最終話「幸せなはずの世界」
※※※
「道案内はここまでだ」
光圀一行は忍び里の地下、要石〈大隠石〉が鎮座する部屋に案内されていた。案内役にされた凍早は不機嫌そうに腕を組んでいる。
「お前、これからどうするんだよ」
「……無龍様を追う」
凍早は目を逸らした。
激闘の後、月世が暴走を始めたあたりから、無龍の姿が見えなかった。光なき彼の超感覚が、もしかしたら、その後の展開を察していたのかもしれなかった。
月世の敗北と、忍び里の壊滅。そして、凍早が自分の意思で八兵衛と共闘したこと。泰平の世を望む無龍に、その結末はどう見えていたのだろう。平和への希望か、更なる混沌への絶望か。その真意は知れない。
「会って、彼の方のお気持ちを確かめる。そして」
一呼吸。凍早は次の言葉を探しているように見えた。
「……探す。無龍様が、幸せになれる方法を」
躊躇いがちに言葉を紡ぐ凍早の顔が珍しく、八兵衛は笑った。
「……わかった。気をつけろよ」
「貴様ごときに心配される覚えはない。忘れるなよ。私の目的は、無龍様が夢見た泰平の世だ。あの光圀の言う〈世直し〉とやらが、私たちに害をなすようなものならば、今度こそ貴様らを打ち滅ぼす」
アイスブルーの瞳が、八兵衛を刺す。その言葉には、含みも言外の意図もなかった。
「……ああ」
「ふん……では、私は行く。せいぜい私たちに迷惑がかからんよう、うまくやれよ。八兵衛」
踵を返し、凍早は去っていった。八兵衛たちが天井に大穴を空けたせいで大瀑布の水が流れ込み、そこらじゅう水浸しであったが、水音がまるでしない静謐な足取り。八兵衛は姿が見えなくなるまで、見守っていた。
「八兵衛、始めますよ」
助さんの声に振り向くと、部屋の奥に鎮座する〈大隠石〉に光圀が触れようとしているところだった。水晶の原石のように半透明の石の内部で、黒灰色の煙のような何かが渦巻いている。煙都の〈大煙石〉をはじめ、今まで浄化してきた要石はどれも紫がかった濁った寒色系の光を放っていたが、目の前の〈大隠石〉。光すら放てぬほどに濁り切った、こんな色を見るのは初めてだった。
「人体実験や、過酷な修練の果てに命を落としていった忍びたちの……絶望や殺意を全て吸収していたのでしょう。これを浄化すれば、龍脈の状態も少しは良くなるはずです」
助さんの説明に、八兵衛は釈然としない表情だった。
「……この石を浄化すれば、世直しは終わりってことなのか? 今までお前らが〈百ヵ所の要石を浄化すれば世直しができる〉って言ってたから着いてきたけど……正直、今はとてもそうは思えない」
助さんは振り向かずに、
「要石は〈願いを喰い、その力で因果を捻じ曲げ、叶える〉ものです。食わせる願いと、叶うものの比率は石によって異なりますが。この性質は、本来、龍脈全てが持っているものなのです。龍脈の集まる場所、龍穴……その龍穴で長い時間をかけて生成される霊力の結晶が、要石です。しかし、要石は願いを食えば食うほど濁っていき、要石が濁ると、周囲の龍脈の霊流を阻害してしまいます。つまり、今までお嬢が行ってきたのは、龍脈の流れを正常に戻すことに他なりません」
「ってことは……」
「理屈では、龍脈を治せば、この国各地に暮らす人やそれ以外の生命が、少しずつ願いが叶いやすくなる、ということです。煙都の時のような異常値もありますが、均せば、その力はほんの小さなものですがね。それでも、私もお嬢も信じているのです。それは無意味ではないと」
八兵衛は頷いた。小さな変化かもしれないが。そうだったとしても。
それでも、この旅が無意味でなかったことの証があれば、報われる気がした。
光圀は右腕に印籠の鎧を纏わせ、拳を石に打ちつけた。
石の中の黒い澱みの運動が激しくなる。溜め込みすぎた願いや感情があまりに大きいのか、石そのものも揺れ始め、地鳴りのような音を立てる。振動で石の端が欠け、欠けたところから黒い煙が急速に噴き出していく。
「だ、大丈夫なのか……?」
光圀は何かを堪えるように喘ぐ。煙は急速に拳に吸い込まれていく。光圀が一際大きな声をあげると、煙はさらに速度を上げた。煙は何かに擦れるような音を立て、音がするたびに小さな稲光を発する。
「……うあああああッッ!!!!」
光圀は叫び、拳を引き抜いた。
音が止んだ。見ると、〈大隠石〉の中から黒い澱みは消え去り、白い光を湛えていた。柔らかな光が、あたりを照らしている。
「終わった……のか?」
光圀はあたりを見まわし、何か変化が起きていないか確認したが、
「……えっと、た、多分。これで、終わりだと思う」
きょとんとした顔で、どう反応すれば良いのかわからない様子だった。龍脈は通常、人の目に見えない。活性化しようが、流れが正常になろうが、視覚的にわかるような変化は望めないものなのかもしれない。あっけない。どこか拍子抜けしそうな雰囲気が漂い始めていたが、光圀の表情は次第に決意に満ちたものになっていった。
「でも、ね。でも、ここから、わたしの本当の〈世直し〉が始められるんじゃないかって思うんだ。要石を浄化するのは、わたしの〈光圀〉としての役目。それで、これからは、またみんなで国中を旅して、人を助けるんだ。わたしの、わたし自身の〈世直し〉をするんだ」
助さんと八兵衛は微笑んだ。
「もちろん、最後までお供いたします」
「約束したからな、俺も」
光圀は二人と目を合わせ、強く頷いた。
が、あることに気づいた。
「あれ……ねえ、格さんは?」
この部屋に着いてから、そういえば見ていない。この部屋は忍び里の最下層に位置しているから、途中で逸れてしまったのか? いや、しかし。
名を呼び、探そうとした。
だが、できなかった。
「うわあっ!」
光圀は異変に気付き悲鳴をあげた。右手に持ったままの印籠が震えている。中で重い何かがめちゃくちゃに暴れ回っているような、ランダムな振動。印籠表面の継ぎ目が、内から光を放っている。震えも、光も、とても激しい。尋常な様子ではない。
なんだこれは。あまりの勢いに印籠を取り落としそうになるが、光圀の本能が伝えていた。絶対にこれを手放してはいけない。それはもしかしたら、何かを察した氷砂の意思だったのかもしれない。
印籠にひびが入る。亀裂の裡から、何かが噴き出した。
「!!!!!!!」
何色とも形容し難い光が激流となって〈大隠石〉に流れ込んだ。今まで光圀の印籠が吸い取り浄化してきたエネルギーが放流される。なぜだ。わからない。湖の水を全てピンポイントに注ぐように、およそ百ヵ所分蓄積された膨大な霊力が全て石に流れていく。
「だめ……止まって!!!!」
光圀が叫んだときには、すでに印籠が溜め込んだ力の全てが注がれた後だった。光圀は訳もわからず膝をついた。
「な、何が起きたの……助さん」
しかし、助さんも見当がつかないようで、混乱した面持ちで立ち尽くしていた。
この異常事態に答えをもたらしたのは、意外な人物だった。
「よお、百ヵ所めぐり完遂、ご苦労さん」
軽やかに響く足音。麦畑のような金色の髪を揺らし、声の主が姿を現した。その姿を見て、八兵衛は目を見開いた。
「八咫郎……!?」
実験室で別れたきりの八咫郎が微笑んでいた。
面識のない光圀と助さんは、警戒の姿勢をとる。
「助けたかった子に会えたのか、良かったな、八兵衛」
人懐っこい微笑みが、明るい声色が、今の八兵衛には強烈な違和感を与える。
「そんな怖い顔すんなよ。短い間だったけど、俺たち、仲間だったろ?」
「そうだけど……お前、今、なんて言った? 百ヵ所めぐりって、なんで俺達のことを知ってるんだ……? お前、俺のことを騙してたのか?」
八咫郎は大仰な仕草でため息をつく。
「ひどいこと言うなよ。俺は最初から嘘なんて一つも言ってない。言わなかったことはあるけどな」
「お前……何者だ」
腰に手を当て、頭を掻く。
「……説明が難しいな。簡単に言うなら……そっちのお姉さんと似たようなもんだ」
緩く伸ばした人差し指は、助さんを示していた。助さんは怪訝そうな顔で警戒を続けていたが、その目はやがて驚愕に見開かれた。
「……まさか」
「八兵衛。俺の目的はお前に初めて会ったときに言った通りだ。俺は、俺の愛のためにここまできた。この地に、ここの龍穴深くで眠っている、俺が愛する女を助け出すために」
微かに地面が揺れ出した。
「彼女を救い出すには、ある条件が必要だったんだ。ここの龍穴は深いが狭い。人が一人も通れないほどにな。だから、龍穴を削って、広げられるほどの、膨大な量の霊力が要る。ちょうど……要石100個分に溜め込まれたくらいの霊力が」
揺れが大きくなる。
「どういうことだよ。お前が、光圀を操ったって言うのか?」
「そんなこと、俺にはできないさ。そっちの銀髪の嬢ちゃんが百ヵ所の要石を浄化するように動かしていたのは、嬢ちゃんに埋め込まれた鬼の脊髄からの命令だ。でも、その命令は……」
助さんがその声を遮った。
「あり得ない! そんなことは、移植前の鬼の脊髄に行動を縛る呪法を書き込まない限り……!」
「流石、詳しいな、佐々木志乃どの」
瞬間、助さんが斬りかかった。が、八咫郎の手甲にその斬撃は止められる。
「なぜ……その名を!」
「どうでもいいだろ、そんなことは。あんたの言う通り、そこの光圀ちゃんの脊髄には、あらかじめ命令が書き込まれていたんだよ。国中の要石を周って、自らの印籠に霊力をためろってな」
「何のために、そんなことを……!」
助さんは刀を弾き、距離を取る。八咫郎は斬撃を防いだ手を痛そうにぷらぷらと振った。
「決まってる。封印を解くためだ」
助さんは一瞬その意味を判じかねていたが、やがて何かの結論に至り、その場に膝をついた。
「あり得ない。〈彼女〉は想定していたとでも言うのですか。自らが封印されることすらも……いつから……いつからそれを!」
八咫郎は笑った。いつもの飄々としたものではなく、怒りに顔を歪ませたような笑顔。
「最初からだよ」
爆発。地鳴りの音が弾けた。
大隠石が直視できないほどに白い光を放つ。
何も見えないほどの眩い光の中、石の中から、何かが現れた。
少女だった。
ただし、包帯、鎖、札、鋲、縄。人を戒める何もかもで、ことごとくがんじがらめにされた、棄てられた蓑虫のような姿。首から下を全て厳重に包まれた様は、さながら棺であった。
一見禍々しいまでの出立であったが、顔面にも巻きつけられた包帯の隙間からかろうじて覗く、金色の片目と、一本一本が淡く発光している髪は、神々しさすらも感じさせた。
〈彼女〉を守るように、八咫郎は前に立つ。膝をついた光圀と助さんを順に見た後、立ち尽くす八兵衛に視線を向けた。
「八兵衛、お前は立ったままなのか?」
「何言って……!」
八咫郎が小刀を投げ付けた。八兵衛はすんでのところで伏せ回避するが、異常なことが起きていることに気づいた。警戒姿勢をとっていた八兵衛の反応速度を持ってしても、今の回避は紙一重だったのだ。凍早すら遥かに凌駕する技量。底知れぬ威圧感に、八兵衛は伏せたまま起き上がることができなかった。
「頭が高いんだよ、お前」
八咫郎は姿勢を正すと、告げた。
「こちらにおわすお方をどなたと心得る。〈天帝計画〉最初の成功個体にして、最高傑作。原初の〈光圀〉。天より照らす光もて、国を導く救世主。〈天照光圀〉にあらせられるぞ!」
一同の表情を驚愕の色が染めた。
原初の〈光圀〉。天の名を持ちながら、龍穴深くに封じられた、禁断の存在。
その前に、誰もが伏せ、首を垂れていた。
その様を無表情に眺めていたがんじがらめの少女は、わずかに瞳を動かし八咫郎を見た。弥太郎は目に涙を滲ませ、頷いた。
「ああ、始めるぜ。本当の〈世直し〉を」
ぞろり、と、棺のようにぐるぐる巻きにされた包帯がざわめき、隙間から腕が伸びた。痩せ細った、骨のような。枯れ枝のような手を、ぎしぎしと開く。
その手が開き切ったとき、世界が真っ白になった。
あまりに明るい、眩すぎる光は、それが広がる様すら誰にも観測させなかった。何の脈絡もなく、それが光であるとさえ誰にも認識されず、その場にいた全てものもの視界を、むらのない完全なる白一色で塗りつぶした。
光圀達は目を閉じ、腕で顔を庇ったはずだった。だがその光は、瞼も、腕の肉や骨をも透過する。通常、生命体が感じることがないほどの光量。しかしてその光は、数秒のうちに収まった。景色から白色が引いていく。不思議と網膜が焼きついたような感覚はなく、光圀達は程なく視界を取り戻した。
「……え?」
蘇った景色。
先ほどまでの忍び里、〈大隠石〉の間である。
だが、そこからは、八咫郎と〈天照光圀〉の姿だけが忽然と消えていた。
彼らが何をしたのか、そして何が起きているのか、かけら程もわからない。
そして。
「ねえ……格さん、どこに行ったんだろう。誰も見てない?」
助さんと八兵衛は混乱した表情で首を振る。
その時、上方で音がした。
地鳴りのような振動と、
「……声……?」
三人は立ち上がると、弾かれたように走り出した。しかし、ここは忍び里の最奥部。来た道を戻るには、あまりに時間がかかる。光圀は何かに気づき、印籠を再び手にして力をこめる。印籠は瞬時に、腕を覆う白銀の甲冑に変じた。
「二人とも、掴まって!!」
助さんは甲冑に、八兵衛は光圀の手を取る。
「いっけえええええ!!!」
光圀が叫ぶと、甲冑の隙間から銀光が弾け、真上に向かって飛翔した。〈大隠石〉の間の天井に空いた大穴を潜り抜け、月世と激闘を繰り広げた場所まで、まっすぐに辿り着いた。印籠の変形を解き、着地する。そこには、月世が変貌した肉塊の成れの果て、煤のような黒っぽいものの山が残っていた。
さっきの音は何だ。辺りを見回す。
光圀は、煤の山の上に人影をみつけた。
「格さん!」
人影は、紛れもなく格さんだった。煤山の頂上に佇んでいる。
「どこ行ってたの! 心配したんだよ! それに、さっきの音……」
言いかけて、光圀は言葉を止めた。
気づいたからだ。
格さんはいつものような飄々とした笑顔を返している。だが。
その手にあるものは。
「いやあ、ごめんごめん。こいつ、まだちょっとだけ生きててさあ。トドメを刺したらすげえ声出しちゃって。うるさかったよな」
「格さん……なに、持ってるの……?」
煤に塗れた、長い何か。白っぽく硬質で、無数の節に分かれている。
背骨だった。
月世の残骸から抜き出した、鬼の脊髄。
光圀の視線がそれに向いていることに気づき、格さんはばつが悪そうに笑った。
「あらら、見つかっちゃった」
「答えて……何してるの……?」
大きくため息をつく。瞬間見えた表情は、見たことがないほどに悲しそうなものだった。
「あたしさ、ずーっとこれが目的だったんだ。鬼の脊髄。でも、みっちゃんのこと、本当に好きになっちゃったからさあ。みっちゃんとは別の〈光圀〉がいるってわかった時は、嬉しかったなあ」
「わかんない……わかんないよ! 何言ってるの?」
一歩踏み出した時、光圀は背中にずんとした痛みを感じた。
振り向くと、そこには見知った少女がいた。
「火和……ちゃん……!?」
牛火村の少女、火和だった。手には細い刃のついた何かの器具を持っている。刃の先端はわずかに血に濡れている。
火和の表情は怯えているようだったが、それ以上に、双眸には怒りが燃えていた。
「おみつちゃん……じゃなくて……〈光圀〉! お前も、あたしからお姉ちゃんを奪った奴らと一緒だ。あたしを裏切った……嘘ついた!!!」
「なんで……ど、どういうこと……??」
火和は格さんの方へ走っていく。格さんは脊髄を抱えたまま煤の山を滑り降りた。
「おう、そんじゃ、行くか。出せよ、持ってきてんだろ、あたしの分も」
格さんが手を突き出すと、火和は不服そうに懐から腕輪のようなものを取り出して手渡す。
「……あんたのこと、信用したわけじゃない。でも、あんたがマガナちゃんの……」
「それでいい。あたしみたいな嘘つき、信用するもんじゃねえよ」
腕輪を何かの手順で叩くと、格さん達の足元に、神経網のような形の光が浮かびあがった。
「これ、すげえ酔うから嫌いなんだよな……」
光が強くなる。
それがなんなのか分からなかったが、格さんと火和がどこかに行こうとしているような気がした。光圀達は二人に駆け寄った。
「格さん!全部嘘だったの!? わたしを励ましてくれたのも、守ってくれたのも、全部!」
「答えなさい……あなたは誰なんです!」
格さんは決まりが悪そうな笑顔を浮かべるだけだった。
「……全部嘘だったら、あたしも楽だったんだけどね」
光が弾ける。そこに二人はすでにいなかった。
風が吹いた。煤が散っていく。
どさり、と、光圀が膝をつく音が響いた。
※※※
この後、光圀と助さん、八兵衛、そして倶炎童子は忍び里を後にした。格さんの行方は杳として知れなかった。
格さんの真意を確かめるために、四人は再び旅に出た。
道中で村や街を巡る。
そこで光圀達は信じられないものを目撃した。
訪れた村や街、そのどこもが、極めて幸福な状態になっていたのだった。
人々は互いを思いやり、助け合う。争いも掠奪もなく、圧政も理不尽も、どこにもなかった。
〈世直し〉が、完了していたのだ。
しかし。
微笑みながら畑仕事をする農夫も、老人を支えながら山道を行く子供達も、大繁盛する食堂の騒がしい常連客達も、その誰もが、光圀達を一目みた瞬間に、目を逸らす。
村に足を踏み入れれば家々は戸を閉め、重い荷を背負った老人に声をかければ無視され、子供達が取りこぼした鞠を拾えば逃げられる。
幸せなはずの世界に、光圀達はどこにも居場所を失くしていた。
鬼光圀 〜光圀ちゃん諸国漫遊記〜 ニベオカシンヤス @shinyath
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