第32話 異国の笛の音

 その後、ミンギルとテウォンのいる分隊は議政府ウィジョンブで中隊に合流したが、米軍と南朝鮮軍の猛攻に耐えきれず、結局山を越え谷を越え国境の鴨緑江アムノッカンの近くまで後退することになった。

 朝鮮人民軍全体が敗色濃厚で、平壌ピョンヤン元山ウォンサン咸興ハムフンも陥落し、自分たちはもうすぐ敗戦国の兵士になるのだと誰もが覚悟していた。


 だが同じ共産主義国家である隣国の中華人民共和国が、中国人民義勇軍と名付けられた大軍を送って朝鮮戦争に参戦したため、戦争は終わらずその後も続いた。


 一時はほぼ朝鮮全土を占領する勢いがあった米軍と南朝鮮軍は冬が近づく十月シウォルの終わりごろに後退に転じたが、彼らを撃退し戦線の主導権を握ったのは朝鮮人民軍ではなく、中国人民義勇軍であった。


 朝鮮人が朝鮮を取り戻すために始めた戦いは、気づいたときには米軍と中国人民義勇軍という、異国の軍隊同士の戦争に姿を変えつつあった。


 ◆


 朝鮮人民軍で使われる景気の良いトランペットの音とはまったく違い、朝鮮の民謡で使われる笛の音ともどこかが違う、不気味でうるさい支那の笛の音が、清川江チョンチョンガンが流れる音に重なって真夜中に響く。

 十一月シビロルの末の清川江チョンチョンガンを挟んだ朝鮮半島の北西の渓谷は、木の根が岩石の隙間を這う地面に霜が降りる寒さであった。


 木々の葉の隙間から見える頭上の星空も冷たく、吐く息は白いもやになって消える。


 そうした静かで暗い夜に中国軍は密かに米軍を包囲して退路を断ち、笛の音と共に現れて奇襲を成功させ、混乱した米兵を一網打尽に壊滅させていた。


 だが一方でミンギルとテウォンのいる分隊を含んだ朝鮮人民軍の中隊は、勢いよく進撃を続ける中国軍の後をただ着いて回るだけの、何の役にも立たない軍隊になっている。

 夜の暗闇に紛れて戦闘が終わった林を歩き、ミンギルは地面にいくつも転がっている米兵の死体の数を数えて、ため息をついた。


「支那軍は米帝の兵士を、本当にたくさん殺したんだな」


 ミンギルの足下には背中を撃たれてうつ伏せになった米兵の死体があり、数歩進んだ先には足から大量に血を流した米兵の死体がある。

 米兵はあちこちに散らばって倒れているので、ミンギルはどちらに歩いても死体に遭遇することになる。


 時折り何語かわからない呟きやうめき声が聞こえるので、全員が死んでいるわけではなさそうだが、この夜の冷え込みでは怪我人のほとんどは助からないだろうとミンギルは思った。


「分隊長に戦場の様子を見てくるように言われたから見にきたが、見てどうするっていう状況じゃなさそうだ」


 ミンギルの後ろをついて歩くテウォンは、あまり死体をじろじろ見ないように気をつけながら、できることを探している。

 虚に目を見開いた異邦人の死に顔は、ミンギルもそう目を合わせたいものではないので、服や装備などなるべく違うところに目を向けた。


「とりあえず、防寒着とかあったら拾って増やそうかと思っとったが、こいつら朝鮮の冬を舐めたような格好をしとるんだよなあ」


 ミンギルは屈んで、冷えた手で米軍の軍服の生地に触れてその薄さを確かめた。


「米帝は金持ちの国だって聞いとったが、何でこんなに寒そうな服で戦争をしとるんだろう」


 冬用に綿の入った軍服を着込んだテウォンが、夏と変わらない装備で死んでいる米兵を見て首を傾げる。


「何にせよ、支那軍はおれたちよりもずっと数が多くて、満足に冬の服も用意できない米軍よりも強いってことだ」


 ミンギルは米兵の軍服から手を離して、むなしさでいっぱいになって立ち上がった。

 まったく敵と戦う機会がないわけではないが、何人殺したとしても結局勝ち負けは中国軍の働きで決まるので努力したかいがあるわけではない。


「朝鮮は小さい国だから、支那よりも人の数が少なくなるのは仕方がないが……」


 笛の音が遠ざかっていく方角に目をこらして、テウォンはつぶやいた。


 実際の数を知っているわけではないものの、国境から移動してくる大軍は、ミンギルとテウォンが目にしたことがある朝鮮人民軍よりもずっと数が多いように感じられ、頼もしさよりも恐ろしさを感じる味方である。


 特にやることがないミンギルは何となくあたりをぶらぶらと歩いて、また別の死体にも目を向けた。

 ミンギルとテウォンよりもやや年齢が上に見えるその米兵の死体は手に何か紙を手にして倒れていた。


 その紙が何なのか気になったミンギルは、固く強張こわばった手からややむりやり紙をとってみた。


「何か、あったのか」


 ミンギルが見ようとするものに興味を持ったテウォンも、その紙を覗き込む。


 そこに描かれていたのは、白黒で人の集団が描かれた精巧な絵であった。


「これはもしかして、写真っていうやつか」


「ああ。多分、この人の家族を撮ったものだな」


 見慣れない品をまじまじと見つめるミンギルに対して、テウォンはそれが何なのかがわかるとすぐに離れた。


 写真に撮られている人々は年齢と性別にばらつきのある白人で、皆きちんとした洋服を着ており、うっすらと微笑みを浮かべてこちらを見ている。

 その幸せそうな集団の姿に、ミンギルは彼が今は防寒着を持っていなかったとしても、故郷では豊かで恵まれた存在であったことを理解した。


(でも冬の夜の戦場では、家族の写真は役に立たない)


 裕福で幸せな人生を送っていたはずの存在が無惨に野垂れ死んでいる現実を前にして、ミンギルはかすかな優越感を抱いた。自分たちよりも上の階級に属する人間が不幸になるのを見るのは、正直それなりに気持ちが良かった。


 だが同時にミンギルは、自分たちを待つ家族はどこにもいないという事実を思い出して、寂しくもなった。

 戦場に転がる死体の数だけ幸せな家庭があるというわけではなく、ミンギルとテウォンはありふれたもうひとつの不幸の中にいる。


(おれたちは最初から家族がおらんから、家族が死ぬ辛さは考えてもわからん)


 安らかとはあまり言えない苦痛にゆがんだ米兵の死に顔を眺めながら、ミンギルは残された彼の家族がどう感じるのかを想像した。


(テウォンが死んだら、おれもきっと辛いんだろうけど)


 家族の死について考えていたミンギルは、そのままごく自然に、唯一かけがえのないと思える相手であるテウォンの方を見た。

 テウォンは死体は目を合わさないように、木々の隙間から星空を見上げていて、ミンギルの眼差しには気づいていない。


 あまりにも長い間二人で生きてきたので、ミンギルは自分にとってテウォンが本当はどんな存在なのかわからないところがあった。


 もしテウォンを失ったとしたら、どれくらい辛くて、どれくらい辛くはないのか。

 また逆にミンギルが先に死ぬのだとしたら、テウォンはどれくらい悲しんでくれるのか。

 そのどちらかがわかってしまうときのことを考えるとミンギルは、一瞬だけ不安になる。


 しかしずっといっしょに生きてきたんだからきっと死ぬときも一緒なんだろうと根拠もなく確信すると、ミンギルはすぐにその不安を忘れた。


「見終わったら、写真は元に戻しとけよ」


「ああ。ちゃんと返しとく」


 ミンギルが写真をもう見ていないことに気づいたテウォンが、人が人を想って死ぬ邪魔をしないように助言する。


 その言葉に従って、ミンギルは遠い異国の家族写真を死者の手に再び握らせた。

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