割れたアーモンドで永眠
ハビィ(ハンネ変えた。)
悪魔みたいに恐ろしい人でしたよ
恐ろしい。
目の前の男の狂乱ぶりを表すならその一言に尽きるだろう。
話は半日前まで遡る。
同棲中の彼女の家から追い出されたあたしは、両親の暮らす実家に帰るのが嫌で嫌で仕方がなく弟である司(つかさ)の元に転がり込んだ。
一人暮らしにしては広過ぎる一軒家の、使っていない一室を借りて、あたしは机の上で広がる白紙の原稿と対面していた。
身を切るような冷たい吹雪がほとんど絶え間なく続く中で、雪の下に埋まる美しい小石をかき集めるように、膨大な語句から必要な言葉だけを選別して繋ぎ合わせ、意味のある文章を作る。
あたしは凍えて死ぬか、さもなければ飢え死にするかの、どちらかのように思われた。
そんな孤独な作業をただ黙々と繰り返している。
窓から仄かに朝日が差し込んで、部屋は初冬の静寂に包まれていた。
暖房はつけておらず、乾いた寒さに身をかたくして縮こまる。
これまでにないほど辛い思いをしていた。
しかし、人間には感情があって、小説家は自らの精神を削ることで初めて原稿用紙の上で物語が生まれる。
過去の苦悩を発散したくて思い出の呪縛から解放されたくて文字を書いていたはずなのに、安定した生活の元では書けないのもまた事実であった。
寝不足のせいか、思考が混濁している。
水滴がぽつりと原稿用紙に滲む。
冬なのに汗を流していた。
パジャマの袖で額を拭うと、はたと現実を知覚する。
リビングから獣の咆哮が響いたのだ。
その叫びはあまりにも悲痛で、人間のものであると理解するまで数秒を要した。
椅子を引いて立ち上がる。
足元はおぼつかないが、あたしは扉を開けて廊下に出た。
壁を探るように手を伸ばし、照明のスイッチを付けると電光が目に入って、ビリビリと脳を揺らす。
ふらつく視界のまま、縺れ気味に歩を進める。
ガシャン、ガシャンと何かが落ちて割れる音が遠くから響く。
物が割れる音はいつだって、心まで切り裂かれたようで辛かった。
それは人が殴られて傷つく音に似ているからかもしれない。
リビングに辿り着くと、そこは大地震の後のように荒れていた。
木製のテーブルはひっくり返り、割れた大皿とグラスと、その中身がカーペットに散乱している。
コーヒーが、黒いシミを作っていた。
司は荒れた部屋の真ん中に立ち、蒼白な顔をして荒々しい呼吸に全身をふいごのように弾ませている。
何が起こったのかは想像がついた。
司には、心が過去に行ってしまう瞬間がある。
原因は三年前に自殺した奥さんの存在だ。
奥さんこと桐緒(きりお)さんを知る人は、彼女を現世にバカンス中の聖人と評し、葬儀に参列した人々は、彼女が自死を選ぶような人には見えなかったと総じて悲しんだ。
桐緒さんは沢山の人から愛されていたが、聖人の友人はやはり聖人なのか、彼女の自殺を止められなかった司を責めるような不埒者は存在しなかった。
むしろ、葬式中に泣きはらした目で表情を完全に落とし、虚空を見つめながらも精密な動作をプログラミングされたロボットのように喪主をこなす司を憐れんだ。
桐緒さんの死に対して、誰もが司に責任を追及しなかった。
司本人、ただ一人を除いて。
音が飛んだ、あたしの耳に入らないくらい。
壊れたような絶叫を、全身を使って司があげる。
「あああああぁぁぁぁぁぁあああああああ!」
身体はガタガタと痙攣して、瞳孔が大きく据ってしまって、恐怖の怯えを眼に湛えている。
「桐緒ちゃん、桐緒ちゃん、桐緒ちゃん、桐緒ちゃん、桐緒ちゃん、桐緒ちゃん」
司は何度も何度も、名を呼んだ。
グラグラと揺れる心が、今日から外れた昨日にずっとずっと縛られている。
凄まじい愛だ。
川向かいで燃えるチューリップ畑、触れてはいけない博物館の美術品。
あたしはただの観客としてそれを眺めることしか出来ない。
司は苦悶のまま、両手で頭をガリガリとかきむしり、顔は水死体のように青ざめている。
見ているこちらまで、心臓が嫌な音を立てて僅かに呼吸が苦しくなった。
充血した両眼からだくだくと涙を溢れさせ、やがて膝から崩れ落ちると、唸りながら床に蹲ってしまう。
司の口がもごもごと動いたが、声にはならなかったようだ、あたしの耳には入って来なかった。
床に散らばった割れた破片を避けながら近寄る。
一拍置いて唇を舐め、穏やかに声をかけた。
「今日はどうしたの?嫌なことでもあったの?」
骨が目立つ肩を揺らして、のろのろと顔を上げる。
司はあたしの存在を認識すると一瞬きょとんとしたが、すぐに質問の意図に思い当たったようで何でもないことのように答えた。
「姉ちゃんか……いや、俺が桐緒ちゃんの……大事なお皿を割っちゃって……」
「あーね、遺品ってこと?」
「ちがうけど……桐緒ちゃんが好きなキャラクターのデザインだから、半年前に買ったんだ。ミスして落として割っちゃって、こんなんだから桐緒ちゃんは俺のこと嫌いになって、死にたいくらい悩んでたのに相談してくれなかったのかなって思ったら、全部わかんなくなって、止まらなくなって、それで……、……」
司は自分の思いを的確に伝えられる言葉を探して言い淀んだ。
目と眉を伏せて、影が生じる。
何気なくあたしは言った。
「桐緒さんが許さないと思ったの?」
「……かな。そうだよ。俺さ、本当は桐緒ちゃんが居ない世界なら死にたいんだ。でも、桐緒ちゃんはきっと俺が楽になることを許してくれない。だから、今も生きてる。それだけを理由に生きてる」
司はぎこちなく口角を上げる。
その顔つきがまるで知らない男の人のようで、ぞわりと身体中に何か知らないものが駆け抜けた。
あたしは鳥肌の立った腕を宥めるように摩る。
司は作り笑いのまま首を傾げた。
それからちょっとだけ躊躇うように視線をあちこちに泳がせて、懺悔をするように言葉を吐く。
「俺は桐緒ちゃんが今も大事なんだ。彼女が自殺するまで、ずっと許されてると思ってた。何を、って言われたから具体的には言えないけど、彼女にだけは許された気になってたんだ。そんなわけないのにね。俺が油断してたから桐緒ちゃんは怒ったんだよ。桐緒ちゃんはずっと俺を憎んでいる。でも、それでもいい。桐緒ちゃんは俺がこの先どんなに桐緒ちゃんのことで傷ついても許してくれないんだろうけど、俺は桐緒ちゃんのことを愛してる。全部がどうでも良くなるくらい。今だって愛してるんだ」
あたしの弟はある日あの女に墜落した。
そして、今も炎上している。
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