第3話 祭りのあと

2002年6月18日 15:25


その日、聡は午後の授業を一つ終えると、残りの2コマをサボり、キャンパスから歩いて5分ほどの菊池裕幸の住むアパートへ向かった。


部屋に着くと、ちょうどその時、にわかサッカーファンたちが集まっていた。


日本代表とトルコ代表のキックオフまで、あと10分というところだった。


「サトシ、おせーよ!」


「悪い、悪い。」



いつかテレビで見た、日本海に沈みゆく夕陽。そして、時に荒々しさを感じさせる大パノラマの水平線。


瀬戸内育ちの聡にとって、それらはまだ見たことのない光景だった。


実家を飛び出すという目的さえ果たせれば、彼はどこでもよかった。


大阪や福岡など、都市部でのキャンパスライフも思い描いたが、最終的に彼は山陰の小さな町での新生活を選んだ。


標高370mほどの山を切り開き、造られた学舎まなびやは、開学からまだ歴史が浅い。


その近代的な学習環境を求めて、漁業を主要産業とする人口5万人の町に、県内外からおよそ1000人の若者が集まっていた。


福岡県出身の裕幸の部屋は、親元を離れて進学してきた、いわば境遇の似た者同士の集まりだった。寂しがり屋の裕幸にとって、この状況は都合が良かった。


彼とはゼミが同じだった。


入学して間もない頃、石見銀山の見学へ向かう車中で席が隣になった。


「大森くんだっけ? 菊池です。ヒロユキって呼んでもらえば。」


先に声をかけたのは裕幸の方だった。茶髪のツイストパーマにピアス。セレクトショップ系の服を着て、スパイシーな大人の香りがした。


「よろしく。それじゃ…ヒロって呼ばせてもらおうかな。俺も下の名前でいいよ、サトシで。」


「こっち来てまだバイトしてないの?」


「ちょうどこの前、ファミレスの面接を受けてきた。6月からシフトが入れられそう。」


「ヒロはどう?」


「駅前にレトロな喫茶店あるだろ? 入学前の下見に来た時に可愛い店員さんを見かけて。」


「はは…。それで?」


「その子がちょうどスタッフを募集してたから、入学式のあと速攻で面接してもらった。」


「その後どうなったの?」


「あぁ、その子? 俺の彼女。正確には、俺の元彼女。」


「えっ!? どういうこと?」


「バイト始めてすぐに告白したんだ。一目惚れしましたって。そしたらアッサリ付き合ってくれた。でも、とんでもなかった。そいつ、いろんな奴と遊んでるんだ。見た目は大人しそうなくせに。」


「マジか、それはヘコんだろ。」


聡は少しだけ同情したが、すぐにその気持ちも消え失せた。


上半身を起こした裕幸は、マイクロバスの中を見渡し、女子の位置を確認すると、聡に小声で呟いた。


「コンドームひと箱分の付き合いだったわ。」


飄々ひょうひょうと話す裕幸には、その時点ですでに他に気になる子がいるようだった。


裕幸は社交的なタイプで、高校時代のサッカー部ではキャプテンを務めていた。


当時からよくモテたことは、聡にも容易に想像できた。


「今度俺んちおいでよ、サッカー観ようや。」


ちょうどワールドカップの開催を一年後に控え、日本代表はプレ大会に臨んでいた。そのテレビ中継をきっかけに、気づけば聡と同様、裕幸のペースに乗せられた仲間が一人、また一人と増えていった。


1年もあれば、それまでサッカーにあまり興味がなかった聡でさえ、日本代表はもちろん、各国の主要選手の名前くらいは覚えることができた。


聡にとって、友人たちと過ごす時間は、過去との決別や、新しい自分を得られた充実感に他ならなかった。



4年前に開催されたフランス大会で念願の初出場を果たした日本は、二度目のワールドカップで、ホームというアドバンテージを活かし、初の勝ち点、初勝利、初のグループリーグ突破と、日本サッカー界にとって大きな躍進となる結果を残した。


列島の期待を一身に背負い、トルコとの決勝トーナメント初戦に臨んだ日本代表だったが、雨が降りしきる仙台であえなく敗れ、ホスト国としての大会をベスト16で終えた。


すっかりサボり癖のついた学生たちの落胆も色濃く漂っていた。


「今日はこのまま皆で晩飯食わん?」


低いテンションで部屋の主人あるじが口を開いた。


「いいね、回転寿司でも行く?」


「うーん、雨降ると面倒じゃね。ゆっくりイタリアの試合も観たいし。」


「確かに。ピザでも頼もうか。」


時刻はまだ17時半だったが、厚い雲に空は覆われ、初夏だというのに外は暗かった。


物持ちの少ない聡と違って、裕幸の部屋にはコミックスやファッション誌、ゲーム機やそのソフトが所狭しと置かれていた。


ミニコンポの上には、ブルーハーツやDragon Ash、MONGOL800 などのCDが積まれていた。


聡はその山の中から GOING STEADY のアルバムを抜き取り、歌詞カードを数枚めくったところで手を止めた。


「悪い、俺、今日バイトあるけん、もうちょっとしたら行くわ。」


聡が切り出した言葉に、すかさず裕幸が反応した。


「今日はマドカさんおるん?」


「いや、火曜は大抵休みじゃないかな。」


「そうなんや。マドカさんおるなら聡のところに食いに行っても良かったのにな。最近マドカさんとはどうなの?」


「いや、どうって…。別に何もないよ。」


「ほんとに?」


「うん、たまにバイト先のメンバーでご飯行ったり遊んだりするくらいだよ。」



——ばんマドカ


聡の働く道の駅の正社員。ファミレスのフロアスタッフを務めていた。聡の4つ歳上で、関西の短大音楽科を卒業したあと、Uターン就職していた。


吹き出物一つない透き通るような白い肌、そして細眉に黒髪のショートボブ。


スレンダーというよりは、骨太で肉付きがほど良く、それが絶妙な大人の色気を漂わせた。


マドカファンの常連客は多く、聡の友人たちにとっても憧れのお姉さんだった。


繁忙期はオーダーミスやせっかちな客からのクレームなど、何かとフロアスタッフと厨房スタッフの連携に不具合が生じやすい。


あるとき、注文した子供の料理が出てこないことに激高した客が、新人の女性スタッフを怒鳴りつける一幕があった。配膳の順番を取り違えたことが原因だった。


堪えきれなくなった彼女は、とうとう泣きながら厨房脇の通路を抜け、更衣室へと入ってしまった。


賑わう店内が一瞬静まり返ったが、他の客も気まずさを打ち消すように、すぐに談笑を再開した。


聡が優先的にお子様メニューのハンバーグを焼き上げると、マドカがそれを持ってフロアへと出ていった。


聡の位置からちょうど客席が見えたが、不在の店長に代わり、マドカが深々と頭を下げ陳謝した。場が落ち着いたのか、マドカと言葉を交わす客の顔から笑みが溢れる。


マドカはその後すぐに更衣室にいる彼女のもとへ行き、持ち場へ戻るよう促した。このような場面でも、マドカの存在は絶大だった。


「お母さんがうちの家系は安産型っていうの。」


そう言って自虐的に周囲と談笑できるあたりに、マドカの大人としての余裕が伺えた。


マドカは、聡がアルバイトを始めた当初から執拗に彼を気にかけ、大学での出来事などを興味深く聞いた。


「大森くん、夏には花火してさ、冬になったらお鍋囲もうね。」


聡にとってマドカとの出会いは、大学1年目のハイライトだった。


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