第26話 敵軍の反撃

 あとは釜山プサンを占領すれば戦争は終わると八月初頭に聞いてから一ヶ月が過ぎて、暑さは残るものの日差しが和らぎ秋の気配を感じる九月がやって来た。


 上層部がどれだけ威勢の良い言葉を並べても釜山プサンは未だに陥落していなかったし、それどころか九月十五日には米軍が仁川インチョンへの上陸作戦を成功させて、敵の猛反撃が始まったという噂もあった。


 だが京城ソウルに駐留する朝鮮人民軍の兵士たちは、誰も自分たちに危険が迫っているとは考えていなかった。

 なかなか釜山プサンが占領できないという問題はあっても、大局は概ね順調に進んでおり、敵の脅威は遠い南にあると信じていたからである。


 周囲とはややずれた視点を持つことがあるミンギルとテウォンも、その点では他の兵士たちと変わらず、自軍が負ける心配をすることなく、ただ自分たちが祖国の勝利にどんな貢献ができるかということを考えていた。


 九月下旬に米軍が京城ソウルを奪還するための攻撃を始めるまで、惨めな負け戦がすぐそこまで近づいているとはまったく誰も想像していていなかったのである。


 だから急降下爆撃機の低く唸るような飛行音と、どこかに落とされた爆弾が街を破壊する轟音がすぐ近くに聞こえ始めたとき、京城ソウルにいた朝鮮人民軍の兵士たちはまず恐怖を感じる前に混乱した。


「援軍が来てるから、兵力ではこちらが優位だって聞いてたのに」


「あんなのが爆弾を落とすなら、兵隊が何をしても無駄じゃないか?」


「だけど京城ソウルは、何があっても守り抜かなきゃいけない場所だろ」


 京城ソウルを平和な占領地だと思って働いていた兵士たちは、敵と戦うために京城ソウルに来た援軍の兵士と違って、突然始まった戦闘に対応しきれないところがあった。


 それでもそれぞれの不安や覚悟を口にしながら、兵士たちは皆自軍が強大な敵に対峙していたことを理解するしかなくなる。

 持ち場を離れる命令もなく普段通りの建物の裏に立ちながら、ミンギルとテウォンも楽観的な期待を捨てて言葉を交わした。


「どうせ負けるなら、皆でさっさと逃げたほうが良くないか?」


「他の拠点が態勢を整える時間をここで稼がなきゃいかんから、負けがわかっとっても戦う人は必要なんだよ」


 損得の勘定をして軍隊に入っただけであり、国に忠誠を尽くして死ぬ気はさらさらないミンギルは、勝ち目のない危険を察知するとすぐに逃げて生き残るための思考に切り替えた。

 しかしテウォンは国全体のための犠牲になる可能性を真面目に受け入れて、役割を果たそうとする。


 テウォンほど律儀にはなれなくても、兵隊としての誇りがそれなりに育っているミンギルは、テウォンに本気の反論はしなかった。


「まあおれだって、死ぬ気で戦えって言われれば多少は頑張るつもりはあるけどな」


 西の米帝が攻め込んでいる方角の空に広がる黒い煙雲に、ミンギルは苛立ちを込めてため息をついた。

 どうやらミンギルが雪濃湯ソルロンタンを食べに行く機会がないまま、京城ソウルは戦場になってしまったようだった。


 背後の冷たいコンクリート製の建物の中からは敵軍の接近に備えて反乱分子を処刑する銃声が時折響いていたが、ミンギルとテウォンのいる分隊は実行係には入ってない。

 抗戦の命令も撤退の命令もないまま、敵がすぐそこに迫ってくるのを待つしかないのかと、二人は気をもんでいた。


 結局新しい命令を聞くことができたのは、戦闘が始まって着実に米帝が京城ソウルを奪還しつつあった数日後の昼である。

 副分隊長は米軍が攻撃してる地点から離れた厰営地しょうえいちの営庭の外れに分隊の全員を集めて、今後の予定について話し始めた。


「我が朝鮮人民軍は京城ソウルの絶対防衛を目指しつつ、一部の戦力を戦略的に撤退させることを決定しました」


 馬鹿馬鹿しいほどに丁寧な語り口で、副分隊長はまず上層部が決めた方針から説明した。


 また普段よりも青ざめた顔をした副分隊長と相変わらず無表情な分隊長のジョンソの後ろには、なぜか数人の学生服を着た女学生が立ってた。

 皆可愛らしいと言えば可愛らしいのだが、どことなく冷たい印象も感じる表情を浮かべた少女たちは、何となくこちらを馬鹿にしているような視線でミンギルたちを眺めている。


 この少女たちは何なのだろうと全員が思っていると、副分隊長がやっと本題に入って少女たちが何者であるかも教えた。


「私たちはこちらの女子義勇軍に志願した勇気ある女学生の方々を連れて京城ソウルを脱出し、中隊に合流して議政府ウィジョンブを目指して北上します」


 議政府ウィジョンブ京城ソウルのすぐ北にある、山に囲まれた要衝の地である。

 副分隊長の声は震えていて、今後待ち受けている本物の戦争が辛く苦しいものであることを予感させる。


 しかし戦って死ぬのではなく、逃げて生き延びることを目指す側に選ばれたことに、まずは分隊全員でほっとした。


(だけど、この女子たちも連れて行かなきゃいかんのか)


 ミンギルはあまりじろじろと見ないように注意しつつ、女子義勇軍に入ることを決めたという女学生の集団の様子をそっと伺った。

 むりやり連れてこられたという雰囲気もなく、不安よりも意欲の方が勝る表情をしているので、おそらくごく普通の兵隊よりもずっと真剣に共産主義を信じている女学生なのだと思われた。


 副分隊長の話が終わると、中心人物らしい少女は一歩前に進み出て信頼を求めて微笑んだ。


「祖国のために、私たちも一緒に頑張ります」


 言葉の意味だけを考えれば、少女の一言は健気なものであるはずだった。

 しかしその話し方は表情と同じようにどこか高飛車で、眼差しには自分勝手さが滲んでいるように見えたので、ミンギルはあまり優しい気持ちにはなれない。


(これは、おれが女嫌いなだけなのか?)


 異性によい思い出がないせいで物事の見方が偏っているのかもしれないと、ミンギルは他の人の反応も見た。


 テウォンがミンギルと同じように、女学生たちに対して少々引いた態度をとっているのは、想定していた通りのことである。

 しかし出征前は都会での異性との出会いを夢見ていたはずの他の三人も、義勇軍志望の女学生には距離を置こうとしているように見えたので、自分の感覚は思ったよりは間違ってはいないのだとほっとした。


 また副分隊長も命令をこなすのに精一杯で少女たちに構ってはおらず、分隊長のジョンソは面倒くさげに一瞥しただけである。


 女学生たちは周囲の男たちとの関心のずれにまだ気づいていないのか、ただ自分たちの理想を叶えることだけを考えて、知識や教養を詰め込んだ瞳を輝かせていた。

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