天使みたいに可愛い子でしたよ

私の家庭はおそらく普通の家だ。

我が家は宵越しの銭は持たない人間の巣窟だったので、金銭的な余裕は常に無かったけれど、暴力の天才である元ヤンの母親とそんな母親に一切頭が上がらない父親、そして十一歳年下の可愛い弟というパーティである。

夫婦喧嘩の最中に母親が家から締め出されて、窓ガラスをブチ破り血塗れで入室してきたというデンジャラスエピソードはあるものの、この程度のトンデモエピソードならどの家庭にも一つや二つあるだろう。

高校生活二年目の冬は、一年目の冬よりずっと寒い。

雪は深夜の内に止んでいるが天気は曇り模様で、空気は鉛の色合いと質感を帯びている。

雪が降り積もった道に大勢の足跡が刻まれていた。


私は家から持ってきた朝食用の惣菜パンの袋を破る。

ペットボトルの麦茶は冷蔵庫に入れた訳でもないのに、きんきんに冷えていてうんざりした。

家の近くの公園で弟ぐらいの年齢の園児がランドセルを背負った小学生男子達に混じって雪だるまを作りながらふざけ合う声が住宅街の合間を縫って響いている。

私は頬の内側で詰め込んだカレーパンをすり潰しながら、首の周りをぐるりと覆うパステルブルーのマフラーに鼻先を埋めた。

遅刻しないか少しだけ心配になるけれど、咎めるつもりはない。

私が同い年くらいの子供だったら、きっと彼らの輪に割り込んで雪遊びに興じていたことだろう。


最寄りから二駅先のバス停を通り過ぎると、周りにいるのは同じ高校へと向かう生徒が大半で、爪先の方向は同じだ。

少しだけ傾斜のついた上り坂を登っていると、背後から赤らんだ手が肩をぽんと叩いた。

私は冷たさのあまりびくっと全身を震わせる。

鼻下まで埋めたマフラーの裏側で、口元は期待で弧を描いた。

触れた部分を通じて分け与えられる彼女の体温が、私の体温と混ざり合い熱を増す。

どくりどくりと胸の鼓動は勝手に加速して、どうしようもなく心を高鳴らせた。

私は空になったパンの袋を掌の中でぐしゃぐしゃに丸める。


振り返ると、私の一学年上の先輩である冬川桐緒(ふゆかわきりお)がはにかみながら、くすくすと笑っている。

親愛を惜しみなく与える、甘やかな笑いだ。

桐緒先輩は、雪の結晶や、透き通った水、ガラス細工、世界中から集めた透明で美しいものだけで作ったようなかんばせをしていた。

その隣で彼女を見つめる鈴城司(すずしろつかさ)の紫紺色の瞳は、どこまでも澄んでいる。

敬虔な信者のようでありながら、望みを叶える為ならどんなことでもしてしまいそうな、危うさを孕んでいた。

私は桐緒先輩の華奢な手に絡みつく、ささくれのある男の指先を認識して、溜息を吐く。

私の方がずっと桐緒先輩を好きなのに、沢山のあなたを知っているのに!


「風祭(かざまつり)ちゃん。昨日は急に電話しちゃってごめんね。どうしても撮影会のことで聞きたいことがあって……」

「えっ、全然!全然!大丈夫ブイです!」

「ほんと?無理しないでね。いつも助けて貰っちゃって、頼りない先輩で申し訳ないです……」

桐緒先輩は何を言って良いかわからないもどかしげな、一種の苦しそうな表情を示す。

男の針の視線が私を穿つ。

私は両腕をわたわたと振り、心の赴くままにまくし立てる。

「いやいやいや!桐緒先輩で頼りないなら世の中の先輩という生き物は皆してアホンダラですよ!去年、写真部に誘ってくれなかったら、私は投稿どころか私の世界を他の人に見てもらうことすらなくて……桐緒先輩が勧めてくれたから県のコンテストに応募して、銀賞を貰うことが出来たんです!私よりすごい賞を貰ってる人はまだ四人もいたけど……それでも!私は自分の作品に自信が持てたんです!だから桐緒先輩は恩人なんです!」


「んふふふふっ」

「もー!そうやって笑いますけど!ジョークじゃなくてマジですからね!本気と書いてマジですよ!」

「ん、風祭ちゃんは可愛いよね」

ふわりと花が咲くように優しくしっとりとしながらも可愛らしい戯言に、私の両眼、両耳、鼻、肉体全体の知覚神経を完全に支配されてしまった。

桐緒先輩の声は、決して大きい訳でも張り上げている訳でもないのに良く透き通る。

十二月なのに体温が急上昇して、マフラーとコートを脱ぎ捨てたくなった。

桐緒先輩はシトリンを丁寧に砕いて編み込んだような艶やかな長い髪を片耳に一度かけて、桃源郷の如き微笑を浮かべる。


「秋音(あきね)後輩は簡単だなぁ」

それまで口を聞いていなかった鈴城司が、いきなりそう言ったので、私は飛び上がりそうになった。

「す、鈴城司。珍しいですね。私に話しかけてくるなんて」

「どうしてフルネームなの?別にいいけど」

お前が私の恋敵だからだよ!

「さーぁ、なんででしょうねーぇ?」

シラを切りながらも微かに棘を込めて、反撃してみる。

私は苛立ちを誤魔化すように口笛を吹き始めた。

桐緒先輩みたいな崇高で特別な存在が目の前の男を恋人に選んだ理由は分からない。

九年経った今も尚、理解はしても納得はできていない。


そんな私の顔を見ると、いつだって桐緒先輩は小さい子を宥めるように笑うのだ。

私は相棒である黒々としたミラーレス一眼カメラを三脚に載せて構える。

今日は桐緒先輩の晴れ舞台で、私は写真係という大役を任された。

現在、私はプロのカメラマンしているということもあって、桐緒先輩から直々の指名だ。

もう少しで、新郎新婦が純白の扉から登場する。

プロの意地にかけても、失敗は許されない。

十年前、私は桐緒先輩から彼女の耽溺しているクラシックや洋楽を集めたCDを頂いたことがある。

当時十五歳の私はミステリアスな特別さに憧れて、背伸びしてわかったふりをしていた。

桐緒先輩はフレンドリーに見えてその実、あまり他人に自分の好きなものの話をしない人だ。

それは内面世界を守る為であり、否定されると傷を負ってしまう繊細な心の為だろう。


それでも私にだけは特別に見せてくれた、その信頼が何より嬉しかった。

あのCDと、桐緒先輩の細い筆跡の美しい字で綴られた曲の解説を読むと今だって特別が蘇る。

この頃のあなたはもうどこにもいなかったとしても。

結婚式場の扉が開き、拡大された風景の中にウェンディングドレス姿の桐緒先輩と幸せそうに笑うタキシード姿の鈴城司が現れる。

素人のように情けなくブルブルと震えそうになる手を叱咤して、精密にシャッターを切った。

私は彼女からの一番を喪っても、この男を憎まないでいられる。

だから、大丈夫。

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