第2話 たられば
聡は愛媛県の山あいにある、みかん農家の長男として生まれ、高校を卒業するまでの18年間を過ごした。
家のすぐそばに急傾斜の「みかん山」があり、そこが幼い頃の遊び場だった。
大森家では、温州みかんのほかに、伊予柑、ポンカン、ネーブルを生産しており、聡はネーブルが一番の好物だった。
鮮明に残る記憶は、霜が降りた冬の朝だ。冷え込みの厳しい日は、決まって祖父が山の中腹にある広場で火を焚いてくれた。
聡は、あちこちに落ちている杉の葉を両手いっぱいに集めては火の中に放り投げた。そして、それがパチパチと爆ぜながら、もくもくと煙を上げる様子を眺めていた。
昼間になると、南向きの斜面全体に柔らかな陽射しが行き渡り、山の木々がたくさんの実を蓄えていた。収穫の時期になると、親戚連中も集まり、大森家は賑やかだった。
聡も小学生になると冬休みは収穫の手伝いをし、お駄賃をもらった。右手に鋭利な鋏を持ち、傾斜に足を取られないようしっかりと踏ん張り、肩に掛けた収穫カゴにどんどんみかんを入れていく。かなりの重労働である。
山の麓には倉庫があり、出荷を待つみかんのコンテナが整然と積まれていた。収穫後はここでの選果作業が待っている。大小複数の穴の空いた定規を使い、一個一個手作業で選り分けていく。キズものは「ジュース」と書かれたコンテナに弾かれた。
広い倉庫内は冷え切っていて、静かな音を立てる石油ストーブの周りだけが温かった。
「ちょっとひと息入れようか。」
父親が声をかける頃には、ストーブの上のアルミ鍋で、UCCの缶コーヒーが素手で持てないほど温まっていた。
聡が物心ついた時には、祖母はすでに他界していた。その分、母親にかかる負担は大きく、家事や農作業を黙々とこなす姿を見て、聡は密かに尊敬していた。
母親は時折、嫁いだ後悔を漏らすことがあった。ブランド品とは無縁で、スーパーの婦人服売り場の安価なものしか纏わず、家族旅行のような贅沢もなかった。それでも母親は聡や妹たちに優しく、笑顔を絶やさなかった。
だが、夜になると祖父の酒癖の悪さが問題となることがあった。座敷で酒が進むと、母親に対する態度が大きくなる祖父に、聡は嫌悪感を抱いていた。それでも、大森家はどこにでもある「普通の家」だと思っていた。
——あの夜までは。
◇
それは聡が中学3年のある晩、9月の中頃のことだった。父親は仲間と趣味の夜釣りに出掛けており、帰宅は日付を超える予定だった。
時計の針が22時半を回り、妹たちはぐっすり眠っている。寝る前に水を飲もうと2階から1階へ降りてきた聡は、リビングの開き戸の向こうに信じがたい光景を目にした。
台所に立つ母親の背後に祖父がいた。体を密着させ、母親の上半身に腕を絡めていた。聡の位置から二人の表情は見えなかったが、母親は軽く俯き、抵抗する様子はなかった。
聡は強烈な喉の渇きに耐え、大きな咳払いをした。その音で祖父は母親から体を離し、聡はできるだけ普段と変わらない態度でドアを開けた。
「あぁ、ここにあった!それじゃそろそろ寝るわ。おやすみ。」
聡はリビングのテーブルにあった数冊のコミックスを手に取り、その場を離れた。背中越しに母親が「おやすみなさい」と声をかけてきたが、その声はどこかかすれていた。
自分の部屋に戻った聡は脱水症状のような立ち眩みと頭痛に襲われ、そのままベッドに倒れ込んだ。
「普通の家」だと思っていた大森家の光景が、その夜を境に脆くも崩れ去った。
◇
母親はその頃から貧血を理由に体調を崩しがちになった。父親は心配していたが、事態の深刻さには気づいていなかった。聡もまた、父親に真実を伝える勇気が持てず、母親も全てを自分の殻に閉じ込めてしまっていた。
母親の体調はみるみる悪化し、聡が高校入学を目前に控えた春、母親は入浴中に倒れた。その後、母親は植物状態となり、家族の生活は一変した。
◇
多感な時期に母親の病気と家庭の問題が重なり、聡は家庭に対するコンプレックスを抱えるようになった。高校時代は同級生や教師との関わりを避けるようになり、次第に孤立していった。
母親のいない家に耐えられなくなった聡は、大学進学を機に県外に出ることを決意した。父親は反対しなかった。
故郷を離れる日、聡は母親との最後の会話を思い出していた。
「あなたがいなくなることは想像もつかないほど悲しいけど、最初からなかったものだとしたら悲しみようがないわよね。」
母親は笑いながらそう言った。その言葉が妙に胸に刺さり、聡は笑いながも泣いていた。
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