君を盗る

外清内ダク

君を盗る



 別れたあとも半年に一度くらい連絡をとり、食事に行って、セックスをする。そんな関係を爛れていると思っていたのは多分俺の方だけで、君は気にもしてなかったよな。いつも無邪気にバスローブ姿でベッドに潜り込んできて、俺がクンニしてやると声もなく身を震わせていた。俺はその反応が嬉しくて、君が「もういい、もういい」と頭をタップしてくるまで、執拗に舌を働かせたっけ。

 だからあの日も、君から「焼肉食べたーい!」なんてLINEが来て、俺はすっかりその気になっていた。洗車もしたし、評判のいい焼肉屋も予約したし、近くのホテルだって抜け目なくチェックしておいたんだ。なのに君は、網から肉を取る手を不意に止め、目をうるませて真剣な顔をする。

「結婚することになった」

 俺はちょうど肉をトングでつまみ上げたところだった。やりかけた作業はキッチリ仕上げなきゃいけない、って信念が骨まで染み付いていた俺は、無意識のまますべての肉をひっくり返した。肉の焦げる音がする。ぽかんと馬鹿みたいに口を開けて、俺は馬鹿げたことを……問う。

「ほんとに?」

「……うん」

「そりゃ……」

 俺はスマイルってやつが苦手だ。表情が固いとよく言われる。社交上の必要に迫られて昔練習した笑顔の作り方を、思い出し、思い出し、どうにかこうにか作った顔が、ちゃんと適切な表情になっていたのか、俺には全く分からない。

「おめでとう」

 君は泣いた。ぼろぼろ泣いた。

「ありがと。サカキさんなら絶対おめでとうって言ってくれると思ってた」

 というのは褒め言葉だったのか? 俺は喜べばいいのか? 悲しいことに、今晩セックスするつもりでいた相手から結婚の予定を打ち明けられた経験なんて俺にはなく、こんな時どうしたらいいのかさっぱり分からなかった。でも分からないなりに動かなきゃいけない。会話は生き物だ。止まれば死ぬ。混乱した頭で俺は話題を膨らませようとし始める。式はいつ? 相手はどんな人? いい人なんだね、よかった……なんて、心にもないことをつらつらと。

 正直言って、ごめん、君が嬉しそうに語る結婚相手の話を、俺は半分も覚えていない。いつ出会って、どういうふうに仲良くなって、どんな人で……君は事細かに話してくれたけれど、俺の心に残ったのはただひとつ。

「ちょっとサカキさんに似てるんだ。顔じゃなくて、感じが」

 そう言って俺に向けられる、君の濡れた目。

 似てるんなら、俺でもいいんじゃない? 喉元まで出かかった言葉を俺は飲み込む。いいはずかない。良くないから、君は俺と別れた。「優しすぎて嫌だ」なんていう、よく分からない理由で。そして俺と半年に一度ホテルに行きながら、他方では数年かけて他の男との愛をはぐくみ、今、その男の妻となる。

 俺は肉を一切れ取った。すっかり食べ頃を逃したハラミは、もう炭の味しかしなくなっていた。



   *



 そのあとも、君からのLINEはちょくちょく飛んできた。ウエディングドレス着るためにダイエット始めたの、とか。式場の下見に行ってきたよ、とか。何度も食事にだって誘われたけど、あの夜以来、一度も君とは会わなかった。あの夜だって、焼肉食べただけでホテルには寄らずに帰ったんだ。連れ込んだって君は嫌がらなかったかもしれない。でも俺は、はっきり言って、君のことを億劫に感じ始めていた。婚約してる人と寝て賠償請求なんかされるのも馬鹿らしいし、それは俺の倫理観が許さないし、なにより、この胸の奥にある矜持のようなものが「それはダメだ」と主張していた。君が誰とも付き合っていないと思っていた頃なら、復縁のチャンスを期待してダラダラ関係を続けるのも、ま、いいだろう。でも今はダメだ。性欲に任せて人妻に手を出すなんてのは……魂の敗北だ。

 そうこうしているうちに半年が過ぎ、1年が過ぎ、君のLINEアイコンはウエディングドレス姿の写真に変わる。君からのLINEは来なくなった。君は幸せに暮らしてるだろうか。きっとそうだろう。そうだといいな。俺はいつまでも君のことばかり考えながら、日々の仕事をこなし、病院に通い、抗鬱剤ルボックスを飲む。休日には一日ベッドに横たわり、ずっと天井を見ていた。Netflixはもう何ヶ月も料金だけ支払って何も見ない状態が続いていた。

 そんなときだ。久々に君からLINEが届いたのは。

「聞いて! 子供ができたの!」

 ああ。

 聞きたくなかったことを聞かされた衝撃は、いつもまず胸の奥に突き刺すような痛みを走らせ、次に背骨から手足の先までを駆け巡り、最後に胃腸の重圧として俺ににじり寄ってくる。

 子供ができた。妊娠。幸せなセックスの結実。君が、他の男と――



   *



 時間が流れる。予定日が来る。君のLINEアイコンが、新生児の寝顔の写真に変わる。「生まれたよ!」君からのLINEに俺は応える。「おめでとう! おつかれさま!」そして子供の写真、写真、写真。赤子を抱いて笑ってる君。「かわいい」の一言に添える、好意的なスタンプの嵐。君から返ってくる「ありがとう」。

 どうして俺、こんなやりとりしてるんだろう。どの立場で。どの面さげて。

 2ヶ月ほどが経つ。君からまたLINEが来る。

「今度の日曜、赤ちゃん見に来ない?

 旦那は出張でいないから大丈夫」

 大丈夫?

 何が大丈夫?

 もう二度と会わないと心に決めたはずなのに、こんな一言で俺は揺らぎ始める。会いたい。会いたくないわけない。それ以上になぜか、赤ちゃんを見たいという静かな欲求もあった。君の息子。一度でいい。顔を見ておきたい。あわよくば抱かせてもらいたい。君の息子。君の血を分けた、小さな赤子。

 日曜日、俺は車を走らせた。君は夫婦の新居ではなく、実家の方にいるそうだ。道はよく知っている。何度も迎えに行ったことがある……

 インターホンを鳴らすと、懐かしい君の声が応えた。

 玄関を開けてくれた君。以前より少し丸くなった君。家の中なのにバッチリ化粧もして、たぶん髪も美容院で整えたばかりの君。無邪気に笑う君。吸い寄せられる俺。

 座敷に案内され、そこで僕は君の息子に対面した。厚く布団を敷いた籠の中で、音もなく眠りこけている赤子。白っぽいその頬が、窓から差す陽の光を浴びて産毛まできらめかせている。

「かわいい……」

 声が漏れた。LINEの返信とは違う、俺の本物の声が。

「ありがと」

「あ、忘れないうちに……これ、出産祝い」

「え? わ! ありがとー! 何入ってるの?」

「アカチャンホンポの商品券。哺乳瓶とかは他の人とカブるだろうし、玩具とか服は好みがあるし、消耗品はかさばるし、これが一番小回りがきいていいかなって。その時々で要るものを買うのに使ってよ」

「わー助かるぅー! そういう考え方、いかにもサカキさんだなあ」

 と。

 君は目を細め、俺の隣に腰を下ろし、そっと、身体を擦り寄せてきた。

 息が止まる。

 生ぬるい静寂の中で、君の呼吸の音だけが俺をくすぐる。

 君が膝を崩した。

 短いスカートが腿の付け根までめくれあがり、下着のレースの端をのぞかせる。

 あのときと同じ媚態びたい

 ラブホテルの、安っぽい照明の下で、バスローブをわざと着崩していた……あのときと。

 ――盗る!!

 君を掴む。押す。倒す。まさぐる。脱がす。しゃぶりつく。君は小さく悲鳴を上げて、その実腕を広げて俺の愛撫を受け入れる。畜生! 許せない! 愛おしい! 君を愛したくてしかたがない! 肉体と心とが希求するままに俺は君の首に、うなじに舌を這わせ、下へ下へと伝い降りていく。やりたい。君を喜ばせたい。かつて全身を震わせて喜んでくれたのと同じことを、今、ここで、嫌と言うまでやり続けたい!

 だからそうした。分かってる。どうかしてるのは分かってる! なのに身体が止まらない。どうしてこんな人を愛してしまったんだろ。どうしてこんなにやるせないんだろ。まるで野良母猫が仲の良い人間に子猫を見せに来るように、君は俺をここへ誘った。勝手だよ。まともな大人のやることじゃない。でもその誘いに乗った俺も! 君にこうして執拗に執拗に執拗に舌で奉仕し続けてる俺も、とっくにまともじゃなくなってるんだ!

 俺は求められたことをした。求めたことをした。君の中に自分の一部をねじ込ませ、欲望の赴くままに腰を振った。違う。違う。違う。違う! 俺がやりたいのはこんなことじゃない! 涙が止まらない! こんなセックスでなぜ俺は気持ちよくなっちゃってんだ!!

 ああ……

 あ……

 一時の狂騒が果て、俺はぐったりと、半裸の君の横に倒れ込んだ。君が最近薄くなりかけてきた俺の髪を撫でる。いかにも愛おしげなその手付きに、俺はぞっとする。必要とあらばこんなときでもそんな手付きが出来る人だったんだと、今さらながら俺は悟った。

 身を起こす。

 ふと、畳の上に置かれたままの籠が目についた。

 赤ん坊。君の息子は、自分のそばで何が行われていたかも知らず、無邪気に眠り続けている。俺は何気なく手を伸ばした。赤ちゃんの頬に触れた。柔らかい。そして、暖かい……

 あっ、と君が悲鳴を上げるのが聞こえた。

「サカキさんっ! !!」

 あ。

 あ……

 ああ……!

 そうだ。これだ。。君を犯したって汚したって何も壊れない、壊せない。何もかもぐちゃぐちゃに崩したいなら、本当に盗るべきだったのは君の貞操じゃない。君が心の底から本当に守りたいと思ってるもの、この子を奪うしかなかったのに。

 それなのに……なんだ、この愛おしい生き物は?

 社会も知らず、憎愛も知らず、ただ暖かな寝床の中で眠りを貪るだけの動物。その首に手を伸ばす。その気になれば、この首をへし折ることだって難しくはないのだろう。でも、俺には……どうしても、俺には……

 俺は立ち上がった。

 逃げるように立ち去り、逃げながら衣服を整えていった。

 君は止めもせず、また俺も、振り返りもしない。

 あれ以来、一度も君とは連絡を取っていない。

 時折更新されるLINEアイコンの中で、君の息子は、そろそろ幼児とは言えない歳ごろになりつつある。



THE END.

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