蝉の哭く森

九重ツクモ

蝉の哭く森

 汽車を降りた瞬間、むわっとした熱気がミエリを包んだ。それでも風がある分、人でごった返した車内よりはましだ。

 突き抜けるような空の青に、大きく息を吸い込む。ミエリの住んでいた首都では見ることのない壮大な山々。

 遠くに来たのだという実感が湧いた。


 屋根もなく荷台に積み込まれるだけのバスに乗り、悪路を数時間揺られた先に、その村の入口はあった。ミエリは擦り切れた大きな革の鞄から、母の描いた地図を取り出す。母の友人が住む家は、この村を通り過ぎた奥の森の中にあるという。あまり目立ちたくはないが、村を通らなければ道が分からない。ミエリは不安を抱えながら、村の入口をくぐった。

 渓谷の中にひっそりと存在するその村は、どこもかしこも石造りで出来ていた。首都ほどではないものの、どこか空気がひりついている。このご時世では仕方がないか、とミエリは内心嘆息した。


 太陽は頂点をやや過ぎており、ミエリの腹は空腹の鳴き声を上げた。

 小川に掛かる石橋の欄干に腰掛け、ミエリは鞄からパンとチーズを取り出し、ナイフで器用に切って齧り付く。

 石橋からは、村の広場が見える。目的地は広場を抜けた更に先だ。ミエリは固くなったパンをゆっくりと咀嚼すると、スカートに付いたパン屑を払って立ち上がった。


 再度鞄を持ち直し、広場の方へと向かう。通り抜け様に広場を見れば、中央にガラス張りの小屋があった。見せ物か何かかと埃っぽいガラスを覗き見て、ギョッとする。恐怖ですくみそうになる足を叱咤して、ミエリは半ば駆けるように広場を通り過ぎた。


 人目を気にしながら、森へと踏み入れる。ここからは道らしい道がない。正直辿り着けるか不安に思いながら、歩を進めた。


 森の奥に進むにつれ、聞いたこともない騒音がミエリの耳を襲った。どれほどの時間が経ったのか、木に隠れてもう太陽は見当たらない。あとほんの数刻もすれば、日が暮れてしまうだろう。

 ミエリは恐怖を感じていた。これは何かの鳴き声なのか。これほどの音なら、よほど大きな生物なのではないだろうか。暗闇の中、森で一人謎の生物に襲われる想像をして、足がすくむ。

 ミエリは必死に耳を塞ぎながら、とうとう涙を浮かべて座り込んでしまった。


「良かった。ここに居たのね」


 にわかに人の声が聞こえた。ミエリが驚き顔を上げると、木々の間に女性が立っていた。


「ジゼルおばさん……?」

「そうよ。ミエリちゃん、よく来たわね」


 眉尻を下げて微笑む女性——ジゼルは、ミエリの母の友人であり、この旅の目的となる人物だった。ふんわりとしたアンバーの髪には、ちらほら白いものが混じっている。眼鏡の下には理知的な瞳が覗き、花柄のワンピースがふくよかな体を包んでいた。ミエリが最後にジゼルと会ったのは、もう5年は前だろうか。記憶の中の姿より歳はとったものの、纏う雰囲気は何も変わっていない。

 ミエリは心底ホッとして、余計に涙が溢れてしまった。


 ジゼルはミエリの鞄を持ち、彼女を支えてゆっくり歩き出した。しばらく行くと、すっかり森の中に溶け込んでいる、小さな家があった。

 家の前には小川と水車小屋。家の横には畑が広がっていた。

 ジゼルは慣れた様子で、板を渡しただけの簡素な橋を渡り、軋む木のドアを開けてミエリを家の中に招き入れた。


「大変だったわね。こんなに遠くまで一人で……。ミエリちゃん、今何歳だったかしら」

「十三です」

「そう。十三歳で親元を離れてここまで……」


 ジゼルは眼鏡を外し、手で目元を押さえた。ミエリの境遇を憐んでいるのかもしれない。

 ミエリは居た堪れなくなり、そわそわとしながら別の話題を探そうと、口を開いた。


「あの……さっきの騒音はなんですか」


 そう言って、ふと気付いた。

 いつの間にかあの音が聞こえない。


「ああ、あのジジジという音ね。あれは蝉の鳴き声よ」

「蝉……?」

「そうよ。首都に蝉は居ないものね。この森にはたくさんの蝉がいるのよ。たった一夏、ああやって鳴いて子孫を残すために、何年も土の中で過ごすの。とても我慢強い昆虫だわ」


 遠い東の島国ではどこにいても鳴き声が聞こえるらしいが、この国では滅多に聞くことはない。ミエリも名前は知っていても、鳴き声を聞くのは初めてだった。ミエリの母は「幸運を呼ぶ虫」と言っていたが、とてもそうは思えないくらいの騒音だ。しかしジゼルも、まるで蝉を慈しむように語っている。は、同じような反応をするものなのだろうか。そうミエリは思った。


「さあ。まずは夕ご飯を食べましょうね」

「はい。……あの、お世話になります」


 ミエリはぺこりと頭を下げた。ジゼルはそんな彼女のことを、温かさの中に何か決意のようなものを秘めて、笑顔で受け入れた。



 それから、ミエリの新しい生活が始まった。

 ジゼルはほぼ自給自足の生活をしており、外から買い付けるものは、半年に一度、ここまで商品を売りに来る物好きな行商人から、衣服を買うくらいのものだった。小麦は畑で収穫し、あの小川の小さな水車小屋で挽いている。洗濯や洗い物をする洗剤も、自ら庭に植えたムクロジという植物の果実を使っている。それでも、ジゼルの生活は豊かだった。


 これまで母と二人の生活だった。仕事で忙しい母に代わり、ミエリはほぼ一人で何でもできた。そう思っていた。

 母はたくさんのことを教えてくれたが、それでも自分は何も知らない。この森のことも、自然も、何も。ミエリはずっと首都から出たことがなかった。ここに来て、ミエリは自分の無力さを痛感していた。


 ジゼルはミエリに、一つ一つ森のことを教えていった。この辺りでは珍しいシモツケの花は、とても長く咲くこと。森を抜けた先の湿原には、フラミンゴという珍しい桃色の鳥がいること。ラベンダーから精油を抽出する方法。その全てが新鮮で、ミエリにとって感動の連続だった。



 季節が二つほど巡ったある日。ミエリは森の中で美しい花を見つけた。暗く翳っていた場所に生えてはいたけれど、鮮やかな紫色のベルが集まったような花は、純粋に可愛らしいと思った。


「随分と遠くまで行ったのね。それはジギタリス。美しいわよね。でも、その花には恐ろしい毒があるのよ」


 ジゼルに見せるため、意気揚々と数本摘んで持ち帰ったミエリは、思わず花を放り投げてしまった。


「大丈夫。触るだけでは何ともないわ。間違って食べてしまうと、死んでしまうこともあるけれど」


 ミエリは震え上がった。美しいと思った紫色が、今は毒々しく見える。


「こんな危険な花、駆除しなくて平気なの?」

「あら。この森では私たちの方が新参者なのよ? 例え恐ろしい毒があろうと、ジギタリスは元々この森に居る先輩。この森には触るだけで危険な植物はないのよ。ただそっと存在しているだけのものを、人間の過剰な恐怖で勝手に無くしてはいけないわ。私たちは確かな知識を持って、自分で危険を避ければいい。大事なのは、自然に敬意を払うことよ」


 ジゼルは愛し気にジギタリスの花を撫で、花瓶に生けて書棚の上に置いた。


「植物は賢いわよね。自分が動けない分、自身に毒を纏ったり、虫を利用したり、様々な進化を遂げている。私たち哺乳類で、毒を持つものはほとんどいないのよ。自然は、本当によく出来ているわ。自然に触れるたび、私は神の存在を感じてしまうくらい」


 まるで敬虔な信者のように、もしくは世界を慈しむ女神のように、ジゼルは微笑んだ。


 美しい笑みだった。

 ミエリはジゼルを心から敬慕していた。そして、彼女のような人になりたいと思った。


 もう、ミエリは蝉の声を怖いとは思わない。むしろ早くまたあの声が聞きたいとすら思う。

 この森に住む動物たちを、植物を、空も大地も、全てが愛しいと思った。



 穏やかな日常が続いた、夏の終わり。

 ミエリは森にリンデンの花を取りに行っていた。リンデンの花をハーブティーにすれば、肩こりと頭痛に効果がある。ミエリはもうジゼルに言われずとも、必要な植物を自分で採れるようになっていた。十分に花を集めたと帰路に着く。

 家が近付くにつれ、多くの人の声が聞こえてきた。

 おかしい。嫌な予感がする。

 ミエリは走った。自分の想像が現実にならないようにと、心から祈った。



 小屋の前には、たくさんの軍服を着た男たちが居た。皆一様に厳しい顔で、小銃を小脇に抱えている。


「ジゼル・マルタン! 国を騙しこんな所に隠れていたのか! 貴様のような生意気な学者共は、命を持って罪を償え!」


 隊長らしき口髭の男の声を合図に、小屋の中から両脇を軍服たちに取られる形で、ジゼルが引き摺り出される。


 ミエリの胸に、沸々とした怒りが湧き上がった。


 

 母もそうだった。無抵抗な母を、あいつらは無理矢理引き摺っていった。母が教師であるという、たったそれだけの理由で。


 逃げろと母は言った。こうなった時の為、前もって用意していた鞄を手に取って、ミエリは必死にここまで逃げてきた。


 なのに。

 ジゼルに何の罪があるというのか。植物学者であるということの、何が悪だというのか。


 新しい政府は、学者や教師、官僚といった知識人たちを悉く連れ去り、虐殺を繰り返している。怖いのだ。彼らの知識が権力者を脅かすのではないかと。

 だからジゼルは森に隠れていたのに。このままでは殺されてしまう。

 髑髏しゃれこうべの一つになってしまう。


 ミエリが咄嗟に男たちの前に飛び出そうとした、刹那。

 ジゼルと目があった。


 ——来ては駄目。


 そう言っているようだった。


『知識は継承されなければ。この国は滅んでしまう』


 母の言葉だ。ミエリの母も、ジゼルも、ミエリにたくさんのことを教えてれた。

 今、ミエリに出来ることは——。


 ジゼルは確かに笑顔を見せた。

 そして男たちに連れられるまま、森を去っていった。


 ミエリは頬を伝う涙もそのままに、二人から培った知識を一つ一つ反芻しながら、家に戻る。

 蝉の鳴き声が、いつまでも響いていた。

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