組歌

増田朋美

組歌

- 組歌 -

その日も、暑いのか寒いのかよくわからない変な気候が続いていた。風邪を引いてしまう人も多く、それでは、なんだか健康でいられるということが、ものすごくありがたいというより返って妬ましく感じられてしまうのだった。それくらい、日本社会がなんだかなということだろう。それは仕方ないといえばそういうことだけれど、それだけでは済まされないというのが、今の世の中なのかもしれない。そんな中で、人が人を思うということは、また違ってくるのではないだろうか。人の事を、人が思うというのは、いつの時代も変わらないというが、最近は、また変わりつつあるのかもしれない。

その日、杉ちゃんたちは、製鉄所の利用者の女性が持ってきた、琴の演奏会を拝聴するため、コンサートホールにいた。でも、琴の演奏は、本来の古典箏曲などは一切演奏されず、ショスタコーヴィチのような派手なリズムと、汚い不協和音を連発したような、そういう曲ばかりだった。最後に、良く知られている、ブルーライトヨコハマが演奏されたときは、杉ちゃんなんて大きなため息を付いてしまったくらいだ。演奏が終わって、お客さんたちはどんどん帰ってしまうのが演奏がつまらない証拠だった。

「あーあ、つまんない演奏会だったねえ。琴なのに、琴のための演奏曲が一曲も演奏されないんだぜ。例えばさ、すごいのあるじゃないか、八重衣とか、新青柳とかさ。そういうものを演奏しようって言う気にはならないもんかなあ?」

ホワイエに出た杉ちゃんはわざと聞こえるようにでかい声で言った。

「まあ、仕方ないですね。それは。だって琴の演奏というと、ほとんどの人は、古典箏曲なんて知らないわけですから、お客が入らないでしょう。それでは、ポピュラーとか、そういうものをやるしかないですよ。それに、五段砧を最後まで聞くことができるお客だって少ないんじゃないでしょうか?」

ジョチさんは、杉ちゃんをなだめるように言った。

「邦楽なんて、そんなものですよ。洋楽の力を借りなくちゃ、やっていけない時代ですよね。」

「なるほどな。」

杉ちゃんとジョチさんが、そんな事を言いながらホールを出ようとしたところ、

「ありがとうございます。そういう事を、言ってくれる方がまだ居たんですね。ぜひ、これからもそのような主張を続けてください。私は、ソそういう人がいると信じて頑張れます。」

と、一人の男性が、杉ちゃんたちの前にやってきて、頭を下げた。まだ若い、30代そこそこの人である。

「何だお前さんも、古典箏曲が好きなのね。」

杉ちゃんがそう言うと、

「ええ、最近の現代箏曲には疑問を感じることが多くて、古典をやることが一番大事じゃないかと思ってるんです。だけど、周りの人は、みんな僕のことを頭が古いといって馬鹿にします。もちろん、現代箏曲はすごいのかもしれないけど、どこか違う方向へ行っているような気がするんです。」

と男性はにこやかに言った。

「お前さん名前は?」

杉ちゃんが言うと、

「衣笠と申します。衣笠栄太郎。ちょっと古臭い名前ですけど、お琴をやるようになってからは、この名前がふさわしいのではないかと思ってそのまま続けています。」

と、彼は答えた。

「そうですか。この社中に居てから何年になる?」

「もう7年になります。最初は音楽学校で組歌を習っていましたが、それでは飽きたらなくなって、お琴教室を手伝うようになりました。それで今は、こうして演奏に参加させて頂いています。」

栄太郎さんは答えた。

「じゃあ、一番むずかしいと言われる当流四季源氏は弾ける?」

「はい。やったことあります。」

ちょっと杉ちゃんもジョチさんも驚いた顔をした。この当流四季源氏という曲は、よほどの人でないと、弾くことができない、組歌の中でも秘曲だからだ。

「そうなんだね。それで本来は、こういうつまらない音楽より古典箏曲をやりたいんだね。いっそのこと、分派しちゃったらどうなの?どうせ、この社中に居ても、いつまで経っても古典はやらせてもらえないと思うよ。お前さんが組歌が弾けるってのは、ある意味ではすごいことだと思うし、組歌弾けるやつなんて、そうは居ないよ。だからさ、もったいないと思うんだよね。どうせ、見込みがないと思ったら、もうお前さん独自の世界を描いてだな。それで、頑張ってやってみればいいじゃないか。」

杉ちゃんがそう言うと、

「僕みたいな青二才にできますかね?」

と栄太郎さんは恥ずかしそうに言った。

「ああできるさ。だってさ、こんなおかしな曲が蔓延っている世の中にだよ。そんな中で組歌習ってたっていう人材はそうは居ないよ。それに当流四季源氏が弾けるんだったら、相当な腕前を持っている人だろうし、もったいないよ。西洋音楽に助けて貰えないとやっていけない邦楽教室なんてこっちから払い下げちまえ。大丈夫、お前さんの考えは間違っていないから。ちゃんと組歌を愛好しているやつはかならずいる。だから、そのために色々やってくことが大事なの!」

杉ちゃんは、栄太郎さんの背中を叩いて、にこやかに笑った。

「そうですね。確かに、組歌を弾きこなすことができる人材は、そうは居ないと思います。確かにもったいないことです。頑張ってそれを伝授できるように頑張ってください。」

ジョチさんもそう言うと、栄太郎さんは、

「わかりました、考えてみます。」

と、小さな声で言った。それと同時に、タクシーがコンサートホールの前に到着した。

「じゃあな。いい音楽を作ってくれよ。偉いやつの殿になって、変な曲ばかりやらさせるのか、正当な組歌と一緒に生きていくか、それを決めるのはおまえさんだ。頑張りや。」

杉ちゃんはそう言って、運転手に手伝ってもらいながら、タクシーに乗り込んだ。

「本当に貴重な人材であることは間違いありません。あなたが思っている以上にね。それを忘れないでください。」

ジョチさんもそう言って、頭を下げて見送っている彼に軽く頭を下げ、タクシーに乗り込んだのであった。二人を乗せたタクシーがうごきだすまで、衣笠栄太郎さんは、いつまでも頭を下げたままだった。

それから、一ヶ月くらいたったある日のことである。

「えーとお名前は、」

「長島と申します。長島千歳と言います。」

ジョチさんの眼の前ですぐ答えを出してしまうその女性は、年齢は35歳というのであるが、なんだかとてもそんな年には見えないほど、ちょっと幼い感じを醸し出していた。

「はい。長嶋千歳さんですね。それでは、どうして、こちらを利用しようと思ったんですか?」

「ええ、ここで過ごしていれば、親が命令することも少し避けられるかなと思って。私、精神疾患で仕事できないんですけど、親には早く結婚して幸せになれと言われているんです。何回かお見合いの話も出たんですけど、それもなんだか乗り気にならなくて。みんな、素敵な人達であることは間違いないのですが、私の心を引く男性が居ないというか、、、。」

千歳さんは早口に言った。

「そうなんですね。僕も男性ではあるんですけど、どんな男性があなたの気を引いてくれるんですかね?」

ジョチさんは、苦笑いしていった。

「そうですね。昔ながらのというか、強い感じのする、芸事や物事に真摯に打ち込んでいる人が良いかな。ただ遊んでいるだけの人は好きじゃないんです。それでは行けないでしょうか?」

千歳さんがそう答えると、

「なるほど。なかなか今の時代にはそういう男性は現れないのは、僕も認めます。逆にそういう事をしているのは女性のほうが比率が高いと思いますね。」

と、ジョチさんは言った。

「昔は、ショパンとかリストとか、そういう芸事に打ち込んでいる男性がたくさん居ましたよね。今は、訳の分からない音楽ばかり作り続けていて、もう嫌になっちゃう。」

「そうですか。まあそのうちに現れるかもしれませんよ。そういう人がね。」

と、ジョチさんはしたり顔で言って、製鉄所の使用ルールを説明した。まずここを終の棲家にしては行けないということ。そして他人に危害を加えるような事はしてはいけないということだ。千歳さんはそれを真剣な顔で聞いている。彼女がもう少し、そんな真面目に考えすぎず、少し力を抜いてくれれば、もしかしたら男性も現れてくれるのではないかとジョチさんは思った。

とりあえず、長島千歳さんは、製鉄所の利用者の一人になったが、他の利用者も彼女のところには寄り付かなかった。彼女は現在は働いていないので、パソコンでアンケートの仕事などをするくらいしかできなかったが、はやりの服装や、歌謡曲も知らず、またテレビも見ることはせず、そんな女性であった。いつも同じパターンの服装で、パソコンをひたすら叩いている姿は、なんだか孤独というより孤立しているのではないかと感じさせた。他の利用者が、この曲いいよ、聞いてよと言って、ポピュラー音楽を勧めたこともあったが、彼女はそのような話には一切応じなかった。

かといって彼女は何も関心を寄せないというわけでもなかった。四畳半でピアノを弾いていた水穂さんに、ベートーベンのソナタを弾いてくれとせがむこともあった。水穂さんがわかりましたと言って、ベートーベンのソナタを弾くと、彼女はとてもうれしそうだった。聞けばべートーベンのソナタは、面白いところもあるがちゃんと形式が決まっているので、それが安心して聞けるのだという。他にも、バッハのインベンションとか、イタリア協奏曲なども彼女がよく頼むことだった。水穂さんが、お望み通り、イタリア協奏曲の第三楽章を弾いてあげると、

「水穂さん演奏してくださってありがとうございます。」

と、彼女は丁寧に頭を下げてそういうのだった。

「ええ、これくらいの曲、大したことじゃありません。」

水穂さんがそう言うと、

「いいえ。私も見習いたいです。水穂さんの音楽に真摯に取り組んでいるのは、他の人と違うってわかりますから。最近の人たちはみんな真摯に生きようという気にならないから、私は好きじゃないんです。」

千歳さんは言った。水穂さんは。

「こんな人間を見習ってはいけませんよ。そんな事をしたら、あなたが普通の人より低い身分ということになってしまいます。それでは行けないでしょう。」

と訂正すると、

「そうなんだ、、、。水穂さんは、新平民だったんだ。」

千歳さんは小さな声で言った。

「でも私は、そうは思いませんよ。そういう事があって何だと言うんです。それより、真摯に生きていることを評価すべきではありませんか?少なくとも私は、そういう人が好きですし、これからも愛していく所存ですわ。」

「無理して言わなくてもいいですよ。」

水穂さんはそう言うが、

「いえ、そんな事ありません。そういうのは身分なんて関係ありません。だって高い身分の人でも、汚い生き方をしている人は他にもいっぱいいる。そういう事を否定して、真摯に生きている人に出会えたら、これほど幸せなことはないです。」

と千歳さんは言った。

「誰か好きな人でも居たんですか?」

不意に水穂さんがそうきく。

「ええ。すごく。お上手にお琴を弾かれる方で、今でこそ、古典箏曲は嫌われているのかもしれないんですけど、それがね、すごくお上手なんですよ。私は一度だけ舞台を見させて頂いたのですが、とても素敵な演奏で、もうなんて言ったら良いのかわからないくらいでした。だから私、その人をずっと追いかけ続けようと思ってるんです。」

千歳さんはそう答えたのであった。

「でも、そうはいっても、あなたは特別な身分でもないわけですし、なにか重大な障害があるわけでもありません。そういうことなら、一人でいつまでもいるのではなくて、ちゃんと家庭を持って、後世に血を繋げていくことこそ、一番の幸せなのではないでしょうか。どんな大恋愛をするよりも、平凡に家庭を持って、平凡に子孫を作れるほうがどんなに幸せか。皆さん大恋愛に憧れたりするようですけど、それは、迷惑をかけるだけですよ。」

と、水穂さんは彼女にいった。

「そうなのねえ。それは、良くわかります。私もそれはよく言われているんですけどね。なんか踏ん切りがつかないというか、どうしても、あのときの演奏を聞いて、忘れられなくなってしまったんですよ。衣笠栄太郎さん。」

「おとなになるっていう事は。」

水穂さんは、彼女に静かに言った。

「そういう憧れとか、悩みとか、そういう事を、捨てるということでもあるんです。何かの理由でそれができないと、幸せには、なれません。」

「そ、そうなんだ、、、。」

水穂さんがそう言うと、ただいまあという声がして、杉ちゃんとジョチさんが戻ってきた。どこへ行っていたと思ったら、

「やっぱり、素敵だったね。衣笠栄太郎さんの、五段砧、格好良かったよなあ。やっぱりあの男は古典箏曲のために生きているようなもんだ。」

と杉ちゃんが言ったので、杉ちゃんたちは、衣笠栄太郎の演奏を聞いてきたのだとわかる。

「そうですね。古典箏曲を聞きに来ている人、年寄りばかりですけれど、年寄りがこれから多くなるわけですから、それで良いかなと思いますね。」

とジョチさんも言った。

「いや、それにしても、古典箏曲の演奏会は疲れます。疲れないで演奏を聞くことができるには、どうしたら良いのでしょうかね。ましてや、衣笠栄太郎はルックスが良いので、それを見に来るということであれだけの集客率を得られるんでしょうが、そうではない人であれば、いくら演奏技術があったとしても、それは難しいでしょう。」

「まあ、たしかに疲れないで聞くことができるのは、難しいわな。古典箏曲が好きな人なんて、よほど日本文化が好きじゃないと聞かないからねえ。それでもさ、第一回リサイタルで、800人の人数を集められたっていうんだから、やっぱり、衣笠栄太郎は、古典に路線を変えてよかったな。はははは。」

と、杉ちゃんが、でかい声で言った。

「あの、衣笠栄太郎さんの演奏を聞いたんですか?」

千歳さんが、杉ちゃんに言った。

「ええ。そうだけど?」

杉ちゃんが答えると、

「そうなんだ。あたし、病気になる前に、何度も衣笠栄太郎さんの演奏会に訪れました。それで、花束をわたしたことだってあるんです。その時は、そんな、800人も人が来ることはなくて、せいぜい、200人くらいのホールで、半分入るか入らないかくらいの人しか来なかったんですよ。」

と、千歳さんはとてもうれしそうに言った。

「そうなんだね。その時は、何を演奏していたのかな?」

杉ちゃんが言うと、

「はい。牧野由多可とか、吉崎克彦とか、そういう人の作品を弾いてました。偶に一曲だけですけど、組歌とかも弾いたことがありました。私は、その組歌が大好きで、それを聞くために、演奏会に通っていたのかもしれません。組歌って面白いですよね。源氏物語とか、そういう王朝文学から、要点を取って、琴の伴奏で歌う。なんかそこいらにある現代箏曲よりは、ずっと奥が深いわ。」

千歳さんはにこやかに言った。

「それで、その衣笠栄太郎さんと仲良くなろうと思ったわけか。」

杉ちゃんがそうきくと、

「ええ、お琴の方だから、本人も、どうせ客を集められなくて、だめな演奏家で終わってしまうって、SNSとかで愚痴を漏らしていたことがあったから。」

千歳さんはそう答える。

「まあ大失敗だな。もう、衣笠栄太郎さんは、800人のファンを集めてしまう、古典箏曲演奏家だよ。お前さんの手の届かないところに行っちまった。まあ、お前さんも、誰か似合う男を探すことだな。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうなのね。なんだか諦められなかったけど、水穂さんがそれより大事なものがあるって教えてくれたから、そういうことですよね。でも、あたし、なんだか諦められないわ。それはどうしたら良いんだろう。」

千歳さんは、悩んでいるような顔つきで、そういったのだった。

「まあねえ。そういうものは、ちょっとした心の支え程度にしておいて、お前さんは、日常をしっかり噛み締めて生きることだな。それが、お前さんが成長するってことさ。そういうことなんだよ、人生は。例えば、生活ができなかったら困るでしょ。そのためにはどうするか。それには、仕事を見つけることが大事だよな。そして、一人では絶対生き抜くことはできないだろうから、誰か平凡な男を探してさ。そして、将来を支えてくれる子孫を作る。それが一番幸せなことだよ。」

「そうなのね。私、変な男ばかり見てきたから、そういう人はちょっと苦手で。だって、男の人って、変なところで恋愛とか、そういう事を口にするし、なんか女性を道具として見てるようにしか見えなくて。それは、私が素直に持っている感想なんですけど、それは、だめなのかな?」

千歳さんは、杉ちゃんの話にそういったのであった。

「そうなんですね。確かに、男というものは、難しいところがあるけれど、女性が一人で生きていくということは、できないからね。誰か、好きな人を、見つけないとな。もしかして、平凡な幸せを見つけられたら、お前さんの不安とか、つらいことも取れるかもしれないよ。意外に、心の障害ってのは、それで納得できることもあるからね。それは、そういうことなんだよ。人間である以上ね。」

杉ちゃんがそう言うと、

「なんだか騙されてしまったみたいだわ。あたし、そんな大スターみたいな人を、必ずこちらの方を振り向いてくれるって信じ込んで、何年も待っていたのに、それが全部無駄になってしまったわけでしょ。確かに、平凡に暮らすのは幸せなのかもしれないけど、あたしが耐え続けた時間は、全部無駄になってしまうのかしらね。」

千歳さんは、そう返した。

「まあ、たしかに若い人はそう思うかもしれないですけど、そのうち、平凡さが一番だと言うことはわかると思いますよ。もしそれを無理やり飛び越えようとすると、水穂さんのような、体を壊すことになってしまいますからね。それでは、人生楽しくないでしょう。そうするためには、やっぱり平凡が一番なんですよ。」

ジョチさんが苦笑いしてそう言った。

「良かったじゃないですか。そういうことが、幸せになるために必要なんだってわかったんですから。」

「そうね。でもなんか未練があるの。ホントどうしたら良いのかしら。この気持ち、言葉では表せないわ。でも乗り越えなくちゃいけないのに、私は自信無い。」

千歳さんがそう返すと、杉ちゃんは、歌にしたらどうだといった。千歳さんはすぐ考えて、

「届かずに愛してしまいし彼の人を、日時生活忘れられつつ。」

と言った。

「日常で忙しき日々薬なり、日々は安寧人も安寧。」

杉ちゃんがそう返した。



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組歌 増田朋美 @masubuchi4996

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