わたしは聖母にはなれない

パチンコに負けた日のアレは酷く機嫌が悪かった。

元よりわたしはアレが勝負事に勝って上機嫌になっているところなんて見たことはないが。

虫の居所が悪い時にサンドバッグが手の届く範囲にあれば殴らない理由はない。

ただし中に詰まっているのは雑巾ではなくて、血と肉と骨と臓物だった。

アレからしたら自分の娘も雑巾も似たようなものなのだ。

片足を掴まれて逆さまに持ち上げられると、頭に血が上ってクラクラした。

拳が振り上げられて、ボクシングの要領で腹部を殴打される。

わたしが痛みに濁った悲鳴を上げれば煩いと怒鳴られて、一面に広がる綿埃とゴキブリの卵が産み付けられた床に叩き落とされた。


洗面所な割れた鏡の中に映るわたしは、毎日違う場所に痣を作っていたけど、顔は変わらない。

ただある時から殴られても蹴られても何も感じない日が増えた。

小学校の先生もクラスの子達も、大半がわたしの顔を見て見ぬふりをする。

稀に面と向かって嫌悪を口にする子がいたが当然のことだ。

わたしは自分がおかしい事を理解していた。

小さな部屋の中で逃げ場なんか存在しない。

鼻血を垂らせば庭まで引きずり出されて、真冬だろうとホースで水をあびせられた。

背中を何度も踏みつけられて、灰皿で肩を殴られたこともある。

そんな地獄が終わりを告げたのは、小学校に入って四回目の夏休みだった。


なんの心変わりか長年行方を眩ませていた女親がわたしを迎えに来て、県外で一緒に暮らすことになったのだ。

それからアレとは会っていない。

わたしは他人の悪意に襲われて、別の人から庇われて、呪われたまま、生き続けている。

わたしは人が怖い。

痛みを感じない身体の癖に、心の暗い部分に触れすぎて同種に恐怖を抱いた。

怖いものは勿論嫌い。

わたしは人が嫌いで、自分も人である限りは嫌悪の対象だ。

でもそれだと生きていけない、だから余裕を傍らに控えさせるように、暗示をかける。

わたしは他人を嫌うという感情を凍結した。


白壁の家々が夕日を照り返して明るい住宅街。

花も葉っぱもない、裸の枝が伸びた桜の群れを通り過ぎる。

お目当てのカフェの前に到着すると、司くんはノブに手をかけて扉を開けた。

店内は若い男性の店員さんの他に、右奥のテーブル席に親子が一組、左手前のテーブル席には大学生くらいの男の子が一人座っている。

わたしと司くんは左奥のテーブル席を選んで、コートを脱ぐ。

店員さんがお冷をテーブルに置き、メニューを差し出すと、ビジネスライクな笑みを向けてきた。

ハンドメイド感満載の手描きのメニューから、わたしはベリーソースとバニラアイス載せパンケーキとホットレモンティー、司くんはデミグラスソースのオムライスとアイスティーを注文する。


店員さんは注文内容を繰り返し確認すると、会釈してカウンターの中に去っていく。

「ここのカフェ。一回は来てみたかったんだよね。ありがとう!司くん」

「うん。桐緒ちゃんが好きそうだと思ってさ」

「んふふふっ、嬉しい。大好き!」

司くんは照れたように頬をひっかき、わたしは笑みを浮かべる。

チョロいというかなんというか、可愛いよね。

馬鹿でお人好しで、わたしなんかを信じちゃう所がすっごく可愛い。

人間なんて信用するもんじゃないよ。

他人ってすぐ嘘吐くから。

「桐緒ちゃん。大学を出たらさ。け、結婚しないか?」

わたしは言葉の意味が一瞬理解出来ずに、ぽかんと口を開けてしまう。


しばし無言で見つめていると、司くんは緊張で強ばった顔のまま慌てたようにまくし立てる。

「も、勿論、別の時にプロポーズはちゃんとするつもりだけど!仮というか、予約というか、桐緒ちゃんが俺の彼女をしてくれてるだけで奇跡みたいなもので、これ以上望んだからいけないのかもしれないけど!俺は桐緒ちゃんだけを愛してるから!結婚したいんです!……駄目ですか?」

ん、とわたしは首を左右に振って大丈夫だよと応じる。

昔の彼は一人でも凛と歩いたものだけど、一度手を差し伸べたら慣れていないのか、すぐに堕落した。

溶けてしまった司くんは危なっかしい。


だけど、まるで運命だとか中学生の妄想みたいな台詞を吐きそうなほど、浮かれて笑って喜んでいる彼のことが、わたしは嫌いではなかった。

「いいよ。大学を卒業した後ね」

司くんは眉を下げて心底幸福そうに、笑う。

それから二人で同じ大学に入って、特に問題も無く卒業して、二十六歳の時に籍を入れた。

結婚式は沢山の人に祝福されて、新婚生活だって幸福に満ち溢れたもので、滞りなく順調だった、あの時までは。

結婚生活一年目のクリスマス、水族館に行った。

シロクマを見て、クリスマス仕様のイルカショーも見て、ペアセットのペンギンのキーホルダーを買って、お昼はしらすバーガーを食べて、近くの浜辺を歩いて、ちょっと地元まで帰って高校時代に好きだったカフェのパンケーキを食べて、きらきらの笑顔の司くんと手を繋いで帰宅する。


わたしは今日買ったばかりのペアセットのペンギンのキーホルダーの包装を開けて、司くんとわたしの持つ家の鍵に片方ずつ着けていた。

そしてふと、重要なことを思い出す。

「そうだった。わたし、妊娠したんだよね」

ズドンと鋭い音がして、司くんが転んだことに気づいた。

驚いて目を丸くしていると、司くんは手を握ってきて、わたしの身体をそっと引き寄せて抱きしめる。

「桐緒ちゃん。嬉しい。俺、すっげー嬉しいよ」

本当に、心から嬉しそうな笑みだ。

司くんの紫紺の瞳は吸い込まれそうなほどに深い色をしている。

わたしは彼の歓喜に満ちた声に、まるで異物について語られたような薄気味悪さを感じて、胸がコツリと硬く弾んだ。

失望した。

その一言に尽きるだろう。


わたしは全身を粉雪に叩かれながら、ざらついた木の幹を横目に歩いている。

吹雪の音は騒がしくて、耳の中でずっと男の人が喚いているようだ。

雪が素肌を打ちつけても、どうでも良かった。

わたしは白一色の景色を睨みつけながら足を進める。

身体機能が少しづつ壊れて、皮膚感覚と方向感覚を失いながらもひたすらに歩き続けた。

やがて崖に辿り着いたものの、雪が止む気配はまだない。

真下を見れば、真冬の海だ。

巻いていたチェック柄のマフラーを解いて、吐いた息は白い。

わたしは新たな生命の厚みを宿す腹部に触れながら、呟いた。

「ねえ、でもさ、あなたは」

わたしだけを愛してるって誓ったのに。

どうして喜ぶの、コレはわたしじゃない。


▼ E N D

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割れたアーモンドで永眠 ハビィ(ハンネ変えた。) @okitasan

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