神様みたいに優しい人でしたよ

寒い朝だ、窓から見える景色は真白な霜が降りている。

バスの中は混雑していた。

通学用のいつものバスだが、乗る時間は曜日毎に微妙に違うので、乗客の顔ぶれが同じということは無い。

しかし、今日は一段と騒がしかった。

運転手の真後ろの座席に座る冬川桐緒をクラスメイト達が取り囲んでいたからだ。

俺は吊革に掴まっていて、平均よりも背が高いから彼女の姿が良く見えた。

彼女の右前腕は副木固定されたギプスに覆い隠されている。

許されるなら今すぐにでも逃げ出したかった。

しかし、あと五分は目的地である学校につかない。


「冬川ちゃん、ガチで平気なの?」

「犯人マジでありえないだろ!さっさと死ねばいいのに!」

犯人。

その単語が鼓膜を震わせると、全身の血が湧き立ち、ぐるりと視界が回りそうになった。

どうして今ここでそのような発言が出てくるのか、分からないのではなく分かりたくないのだ。

先日、俺は中学のクラスメイトである冬川桐緒に怪我をさせた。

彼女はまるで示し合わせたかのように視線を集めている完璧な女の子だ。

入学式で新入生代表に選ばれていたし、合唱曲だって彼女が良いと選んだ曲を皆が心の底から気に入ってる。

それがどうしてか不快で、吐き気がした。


昨日の放課後、俺と彼女は人気のない階段の踊り場に居たのだ。

「鈴城くん。今日、ずっと体調悪そうだったけど……なにかあったの?」

彼女に腕を掴まれて、息が詰まる。

心臓は信じられないほど早く動く。

俺の全てを見透かすように見つめてくる彼女にますます奇妙な苛立ちが募るばかりだ。

こんな気持ちのまま別れるとしたら、あまりにも惨めだった。

「アンタみたいな恵まれてるヤツに俺の苦しみが分かるわけないだろッ!何も出来ないくせに!いいから放っておいてくれよ!」

運が悪かったのだ。

軽く押しただけのつもりだった。

加害者の言い訳でしかないが。

彼女の軽く細い身体はいとも簡単に大きく傾いて、そのまま階段から落下した。


学校は子供の社会で、世界の九割を占める。

人間関係は弱肉強食で、ポジションの椅子取りゲームだ。

教室という集団の中で居場所を確保出来ないとその先の数年はお先真っ暗になってしまう。

バスは嵐の中を彷徨う小舟のように揺れながら、曲がり角を曲がった。

俺は然るべき拒絶を恐れる自分を、心の底から幻滅する。

俺は未練がましく彼女の方を見つめた。

その時、人波の隙間から見えた彼女と一瞬だけ目が合った、気がする。

「……。何もなかったよ。わたしが一人で階段から脚を滑らせただけ。何もなかった。大丈夫だよ、ちゃんと憶えてるから。全部分かってる」

困ったように笑う彼女から、慌てて目を逸らす。


結局その日は、会話どころか謝罪の一つすることも叶わなかった。

月並みな感想だけど、住む世界が違う子なのだ。

俺が彼女と再び言葉を交わしたのは、二ヶ月後のことで、中学二年生に上がるすんでのところである。

古典的な方法であるけど、手紙を靴箱に入れて、放課後に彼女を校舎裏に呼び出した。

夕陽に照らされる校舎が巨大な影を落とし、茜色の空でカラスが鳴いていた。

二月の終わりはまだまだ肌寒い。

彼女は桜貝の爪が並ぶ掌を俺の方に突き出すと、見せつけるようにグーパーグーパーと開いたり閉じたりする。

ギプスはとっくに取れていて、その手は問題なく動いていた。


「やっほ、鈴城くん。どうしたの?いきなりお手紙嬉しかったけど、教室で話しかけてくれたら良かったのに。んふふっ、もしかしたら誰かに聞かれたらマズイ事?」

彼女はいたずらっ子みたいな表情を浮かべる。

「ごめんなさい……」

「ん、んん?何についての謝罪ー?」

「階段でのこと、ですよ。冬川さんに怪我を負わせてしまった……」

「……。別に全然大丈夫だったよ?わたし、……あ、これ他の皆にはナイショね?鈴城くんだけ特別に話すけど、わたしって昔お家で色々あってね。受け身を取るのだけは上手いから、どれくらいの怪我で済むかは計算できるんだよね。どうだっ、すごいだろー!」

褒めろとばかりに発育が豊かな胸を張って、彼女はへらりと笑みをこぼす。


呆気にとられて見ていると、彼女は人懐っこい子犬のように近づいてくる。

「それより、わたしのことは名前で呼んで欲しいな……なーんて。だめかな?」

「えっ……良いんですか?」

「良いんですよぅ。桐緒ちゃんって呼んで欲しいの。だからさ、わたしも司くんって呼んでもいい?」

「い、良いですよ。むしろお願いします……」

「やったぁ。嬉しい」

桐緒ちゃんは何故か、とんでもなく嬉しそうな顔でガッツポーズをとっていた。

いつの間にか、身を屈ませればキスでも出来そうな至近距離に桐緒ちゃんが立っていることに気づき、心臓が強く脈打つ。

周囲に人影がないことを大雑把に確認する。


星が瞬くような美しさを内包する桐緒ちゃんの双眸をじっと見つめ返して、俺は気になっていたことをたずねた。

「桐緒ちゃんは、俺みたいなやつのことも許してくれるの?」

桐緒ちゃんは白百合のような満面の笑みで首を傾げる。

「司くんがそれを望むなら?」

胸の奥でアイスクリームが溶けるような、とろりと甘い感じがした。

「……桐緒ちゃんのこと、本当はずっとずっと大好きだった、って言ったらサイテーな男だって思う?」

「どうして?嬉しいよー。でも、鈴城くんみたいな可愛い男の子にそういうこと言われると、ちょっと恥ずかしいかも」

桐緒ちゃんはきゃーっと呑気な嬌声をあげる。


アンタが可愛いよ、とその赤く染まった頬に思う。

桐緒ちゃんは、目線の位置にある俺の首に手を回すと大きな海色の目を眩しいものでも見るように細めた。

耳元に唇を寄せて、微かに不安を帯びた声色で囁く。

「ねー、司くんは、司くんだけは、わたし……桐緒のことだけを愛してくれる?」

「うん。俺は桐緒ちゃんだけをずっと愛してるよ」

決して離すまいと、桐緒ちゃんを強く抱きしめたことをよく覚えている。

それからの俺は別人のように努力をした。

桐緒ちゃんの隣に並んでも遜色がない人間になるためなら、勉強も運動も料理も部活動も面倒だったトモダチ作りだって、なんだって頑張れる。

桐緒ちゃんみたいな引く手数多な子がどうして俺にあんなことを言ったのかはわからなかった。

あまりにも出来すぎている。

だから、運命だと思うことにした。

彼女と一緒なら、何処だろうと楽園だ。

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