第31話 人間らしさ

 夕食を食べて満腹になったところで、分隊の六人はそのまま住民の逃げ出した民家で寝た。

 母屋の部屋に置かれた箪笥パンタジの上に畳まれていた布団を敷けば、兵営に置かれていた寝台とは違う庶民的な生活の匂いの中で眠ることができる。


(ちょっと薄めだが、これくらいの寒さなら十分だな)


 真冬にはオンドルを使うことを前提とした、やや薄めの肌触りのよい布団の中で横になってミンギルは目を閉じた。


「大家族の家にちょうど泊まれて、本当に良かった」


 一人一組の布団があることに感謝して、テウォンも掛け布団を被って小さく丸まる。


「なんかもう、実家に帰りたくなるな」


「いやもうこれは、実家よりも居心地が良いかもしれないね」


「俺は、実家の方が良いと思う」


 他の三人も見張りを立てるとか、そういうことをまったく考えずに布団の中に入っていて、全員がそのうち穏やかな眠りにつく。


 ミンギルとテウォンもまた、戦場から逃げてきた疲れと夕食をたっぷり食べた満足感で強い眠気を感じてすぐに寝た。


 だが一眠りしたところで、ミンギルは誰かが起きて布団から出る気配を感じた。


 目を開けて物音がする方を見ると、ジョンソが起きて部屋から出ていくのが見える。


(分隊長は、小便に行くんだろうか)


 半分寝た頭で、ジョンソの行き先を考える。


 そこでミンギルはふとジョンソと二人っきりで話してみたいと思い、隣で静かに眠るテウォンを起こさないようにそっと布団を抜け出し後を追った。


 九月クウォルの末の夜更けの空気はひんやりと寒く、薄暗い民家に響く隙間風の音がより一層冷たさを際立たせる。


 ジョンソの足音は便所ではなく、縁側テッマルの方から聞こえていた。


 紙を貼った木の扉を押し開けて、ミンギルはそっと外を覗き見る。


 濃い夜の闇に包まれた縁側テッマルには、ジョンソが一人立っていて、煙草に火をつけていた。


 マッチの明かりがジョンソの手元を照らし、煙草の端に赤い光を灯して消える。

 喫煙者になる機会がなかったミンギルは、煙草の煙のほろ苦い匂いに思わずくしゃみをした。


 突然の背後のくしゃみの音に、ジョンソは驚いた様子で振り向いた。


 だがその音がミンギルによるものだとわかると、すぐにいつもの無感動な表情になる。


「すまんな、起こしたか」


「いえ。小便に行きたくなって、便所を探しとっただけです」


 ジョンソの声掛けに、ミンギルは咄嗟に適当に話を作った。


 自然に敬語を話している自分が奇妙で、ミンギルはどこか落ち着かない気持ちでいた。

 ジョンソの整った顔を見ていると緊張するので、じっと彼の手元の煙草を見る。


 するとジョンソはミンギルが喫煙が気になっていると思ったらしく、わざとらしく煙草をふかして自嘲した。


「本当に真面目な料理人は舌が馬鹿になるから煙草は吸わないらしいが、俺は不真面目だからな。皆には内緒だが、リム同務トンムも一緒に吸うか?」


 そもそも今のジョンソはまず料理人ではなく共和国の兵士であるという冗談を理解して、ミンギルは笑った。

 皆には内緒だと言われたのは嬉しかったが、ちょっとの煙でくしゃみがでるので煙草を吸える気がしない。

 だがもっとジョンソの話を聞きたいと思ったミンギルは、縁側テッマルを歩いて近くに寄ってさらに話しかけた。


「おれは煙で鼻がむずむずする、煙草は吸ったことがないし吸えもしない若造です。だけど昨日初めて敵を殺せましたから、ちょっとは新兵から抜け出せたかもしれません」


 世間話をする感覚でミンギルは初めての殺人を経験したことを明かして、そのままの流れでジョンソに問いかける。


「分隊長が初めて人を殺したときは、いつだったんですか?」


 ジョンソが人を殺したことがない可能性を、ミンギルはまったく考えなかった。絶対にジョンソは人を殺したことがある人間だと、ミンギルは直感でわかっていた。


 重い内容を気軽に投げてくるミンギルの問いに、ジョンソは一瞬真面目な表情になってこちらを見た。


 端正な顔でじっとミンギルを見つめ、ジョンソはミンギルの意図を推し量る。


 だがやがてジョンソはミンギルが特に深い考えを持っているわけではないことを理解して、質問者と同じように無駄話をする調子で答えた。


「そうだな……俺の場合はまず、軍に入る前のことになるからな」


 ジョンソは戦争だからこそ許されている罪を、その外で犯していることをさらりと告白する。

 それにはさすがのミンギルも少々の衝撃を受けて、顔を上げて聞き返した。


「戦場じゃないところで人を殺しとるってことですか?」


「まあ、そういうことになる」


 ジョンソはまったく悪びれた様子もなく頷いて、紫煙を燻らせて人を殺すことになった事情を話し出した。


「俺は昔、ある地方の裕福な家の屋敷で料理人として働いていたんだが、その家には一人の少女が妾として囲われていた」


 妾という立場にいる人に実際に会ったことがないので、ジョンソが語る状況を正確に頭に思い浮かべることはミンギルには難しい。

 しかしジョンソの淡々とした語り口に反し、色恋の関わった話が始まっているのは確かなようなので、ミンギルは努力して男女の情愛について考える気分になろうとした。


「彼女は若く美しかったが、その家の主人は年老いて醜いうえに寝所でのふるまいも酷いものだったから、彼女は主人を恐れて怯えていた」


 ハシバミの木が植えられ、数個の壺が並んだ内庭アンマダンの暗闇に今ここにはいない異性の幻を見ながら、ジョンソは一人の少女の不幸と自らの罪について語る。


「主人は別に俺にとっては悪い雇用主じゃなかったが、ある夜に何となく俺は彼女を助けたくなって、主人を古い包丁で刺して殺したんだ」


 誇りも後悔もなく、ただの事実として、ジョンソは人を殺した経験を話した。


 ジョンソはその少女について、好きだったとも、恋をしていたとも言わなかった。

 だが少女を苦境から救うために直接の恨みがあるわけでもない主人を殺したのだから、ジョンソは大なり小なり彼女に想いを寄せていたのだろうとミンギルは理解する。


 若く美しい女性は我がままで傲慢な人物しか見たことがないミンギルは、ジョンソがその少女をどのような気持ちで助けたいと思ったのかまったくわからない。

 だがジョンソが人を殺してでも守りたいと思える異性に出会えたことは羨むべきだと考えながら、ミンギルは語られる過去に耳を傾ける。


 ジョンソは人を殺した事実を述べるときとは違う、切実さのこもった声で罪を犯したことについての自分の気持を吐露し始めていた。


「俺は彼女に感謝してもらえるものだと思っていた。彼女に毎晩酷いことをしていた男を殺したんだから、当然それは良いことに決まっていると、俺は信じていた」


 そこでジョンソは、深く息をついた。


 信じていたということは、期待は裏切られたのだろうと、ミンギルは予想する。

 ジョンソが続けた言葉はやはり、少女から返ってきた拒絶についてである。


「だけど彼女は主人を殺した俺も怖がって、年老いた主人を見るときと同じ怯えた瞳で俺を見た。だから俺は……」


 最後に自分がした行為を言いかけて、ジョンソは口を噤んだ。


 ごく普通に考えれば、少女に受け入れてもらえなかったジョンソは彼女の前から去るはずである。

 だが長い沈黙にミンギルは、ジョンソは少女もまた殺すか、殺すよりももっと惨いことをしてしまったのかもしれないと唐突に思った。


(おれは馬鹿だから、分隊長が何を選ぶ人なのかはわからんけど)


 ミンギルは飲み込まれた言葉の続きを求めて、ジョンソが再び口を開くのを待つ。


 しかしジョンソは口を閉ざしたままで、結局どうしたのかは教えてくれなかった。


 ジョンソが少女が何をしたのか知っているのはその少女だけであり、起きたことの半分はミンギルが聞くことができても、もう半分は彼と彼女の二人だけの秘密なのである。


「そういう事情があって、分隊長は支那の方に行っとったんですね」


 答えを聞くのを諦めて、ミンギルはジョンソにずいぶん間のあいた相槌をうった。

 聞き手の存在を思い出し、我に返ったジョンソは、曖昧な笑みを浮かべてごまかした。


「そうだ。まあ、リム同務トンムが期待していたような話じゃないだろ?」


 どうやら隠さなければいけないような罪を一部でも打ち明けたのは、ジョンソからミンギルへの上官としての中途半端な誠意であるようだった。


 その独特な距離感の中に、ミンギルはジョンソに自分と似た性質を感じ取る。


 だからミンギルは自分にしては慎重に言葉を選んで、ジョンソへの共感を伝えた。


「分隊長がしたことは、戦場で赤の他人を殺すよりも、ずっと人間らしくて良いことだとおれは思いました」


 ジョンソが犯した罪は自分勝手で残酷で、しかしだからこそ深い感情が宿っていて、ミンギルにとっては戦争で行われる味気のない殺人よりもずっと温かく血が通ったものに思えた。


 その捻れた考えを聞いたジョンソは、最初は困惑の色を浮かべた。

 だがやがて納得した表情でゆっくり頷き、すぐ隣に立つミンギルに顔を近づけて名前を呼んだ。


「リム同務トンムは、体を動かすことが得意でも頭が悪いということになっているが、実際は深く物事を考えている」


 ジョンソのあっけらかんとしながらもどこかに影が宿る瞳が、テウォン以外と近接することに慣れていないミンギルの泳ぐ視線を、ごく至近距離で捉える。

 唐突にじっと見つめ合うことになり、思いのほか知性があると褒められたミンギルは、気恥ずかしくなって一歩下がって離れた。


「そんなことはないです。おれは物覚えも物わかりも悪いですし」


 ミンギルは首を横に振って、ジョンソの言葉を謙遜ではなく本気で否定する。


 だがジョンソはミンギルの思考をミンギル以上に整理して、説得的に根拠を述べた。


「いやいや。同務トンムが忘れたりわからなかったりすることは、同務トンムにとって重要ではないことであって、自分に必要なことだけを無意識のうちに選んでいるという時点で同務トンムはかなり賢い」


 言われてみると確かに、自分は不要なことだけがわからず、大事なことは意外とちゃんとわかって生きているのかもしれないとミンギルは気づく。

 しかしそれはどちらかと言うと冷淡さや薄情さにつながる性質であって、賢さとは違うはずだとミンギルは思った。


 だがあまり上官の言うことを否定しすぎるのも失礼だろうと考えて、ミンギルはそれ以上は話を広げずに適当に頷いて会話を終わらせる。


「そうなのかも、しれないですね」


 ジョンソも縁側下に置かれた石の窪みに貯まった水で煙草の火をしっかりと消し、吸い殻を捨ててあくびを一つした。そして閉めていた背後の戸を開いて、中に戻ろうとミンギルの方を見る。


「もうそろそろ、戻って寝ようか。こんなに良い寝床がある日は、もうしばらくないだろうから」


「はい」


 控えめな返事を返して、肌寒さに本当に尿意を感じ出してきたミンギルは便所に寄ってから、薄暗く全員が寝静まった部屋に戻った。


 かすかな温もりが残った布団の中にもぐりこむと、物音に起きたらしい隣のテウォンが薄目を開けてミンギルに小声で訊ねた。


「どこか行っとったのか?」


 ミンギルはジョンソと話していたことは伏せて、テウォンに布団を抜け出してやってきたことを説明した。


「ああ。ちょっと小便に」


 手短なミンギルの答えに、テウォンはすぐに納得して再び眠りに落ちる。


(初めておれは、テウォンに隠し事をしたかもしれん)


 テウォンの熟睡した寝顔を見つめながら程よい硬さの枕に頭を預けて、ミンギルは感慨深い出来事が起きていたに後で気づく。


 これまでのミンギルはどんなこともテウォンと分け合って生きてきたから、ミンギルが知っていることはだいたいテウォンも知っていた。

 ジョンソと二人っきりで会話したことは、おそらくミンギルが初めてテウォンに秘密にした事柄で、ささやかだけれどもしみじみと考えさせられる含みがあった。

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