[ 2 ]――EP.1「あの日」


――ちょうど今のような季節に私たちは出会った。

 今年のようにじめっとしたうざったい暑さよりも去年は、さっぱりとしていたように思う。


 講義の移動中。一人で人混みの中に紛れるように私は歩いていた。


「今日どうするー?」「カ……ケいこ!」「いいね〜。チハヤ……する?」「あ、いや、私そんな……ないし。いい、かな」「……うぜ、絶対……」「……」


 すれ違う雑音。私とは関係ないものばかりの、楽しい話。大学に入ってから、大学には中学や高校と違って”浮いている”なんて概念はなく、私のような人は既に大学から”消えている”んだな、と心のどこかで思う。

 私を私としてみる人は、この雑多の中にいるのだろうか?

 ふと、後ろで誰かが何かを言ってるのが聞こえてきた。これもまた、雑音。そう無視していたら、今度は肩をとんとん、と叩かれた。


「すいません、あなたがこれ、落としました?」


 ハンカチをひらひらとさせる男性と目が合う。”SARA”と少し不器用に縫われているそれは、間違いなく私のものだった。


「あ、すみません……」


 消え入りそうな声とは裏腹に、感謝の気持ちが全くこもっていない早さと手付きでそれを奪うようにして取ってしまう。彼は少し驚いたようにも見えたが、すぐにさっきの表情に戻った。申し訳ないなと思いつつ、歩き出す。すると、彼も並行してきた。


「大事なハンカチなんだね」


「あ、はい……。中学生のとき家庭科の課題で出されて……祖母と一緒にやったんですけど上手くできなくて……」

「いい思い出だね! っと、そういえばあなたの年は……って、女性に歳聞くのまずいんだ。いやそもそも名前からか」


「あ、全然大丈夫です……19、です。名前は、天月沙羅」

「同い年!? 敬語使ってるし、僕浪人してるから年下かと思ってた。浪人組として一緒に頑張っていこう、天月さん! ちなみに僕の名前は東。フルネームだと東龍之介ね、よろしく。あと、タメで話したい、僕だけタメなのちょっと嫌だし」


 明らかなテンションのラインが私と彼の間に引かれていた。私が久しぶりに人と話したことも一つの理由であるだろうが、彼の距離感の迫り方が少し怖い。

 そんな気配を感じ取ったのか、彼は決まり悪そうな顔をちらつかせた。


「……ごめん。ナンパかと思っちゃっても仕方ないとは思うんだけど、大学入ってから全然女子と話さないからさ。久しぶりに話せてちょっとハイになっちゃった。……まあ大学入る前も女子と話してないんだけどね、男子校だったから」


 そうははっと笑いながら言う彼の寂しい横顔に、なぜか、自分の境遇を重ねてしまった。


「……ふふっ」


 思わず笑みがこぼれてしまう。そんな私を彼は依然としておどろおどろしながら見つめる。明らかなテンションの差は今、綺麗に整地されていった。ふと、言葉が湧いてくる。


「なんか私達、似たもの同士ですね」


 ”似たもの同士”という、皮肉であるとも解釈できるその言葉は、私達、と言っては彼に申し訳ないけれど、本当にぴったりだと、そう思った。そんな雰囲気を読み取ったのか、彼は穏やかな表情にまた戻る。


「――ちょっと、大学から出てみない?」


 私の言葉に続けて、彼はそういった。自分の中で少し、ストッパーがかかる。大学という檻に仮にも縛られているという惰性によって。それでも何故か、彼についていこうという意志が先行した。


「じゃあ、『あの橋』あたりにでも」


 私はそばの窓から見える橋を指さしながら言う。そして、他愛もない世間話をしながら、二人きりで橋に向かった。


 その橋は静かだった。橋の付近以外がうるさすぎる、といったほうが正確かもしれない。

 橋下には川が広がっている。その横には、まだ春だからか、もしくは整備されていないのか、おそらく後者だろうが、一面雑草が広がっていた。

 都会の喧騒を飲み込んでしまえる静けさの中、些細な音に耳を済ませる。心地良い沈黙。あたりから聞こえてくるのは、春の芽吹きだ。


 彼と話したこの数十分で自分と似たような人がいること、自分はひとりぼっちじゃないと思えた。たった数十分だけで。彼とは、ずっと前から話していたような気がしてくる。


 ふと、まだ互いにほとんど何も知らないのに、どうして私は彼に既視感をを重ねあえるのだろう、と少し不思議に思った。


 すると、自分の中で自然に、心あたりがあることに気づく。


「……実はさ」

 そう思うと同時に口火を切った彼と、続けた言葉から、ああ、やはり、と納得した。


「――僕と君、前にも会ってるんだよ。ほら、あの、今は潰れたカラオケ店で」


 そう言い、彼が指さした方を見ると、そこにはまだその面影が残っていた――



 私は高校生時代のほとんどをアルバイトに費やした。

 手当り次第応募できるものを片っ端にあてても、好印象があまり抱けない、笑顔がないと言われ続けていた私が初めてバイトさせてもらえたのがそのカラオケ店だった。そこでの経験を起点として他の募集にも手をかけ出せるようになり、店長には感謝してもしきれない。

 ただひたすらに、あの頃は肉体的にきつかった。でも働かなければいけない理由があったのだ。

 自分達の生活費のために。

 その原因が自分達になかったとしても、もうその責任は追求することもできない。



――彼は話を続けた。


「言ってしまうとさ、僕も実はバイトしてたんだよ、あそこで。あなたとはシフトが違ったけどね。でもさ、すごいんだよ。シフトが違うのに、あなたの話は度々耳にした。弟のために働いてるすごい人だって」


 知っている。店長によく言われたことだ。


 両親が離婚し、私と二歳下の弟は父方についていった。まもなくして父が死んだ。

 父方の祖父母だけでは私達を養い切れないのが年齢を経るに連れて確実となり、高校生になってから働き出した。

 全部、私の意思とは関係がない。そんなどうしようもないことなのに、今までよく頑張ったね、と店長が涙目で言うのは理解しそこねた。

 頑張るとか頑張らないとかそういう基準じゃない。

 そうしないと生きていけない、それだけ。


 ただ、そんな境遇と少し似ている人がいることを私も耳にしていた。その人が今、似た境遇の私を「すごい」と評したことに強い違和感を覚えた。


「あなたも――東さんのことも、度々聞いてましたよ。父親がいないで大変なのに、文武両道をこなしてるって」


 そう言うと、彼は大袈裟に首を振る。


「いやいや、あなたほどじゃないよ」


 まただ。違和感。


「いいえ、絶対そんなことないです。しかも東さん男子校行ってたとか聞くじゃないですか」

「それは自分で行きたいって思ったから行っただけだよ。自分で自分の首を絞めに行ったのさ。そんな僕よりも、やっぱりあなたの方が――」


 また。


「いや、ないです」

「……」

 数度そんなやり取りを繰り返すと、彼が無理やり切り上げに来た。


「えぇ、じゃあもう……こうしよう! 『どっちもすごい』でいいじゃん! 僕はそう思わないけど!」

「……」


 そんなわけがない。


「ん、どうした?」


「さっきから、ずっと気になります」

 そう私は耐えかねて切り出す。


「何が?」

「なんで東さんは、似た境遇の私を『すごい』と言うんですか? 別に不可抗力じゃないですか。周りが変わってしまっただけ、私達はなんとかしてそれについていかなきゃいけない。そんな人間として当たり前のことをどうして『すごい』と言えるんですか?」


 一気にたまっていた思いを全部口にする。すると、彼は表情をコロコロと変えた。

 驚いた顔、不安な顔、そして元に戻って、真剣な表情になり、そのまま、口を開く。


「…あなたさ、」


 その数分後、私の人生観が大きく変わる。


「何を強がっているの?」


「……え?」

「雰囲気からずっと思ってた。君は自分のせいじゃないのに周りに謝って謝って謝られて、それを受け止めすぎて……それが当たり前だと自分を洗脳して……気楽に生きれてない」

「っ……」

「あなたは僕と自分を”似たもの同士”だって言った。僕もほぼほぼそう思う。僕はそう思ったから、あなたとこうやって話してみたかった。そこから僕が何をしたかったか、わかる?」

「……」


「あなたと、息抜きしたかったんだよ。大変な毎日を似たように送る君と、大変だねって一回でも言いたかった。だから、」

 あなたは、僕の前で気負う必要なんてない。 


 本当に?


 ふと、脳裏に光景が浮かんでくる。

「お母さんはもういなくなっちゃった。ごめんな……パパのせいだ」と言う父親。あのときの彼の目には、私達は映っていなかった。映すだけの余裕がなかったのかもしれない。

「高校生なのに働かせてしまって申し訳ないねぇ……ごめんねぇ……」と毎日のように話す祖父母。月火水木金土日、毎日働いていたわけではないのに、彼らは義務的なように毎日必ず言った。しかし、義務的なようで、そこにはしっかりと申し訳なさが満ちていた。


 誰のせいでもない。

 誰のせいでもないのに自分を押し込めた。

 そうしなくてよかったんだ。

 私は……


「もう、いいですか」

「うん」

「……ありがとう、東さん」

「!?」

 耐えきれず、彼の胸に寄りかかる。清潔感のある匂いだ。

 彼は驚いたのか、それとも女性とこんな形で接することがなかったのか、その状態で固まってしまった。幸いにも、そんなボケっとした彼を見るような通りがかりの人はいなかった。

 うぐいすが鳴いた。私達は、橋に溶け込んでいく――

「本当に……」

 『どっちもすごい』。彼の言葉は、時間差で私の隅から隅までを埋め尽くした。

 彼に似たもの同士っていったのが申し訳ないや。彼はやっぱりすごい人だ。境遇は似ているのに、私が彼に勝てるところはきっとない。

 でも、だからこそ、彼に心を許せる。彼と、もっと話したい。


 それが息抜きであり、私にとっての「幸せ」だと気づくのはまだ先だったけれど。


あのときから、私は昔に置いてきた幸せへの見方を、少しずつ取り戻していった――




――そこまで私を変えてくれた「すごい」はずのカレが、どうしてあんなことを。

 そう考える時期もあったが、今はもう、「男だから」という理由で済ませてしまった。そんな相手が今、目の前にいる。

 三日前に縁を切ったはずだが。

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鶏が先か、卵が先か。 lien @Chamel76

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