鳴り砂

Aki Takanawa

第1話 テーハミング 

——2002年6月18日 22:20



 さっき見たオレンジ色のワンピースが、薄暗い部屋のベッド脇に脱ぎ捨てられていた。


 息を乱した男女が身体を寄せ合う。


 男の顔はまるでモザイクが掛かったように見えないが、きっと30歳くらいで仕事のできるモテ男だ。

 一方、女の方は、顔も、声も、よく知っている。


 この瞬間を待ち侘びていたのだろう、互いに我慢を解いて一つになった。


 しばらくして男の動きが止まる。


 男に耳元で何かをささやかれた彼女は、汗で頬や額に貼り付いた短い髪を自らの指で流し、嬉しそうな笑みを浮かべた。


 ——やがて二人はキスをした。


 こんなシーンが聡の頭の中に浮かんでは消え、浮かんでは消え、アルバイト先からアパートに帰るまでのおよそ10分間、脳内リピートされた。


 そこがラブホテルなのか、或いは男の部屋なのか、いずれにしてもあの二人は一緒に朝を迎えるに違いない。


 そんな思い込みをするたび、眠れそうもない夜を億劫に感じた。


 バイパスの側道を原付バイクで走った。50ccのスクーターでは超えてはいけない速度だった。

 外灯が乏しく、すれ違った軽ワゴン車のハイビームで一瞬目が眩みそうになる。胸のつかえで空腹感はどこかへ押しやられていたが、皮膚にまとわり付く湿気、鼻に触れる匂いから、今にも雨が降り出しそうな気配だけは感じ取れた。


 駐輪場にバイクを停めた頃、ちょうどポツリポツリと雨粒が落ちてきた。


 聡が暮らすワンルームのアパートは、築2年が経過したばかりの新しい建物だった。木造2階建ての二棟ふたむねに全部で16戸あり、学生だけでなく社会人も入居していた。退去があってもすぐに新しい入居者が決まる人気物件で、空室が長期化することはなかった。

 聡の部屋は1階の中部屋だったが、比較的住人のモラルが高く、そこは静かな環境だった。


 大学の構内には家賃が安価な寮もあったが、キッチンやシャワールームなど共同で利用するスペースも多く、これを嫌った彼は父親に懇願し、入学当初よりキャンパスから少し離れた賃貸アパートで暮らすことになった。


 部屋に入り、肩に掛けた帆布はんぷのトートバッグを床に下ろすと、ベランダに干していた洗濯物を取り込んだ。

 手にしたタオルの湿っぽさが少し気になったが、聡はすぐにテレビのリモコンに手を伸ばした。


 スイッチをオンにした途端、物が少ない6帖間に大きな歓声が響き渡る。

 思わぬ音量に驚いた聡は、適当にボリュームを下げた。


 サッカーワールドカップの決勝トーナメント1回戦、韓国とイタリアの試合が中継されていた。


 開幕して3週間、夢の自国開催に日本は空前のサッカーブームに沸いた。


 渋谷のスクランブル交差点に集い、誰彼かまわず他人とハイタッチして感情を爆発させる若者。ベッカムヘアを研究し、オーダーに応える美容師。そしてサッカー教室の体験に群がるチビっ子とその親たち。


 各国のスーパースターをひと目見ようと、

スタジアムはもちろん、地方のキャンプ地まで熱心なファンで賑わった。


 一方、共同開催となった隣国韓国も代表チームが躍進し、国内の盛り上がりは日本に引けを取らなかった。


 そして大会はクライマックスを迎えようとしていた。


 この日、大田テジョンで行われていた試合は、90分で決着がつかず、延長戦に突入する白熱した展開になっていた。


 ちょうどイタリアのエース、フランチェスコ・トッティに、この試合2枚目となるイエローカードによって退場が宣告された場面だった。

 ブルーのユニフォームを着たイタリアの選手がレフリーを取り囲む。必死の形相で抗議するも判定は覆らない。


 スタンドを埋めつくした真っ赤な韓国サポーターの大合唱が、音量を下げた小さな画面越しからもしっかり響いてきた。


 聡は立ち尽くしたままその様子を観ていたが、アルバイト先で身体に染みついた脂の匂いを流したい気持ちが勝ってくると、テレビを消してバスルームへと向かった。



 聡が調理スタッフとしてアルバイトしているファミレスは、島根県西部、国道沿いの道の駅の一角にある。


 繁忙シーズンの夏になると、海水浴やサーフィンを目当てに県外からも多くの客が押し寄せた。


 道の駅には、聡の働くファミレスの他に、地物の魚を提供する和食料理店と大手ハンバーガーチェーン店、そして練り物などの特産品を扱う土産店があった。


 なかでもファミレスの窓際に配置されたテーブル席は、日本海に沈む夕陽を正面に見られる特等席で、カップルに人気だった。


 道の駅は小高い丘の上にあった。眼下には漁業を生業とする町並みが広がり、年季の入った建物が初めて訪れる人にも郷愁を与えた。

 一方、港と水産工業団地を結ぶ斜張橋しゃちょうきょうが周辺の海岸美と調和し、水産都市のシンボルとして未来を想わせた。


 水平線を染めた赤が濃くなるほど、空と海との境界を、そしてノスタルジックな町と未来の象徴との時空を曖昧にしていく——


 そんなロケーションで聡がアルバイトを始めたのはちょうど1年前だ。

 寮生活を避けたこともあり、父親からの仕送りだけでは不十分だった。


「あらやだ、いい男。」

 

 面接に行った当日、店長の元へ案内してくれたのは、パート従業員の光町みつまち富子だった。

 厨房での調理を担っているベテランで、母親と同年代と思われた。


 従業員は20人ほど在籍していたが、そのうち道の駅を運営する民間企業の正社員は店長以下3名のみで、あとのメンバーは主婦やフリーター、大学生、高校生などのパートアルバイトで構成されていた。


 厨房スタッフとフロアスタッフの二手にグループ分けされ、其々それぞれシフト勤務制となっている。

 

 ファミレスのメニューは、その調理方法のほとんどがマニュアル化されており、調理というよりは作業に近かったが、手際の良い聡のことを富子はとても気に入っていた。


 富子の他にも女性のパート従業員が複数名いたが、皆んな「もんちゃん」という愛称で可愛がってくれた。


 富子によれば、彼がぬいぐるみの「モンチッチ」に似ているから、ということだった。


 聡はここで週に4日間程度働き、大学2年生に上がる頃には、店長からも富子からもすっかり頼りにされる存在になっていた。



 シャワーを浴び、髪の毛の一本一本からすっかり脂の匂いは取れたが、聡の心は外の梅雨空そのままだった。


 再びテレビをつけると、画面の右上に、韓国代表のベスト8進出を告げるテロップが表示され、決勝ゴールのハイライトシーンが、スローモーションで流されていた。

 イタリアの選手は膝から崩れ落ち、しばらく立ち上がることができなかった。

 

 相変わらず韓国サポーターの興奮は凄まじかった。

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