泡になる夜

スケキヨ

泡になる夜

 心から愛する王子様が隣国のお姫様をお妃に迎えると知った夜、人魚のお姫様の心は悲しみの底へと落ちていきました。

 その悲しみは深く深く、かつて住んでいた海よりも深く。

 暗く寂しい悲しみの底で、人魚のお姫様はこれまでに失ってきた数多くのものを思い出しました。

 人魚のひれ。

 自慢の声。

 大切な家族。

 全ては人間の足を手に入れて王子様に愛される為に。

 けれど、もう王子様の傍にはいられない。

 人魚のお姫様は、寝所で眠る王子様とお妃様の姿を見て、泡となって消えることを迷わず選んだのです。






   〈 泡になる夜 〉






 真珠のような月明りの夜の事でした。

 人魚のお姫様は甲板に出ると、穏やかな波の音に耳を澄ませながら、昼間の出来事を思い出していました。

 若いお妃様を迎える為に用意された豪奢な船上で挙げられた結婚式。

 陽の光が降り注ぐ下、国中の教会の鐘が鳴り響き、何羽もの白い鳩が飛び立ちました。

 溢れんばかりの拍手。

 たくさんの人たちが王子様とお妃様を祝福していました。

 やがて日は暮れ、宴が始まり、絶え間なく大きな花火が打ちあがりました。

 降り注ぐ花火の光は、人魚のお姫様の長く波打つ髪をキラキラと輝かせ、その悲壮感が漂う美しさに多くの者は目を奪われていました。

 しばらく賑やかにしていた甲板でしたが、今はもうすっかり、まるで魔法がかかったかのような静けさが立ち込め、空になった酒瓶と酔いつぶれた船員がそこかしこに転っていました。

 人魚のお姫様は欄干に手をかけると身を乗り出し、深い海色の瞳で水面をじっと見つめました。

 その華奢な片手には、短剣が握られていました。

 それは人魚の姉姫様たちが、可愛い末の妹が泡となって消えないよう、美しい髪と引き換えに深海の魔女から手に入れた大事な短剣でした。

 朝が来るその前までに、この短剣で王子様の命を奪えば、人魚のお姫様はあの懐かしい深い青へと帰っていけるのです。

 急がなければならない。

 しかし人魚のお姫様は、短剣を真っ黒な夜の海へと投げ入れました。



 「捨てて良いものだったのかしら」



 突然、聞こえた人の声。

 人魚のお姫様は驚いて後ろを振り向きました。

 すると、そこに立っていたのは、つい先ほどまで美しい垂れ幕のかかった寝所で王子様の胸に頭をのせて眠っていた若いお妃様でした。

 さらりとした上質なドレスの上にローブを羽織った姿のお妃様は、広い甲板を見渡し、泥酔した船員たちの姿を確認すると、その美しい眉をわずかにひそめました。


 「もったいないわ。姿を消すおつもりなのね。愛人の立場ではだめ?」


 お妃様は、人魚のお姫様が声を発する事が出来ないということを他の者から聞いていました。

 なので、お妃様は人魚のお姫様の返答を待たずに続けました。


 「わたくしからこんなことを聞かされるのは意外でしたか?あなたと王子様の関係については前々から伺っていましたから。 ぼくのかわいいお嬢さんあいつは妹みたいなものだからと呼ばれ、あなたの寝所は王子様の寝所の隣にあるとか。あなたと王子様の奔放な関係性を知らない者はいないでしょうし、今日の宴でも、あなたは誰よりも情念を込めて舞っていらっしゃったもの」


 お妃様の声音には、不思議なことに全くと言って良いほど毒気がありませんでした。

 それはまるで、幼い純粋な少女が事実を淡々と語るような雰囲気でした。


 「皮肉なものですね」


 お妃様は落胆したような声で言いました。

 どこまでも広がる海の上を流れてきた風が、人魚のお姫様の波打つ長い髪とお妃様のまっすぐな長い髪をなでてゆきました。


 「消えてしまえるあなたが羨ましい」


 お妃様はそう言うと、暗い海原を見つめました。


 「王子様がまだ少年の頃、乗っていた船が嵐にあって難破したのをあなたはご存じ?」


 人魚のお姫様はそれを聞いて、深い海色をした瞳を見開きました。

 知っているも何も、その嵐の夜、海の底へと沈みゆく王子様を陸へと引き上げ、命を救ったのは人魚のお姫様だったのですから。

 あの日、空が白々と明るくなる頃、人魚のお姫様は陸に王子様を横たえた後も、岩のかげに隠れてずっと見守っていました。

 間もなくして王子様は、近くの修道院から現れた少女によって命を繋がれます。

 その少女こそが、お妃様でした。


 「わたくしは、あの朝のことを今でも忘れない」


 お妃様は開きたくもない扉を開くかのように、少女の頃の記憶を紡ぎ始めました。



   大国の王子を乗せた船が嵐にあって難破した。



 あの嵐の夜のこと、近隣諸国の伝令たちが一斉に解き放たれ、その大事件は瞬く間に広まりました。



   王子様の命を救った者には、特別な恩賞を与えることとする。



 特別な恩賞。

 それは近隣諸国に対し大国との深い繋がりを与える、という意味をあらわしていました。

 王子様を一番に見つけることが出来たお姫様は、未来のお妃の座を約束されたのも同然だったのです。


 もしかしたら、うちの国の海岸に流れ着いているかもしれないわ。


 各国のお姫様というお姫様は、王様や女王様に言いつけられ、早朝の海辺へと王子様を探しに出かけました。

 お姫様たちは降って湧いて来たその結婚話に、決してきらめく夢など抱いていませんでした。

 それどころか、そこにあった気持ちは、お妃になれなかったときに背負わされる世にも恐ろしい責任でした。

 王子様の国は、それはそれは広い領土と大きな軍事力を有していましたから、近隣諸国は常に震えあがっていたのです。

 自分たちの国を背負い、お姫様たちは血まなこになって王子様を探しました。

 頭の良いお姫様は、効率良く統計に沿った探し方を。

 運動神経に恵まれたお姫様は、体力尽きるまで誰よりも根気よく探し続けました。

 何を考えているかを誰にも理解されないようなお姫様は、歌を歌ったり絵を描いたり、空想上のお友達とお喋りをしながら気の向くままに探していました。


 「中でも見ていられなかったのは、自分には何も無いと思い込んでいたお姫様たちだったそう」


 彼女たちは劣等感を抱え込む傍ら、家族や国のことをとても愛していました。

 だから一生懸命に王子様を探しました。

 王子様の未来の花嫁になれなかったそのとき、誰からも愛されなくなる自分の姿を想像したからです。

 彼女たちの探し方は、およそ要領の良い探し方ではありませんでした。

 それでも彼女たちは、一縷の希望を持って一生懸命に王子様を探し続けました。

 その姿の悲しさといったら。

 愛しさといったら。


 「わたくしは、王子様を探すお姫様たちの中で、〈 本 当 〉に何も無いお姫様でした。ただ皮肉なことに、否定したくてもしきれない嫌な能力を持っていました。悪い勘が鋭かったの」


 その勘は、呪いも同然でした。


 「必ず不吉なものを引き当てる力。知らない方が良いことを知ってしまい、見つけてはいけないものを見つけてしまう」


 お妃様はまだ少女の頃、修道院に預けられていました。


 「王女教育の為に修道院へ預けられていたというのは表向きの理由でした。わたくしの父である王様は、とにかく愛する女性が多くて…、わたくしの母は、お妃ではなかったの。本来であれば、わたくしは姫とも呼ばれることなく、修道院で一生を終える予定でした」


 ところがある朝、王城から修道院に早馬が駆け付けました。


 「王子様を探すよう、わたくしにまで命令が下ったのです」


 命令を下された少女は、早朝の浜辺へと嫌々向かいました。

 嵐の後の浜辺は不吉なにおいが、むっと立ち込めていました。

 破損した船の一部や浮き球とともに、随分と古い漁網が海藻と絡み合い汚い塊となって浜辺に打ち上げられていました。

 既に嫌な予感はしていました。


 きっと見つけてしまう。


 嫌な勘が働く予感に、少女の鼓動は早まりました。

 呼吸は段々と浅くなり、歩くのが辛くてたまらなくなりました。

 このままもっと浜辺へと近付けば、波の寄せるそこまで近付けば、きっと見つけてしまう。

 そうして、とうとう。

 浜辺で横たわる王子様を見つけた瞬間、少女は体中の血を抜き取られたような錯覚をおこしました。

 少女は見つけてすぐ王子様に駆け寄ることもできず、防風林のかげでひたすらお祈りをしました。


 どうか見間違いでありますように。

 どうか、どうか神様。


 「願いは届かず、わたくしはお妃に選ばれました」


 特別な恩賞として未来のお妃となることが決まった少女は、自国の宰相に泣いて縋りました。

 どうかこのことは、お妃が誰に決まったのかは、婚儀の直前まで内密にしてほしいと。

 そうせずには、少女の心は重責に耐えられませんでした。

 血まなこになって王子様を探したお姫様たちの念が、まるで怒る生霊となってどこまでも追ってくるような気がしてならなかったのです。

 全ては少女の妄想に過ぎませんでした。

 しかし妄想はやがて悪夢となり、夜ごと少女を追い詰めました。


 代わってもらえるものならば代わってほしい。


 「わたくしは自国に対して大した執着はありませんでした。国民は修道院に入れられたお姫様のことなんて知らなかったでしょうし。わたくしを不吉なものを見るような目で見る王様のこともあまり好きではなかった。まるでなんの責任も感じていない顔で笑う母に関しては大嫌いでした。だから、つまり、わたくしは何も愛していませんでした。最もお妃に相応しくないお姫様が、王子様を見つけてしまった」


 お妃になる年齢に近付くにつれ、少女の見る悪夢は酷くなりました。

 少女が目を覚ましている間も、悪夢は亡霊のようにしがみつき、思考を犯してゆきました。


 本当は、お妃になりたいお姫様なんて、一人もいなかったのではないかしら?

 王子様を探すふりをして、みんな本当は自分以外の誰かがこの重責を負ってくれないかと願っていたのではないかしら?

 今頃あのお姫様たちは、優しい人たちから慰められているのではないかしら?

 残念でしたけれど、よく頑張りましたね。

 立派でしたよ。

 あなたが重責を負うことがなくて、本当に良かった。

 そう言われて、お姫様たちは幸せに暮らしました。


 「だとしたら、わたくしの存在は一体なに?」


 お妃様の表情は凪のように穏やかで、感情の起伏などは全く見えませんでした。

 しかしその声音には、まるで長く追われている者が抱え込む、ほの暗い恐怖の念が込められていました。

 人魚のお姫様は自身の肩を両手で守るように包み込み、身を縮こませました。

 怖がるしぐさを見せた人魚のお姫様を見て、お妃様は一度考え込むように目を伏せ、はっきりとした口調で言いました。


 「あなただってそう、お妃になりたい訳じゃない」


 あなたはただ、王子様に愛されたかっただけ。


 「あの日、王子様を見つけた朝、防風林のかげから、わたくしはあなたの姿も見ていました。あなたは、あの場所にいた」


 人魚のお姫様は、はっとしました。

 お妃様がさっき言っていたことを思い出したのです。

 お妃様が持つ、呪いのような能力。

 知らない方が良いことを知ってしまい、見つけてはいけないものを見つけてしまう。


 悪い勘が鋭かったの。


 「あなた、人ではないのでしょう」


 お妃様がそう言ったやいなや暗雲が立ち込め、辺りは不吉な闇をはらみ始めました。

 さっきまでの静けさはまるで嘘のように、波はみるみる高くなりました。

 立ち上がった波は、大きな船体に体当たりするかのようにぶつかると、嫌にくさい飛沫を上げました。


 「幼い頃…、わたくしがまだ修道院に預けられるよりも前、乳母から聞いたことがあります。海に棲む妖の話を。その容姿と歌声で船乗りを惑わすとか」


 お妃様はそう言いながら、天候の変化にも気付かず眠りこけている船員たちを見渡しました。


 「あなたは望みをかなえた」


 あなたは王子様から愛された。


 「王子様があなたを忘れることはないでしょう」


 きっと王子様は、途中で失った女の子のことを思い出すたびに悲しむことでしょう。

 この先、何人のお姫様と夜を過ごそうと。

 次は湖の人魚と恋に落ちようと。

 はたまた森の精と恋に落ちようと。

 笑いの沸点が低く、いつも機嫌が良くて床上手だった、あの女の子はもういない。


 「去り際も完璧」


 あなたは最高。

 そして最悪。


 「あなた先ほど、寝所にいらっしゃったでしょう。でもそれは、眠る愛しい人の姿を見にきた訳じゃない。お妃となったわたくしの顔を間近で見る為。そして、わたくしが己よりも美しくない事を確認して、姿を消す事に決めたのでしょう」


 それを聞いた人魚のお姫様の深い海色をした瞳孔は、縦に細長く変化しました。

 そうして微笑むその様子は、お妃様が幼い頃に聞いた海の妖そのものでした。


 どっとはらい。

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