠」

「先日は連絡ありがとう、志門君。確かに久しいね。昨年の夏以来かな」



 歳の程は四十代といった作務衣姿の男性が応える。

 顎に無精ひげを備えてはいるが、眼鏡のむこうの瞳は優しそうだった。

 この男の名は小瀧こだき 恭助きょうすけ、龍顕寺の住職で志門の武術指南も兼ねている。

 祖父が健在だった頃からの師弟関係で、大変世話になっている人物だ。



「はい。あれからちょっとドタバタしていましたが、もう落ち着きました。これからまたしばらく、お世話になります」

「うん、よろしく。……ほう、ちょっといい面構えになったじゃないか。さて、腕の方はどうだろう」



 小瀧師匠の温和な眼がゆっくりと失われ、冷徹な色を帯び始めた。

 作務衣の袖口に手を入れた腕組をくずし、ゆっくりと構えの姿勢に入る。

 それに呼応するかのように、志門も腰を落とす。


 境内で静けさが染み渡り始めた途端、志門がまず動いた。

 拳による連打を素早く打ち込んだあと、留まることなく蹴りを出す。

 難なくかわした師匠は、流れるような志門の攻撃を片腕だけで全て受け流していた。

 若さでは勝る志門だが、どれだけ打ち込もうとも、僅かな隙を突いてくる師匠の反撃に顔を歪めるばかりだった。


 境内の中で繰り広げられる光景に、にゃんこ少女はただ呆然とする。



(ちょ、ちょっと……)



 小ぶりな薬医門の陰に隠れながら、柱へと添える手に力がこもる。



(なに、あいつってあんなに強かったの!?)



 家柄のこともあり弓道や柔術といった武芸の心得もある。

 けれど突き、蹴り、投げといった互いの攻防を目の当たりにした少女は、その目を疑った。

 見慣れない武術、という理由もあったのかもしれない。

 しかしそれ以前に、先日遭遇した気の抜けたユルそうな少年が、想定外の動きをしているではないか。 


 激しくはためく衣の音、打ち込んでは受け流す身体の衝突音、地を蹴る音。

 それらが次第にヒートアップしては境内に反響し、にゃんこ少女の耳に届くまでとなった。

 傍から見ていると、僅かに志門が押しているように見える。

 しかしその全ての攻撃に対して、絶対的な安定感で対応するその様に、師匠の底知れない強さが現れていた。

 もはや驚くことを忘れ無心で双方を見守っていると、いつの間にか志門が宙を舞い地面に倒れこんでいた。

 僅かな土煙がたっては薄れてゆく。



「はあっ、はあっ……」

「お疲れ様、志門君。確かに以前よりは強くなったようだね。でもそれは、力であって技じゃない……」



 仰向けの弟子へと話しかけてくる師匠は、普通の中年男性に戻っている。

 なんと息もそれほど切らしていない。



「鍛錬については怠っていないようだから問題はない。けれど、打撃・防御・投げそれぞれの動きは、とどまることなく流れるように動作しなきゃいけないよ。そこに我らの拳技『鳳龍翼穿ほうりゅうよくせん』の極意がある。どうも君のは硬すぎるようだ。ま、今後の課題だね」



 境内の地面へと大の字に倒れこんでいる志門は、頭部だけを師匠の方へ向け呻くように返事をした。

 そしてまた地を枕にして呼吸する。

 既に明るくなった空のうろこ雲を眺めていると、師匠が続けた。



「初日だからね、これくらいにしようか。……どれ、立てるかい?」



 手を借りて立ち上がると、土を払いながら志門が返す。



「すみません。……まだまだ師匠には敵いませんね」

「体力的な部分ではいずれ君がすぐに追い抜くだろう。けれど、相手の心を読むことは常に忘れちゃいけないよ。なに、焦ることはない」


「心……ですか。ご指摘の通り、どうも自分はまだまだ無神経なところがあるようです。つい先日もそのような眼差しを向けられた記憶がありますので」



 自分の欠点をどうしてよいか分からず、困ったように笑う志門。


 

「そうか、そうか。でももしかすると、これからはとても興味深い眼差しで見らるかもしれないよ」



 そういって師匠は門の外へと、にこやかな視線を向ける。



(―――きゃっ、ばれたっ!?)



 はっと我に返ったにゃんこ少女は、素早く柱の陰に隠れる。

 身体隠してツインテール隠さず。

 ぴょこんとはみ出た房の先にクスリとすると、師匠は続けた。



「ともあれ、今日はこれでおしまいだ。鍛錬の時以外でも、いつでも遊びにおいで」

「はい、また来ます。本日はご指導ありがとうございました」


「うん」



 志門は一礼すると、静かにその場を後にした。 



(こっちにくるっ)



 あたふたしながらも、門の脇の茂みに身を寄せ、にゃんこ少女は隠れる。



(だからなんで私が隠れなきゃなんないのよ……)



 我ながら情けない……と高台からの街の景色に眼をやると、志門が視界に飛び込んできた。

 信じられないことに、彼は帰りも駆け足だった。



(えぇぇえ、またぁ!?)



 段飛ばしで軽快に下ってゆく後ろ姿をうらめしげに、重い腰を上げる。

 その一歩を踏み出した途端、膝が崩れ落ちそうになった。

 なんのその、と少女はもう片方のお御足で堪えるが、そちらも同様に力が入らない。

 結果、脚は動かせるが重力に背けないまま、急勾配の石段を走るように下り始めた。



「……っと、とと……、きゃ……きゃぁぁぁぁぁぁぁ!!」

「ん?」



 背後で奇怪な悲鳴を聞いた志門は、上から凄まじい形相で降下してくる少女を見た。

 ツインテールを激しくはためかせ、バランスを崩しながらも石段を踏み割りそうな勢いで突進してくる。



「止めてぇぇぇぇぇぇぇ!」

「――うおっ、危ないっ!!」



 足音響かせながら、両手をばたばたする彼女は今にも泣き出しそうだ。

 幸い志門は一番下までおりきっている。

 周囲を確かめ軽くジャンプすると、両手を広げて受け止めの構えに入った。



「よし、こいっ」

「って、無理でしょぉ―――」



 もはや力尽きかけたにゃんこ少女は、志門と同じ地上を踏むことなく、最後の最後で崩れ落ちた。



「あぁ……だめっ」



 少女の身体は慣性の法則に従い、駆け下りた勢いのまま志門へと突っ込む。

 通常であれば二人とも吹っ飛んで大怪我ものだろう。

 それでも彼は体勢を崩さず、包み込むように受け止めると、後方へジャンプした。

 線路とを隔てるフェンスに背中からぶち当たる。 



「ふんっ!」

「きゃっ」



 衝撃こそあったものの、にゃんこ少女は無事だった。

 どうなったのか暫くは理解できず、志門の腕の中で顔をうずめている。

 胸から伝わる鼓動、少し汗臭いジャージと割と堅い胸筋を感じつつ、ほんの少しだけ目を開く。

 少女の頭部の動きを見た志門は安心し、静かに話しかけた。



「……今日も髪にあの飾りを付けてるんだな」

「……当然よ。……大切なものですもの」



 顔を上げたものの、志門の方を見ることができないまま、彼女が小声でこたえる。

 すると志門の胸が小刻みに揺れるのを感じた。



「ははっ、あの時と同じセリフだなぁ」

「う、うるさいわねっ」


「立てるか?」

「……たぶん。…………いたっ」



 志門の腕の中から離れ、立ち上がろうとした途端、左足首に激痛が走った。

 無理もない。

 あの急こう配の石段を必死に下ってきたのだから、当然といえば当然だった。

 行き場のない怒りに顔を曇らせるにゃんこ少女。

 追いかけ、盗み見した挙句、大けがまでしそうになった自分が情けなくなった。

 それに今、出会ったばかりの自分を躊躇なく助けてくれた男がいる。

 何から何まで自分のせいであるのに、と。


 うつむく相手の表情を下から覗くと、志門はそのまま彼女の前にしゃがみこんだ。



「ほら」

「……えっと、なにかしら」


「おぶってってやるよ」

「―――んなっ!」



 この男は何をいっているのかしら、とにゃんこ少女はどぎまぎした。

 先ほど腕の中で抱かれてた状況では妙に落ち着いてはいたが、いざ離れると正常な恥じらいが心を覆う。


 

「だっ、大丈夫よ! 家はすぐ……ってこともないけど、十五分ほどだから」

「普通に歩いて、だろ?」


「問題ないわっ。ほら、こうやって片足で……」

「さすがに飛び跳ねては帰れないだろ」



 両手を広げて片足立ちになるにゃんこ少女。

 そのまま一歩も動けず静止している後ろ姿に、再び噴き出す志門。

 顔を真っ赤にして何もいえずにいる少女の横を通り過ぎ、「ほら」と彼が膝をついた。



「……その、じゃ……遠慮なく」

「ああ」



 軽々と彼女を背負うと、志門は来た道を戻り始める。

 人もまばらな早朝の列車が、レールの音を響かせながら過ぎ去っていった。

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乙女サシテ恋心 日結月航路 @kouro-airway

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