第23話 出陣式

 部隊の編成は七月中には終わり、月末には編成完結式と出陣式が行われた。

 特別な式と言っても普段から行われている集会とやることは変わらず、ミンギルは次から次へと続く偉い人の話に眠たくなってしまう。


 しかし音楽隊の伴奏に合わせて出席者全員で軍歌を歌うときには、さすがに気分が盛り上がった。

 梅雨明けのからりと晴れた青空に藍紅色旗がはためき、調子の良く伸びるラッパの音や軽快に弾む太鼓の音が響きわたる。


 やや長めの前奏が終わるのを待ってから、男たちは不慣れな歌声で軍歌を歌った。



 我らは鋼のように屈強な朝鮮人民軍

 正義と平和のために戦う勇猛果敢な戦士

 不義の元首を打ち倒し

 祖国の完全な独立と勝利を手に入れよう



 この曲は「人民軍行進曲」という曲名で、延安にいた朝鮮人の音楽家がソビエトの歌を編曲して朝鮮人民軍の軍歌にしたものであると、ミンギルは以前にテウォンに教えてもらった。


 ミンギルの歌声は伸びが悪く、周囲の歌声に溶け合うことなくかき消される性質のものだった。

 だが歌詞を覚えたつもりはなかったものの、歌が始まってみると意外と歌えている自分にミンギルは驚く。


(頭では忘れとっても、どこかでは覚えとるのかも)


 ミンギルは自分は物覚えが悪いと言っても、身体の動きで覚えることはむしろ得意であるので、思ったよりも物事を記憶していることもあった。


 列の手前にはテウォンがいて、声変わりを終えても少年らしさを残した声で歌っているのが聞こえる。

 そのまたさらに前方の方には、おそらく真面目に歌ってはいないであろうジョンソの後ろ姿があって、それ以外の人間はミンギルにとってその他の大多数でしかない。


 しかしそれでもミンギルは、軍歌を歌ってる間はかすかな連帯感を感じていた。


(正義と平和のためっていうのは、よくわからんけど)


 歌詞の内容を頭にぼんやりと思い浮かべて、ミンギルは戦争のことを考え直す。


 ミンギルは故郷で自分たちを支配していた金持ちの地主の家が嫌いだったが、今思うと彼らを殺したいほど憎んでいたわけでもなかった。

 そのため、同じような不平等が南朝鮮にあるのだとしても、その不平等を強いる人々を殺すのが絶対の正義だと言い切れるほど強い気持ちを持つことはできない。


 だが戦争が始まったなら話は別で、人を殺しても構わないと偉い人が大義名分を作って許可を出してくれるなら、自分は嫌いな種類の人間の命を迷わず奪うことができるとミンギルは確信していた。


 ミンギルは馬鹿なりに社会的規範の遵守しようとしているだけであって、優しさから人命を尊重しているわけではない。

 殺したいほど憎くはなくても、殺せたら心がすっきりするはずだというのがミンギルの本音である。


 だから理由さえ与えてもらえれば、暴力を振るうことに躊躇はなかった。


 向こうには向こうの大義名分があり、相手を打ちのめすことに失敗すれば当然、今度は自分の命が奪われることも、理屈の上ではわかっている。死ぬ危険性を代償に、ミンギルは気晴らしの機会を手に入れたのだ。


 そう考えてミンギルは、殺すか、殺されるかという賭けの規則を素直に受け入れる。


(難しいことは、テウォンが考えてくれとるから)


 自分よりも綺麗に響くテウォンの歌声に耳を傾けて、ミンギルはテウォンについて行けば間違いないのだと安心して青空を見上げた。


 式典が終わった後は、これから出征する兵士全員にソビエトから送られてきたお菓子が配られた。

 配る人の説明によると小さな板状のそれはチョコレートという名前のお菓子であるらしく、見知らぬ記号のような文字が書かれた包装紙を解くと、艷やかな濃い茶色のかたまりが入っている。


(味噌みたいな色をした、お菓子なんだな)


 ミンギルは目を丸くして、つやつやと硬いチョコレートを手のひらに載せて指でつついて匂いをかいだ。お菓子だと思うには不可解な深く複雑なその匂いは、どちらかと言うと発酵食品を想起させるものだった。


 周りを見てみるとその場で食べる雰囲気だったので、ミンギルは貴重なものだと思ってそっとかじった。

 外からは金属のように硬く見えたチョコレートは、歯を立ててみると案外もろく崩れ、滑らかに舌の上で溶けていく。


 そして口の中いっぱいに優しい甘さが広がるのに、どこか香ばしさやほろ苦さも感じさせる不思議な味に、ミンギルは思わず夢見心地になった。


薬菓ヤッカァの蜂蜜の甘さとは違う、知らん甘さだな)


 ミンギルはゆっくりとその欠片を舐めながら、異国の菓子の上品な風味を堪能する。

 少しずつ食べようと考えていたのに、気づけばミンギルは二口目や三口目を食べていて、手元には包装用の銀紙だけが残る。


 ミンギルはどうせ忘れてどこかにやってしまうかもしれないけれども、銀紙を大切に畳んで、鞄のポケットの中に入れた。甘い匂いだけでも、楽しむためである。


 やがてチョコレートを食べ終えたミンギルが前に向き直ると、手前に立っていたテウォンが振り返って、手を差し出した。


「割って食べてみたけど、そこまで好きじゃなかったから」


 テウォンから手渡されたのは、三分の一ほど減ったチョコレートを、銀紙で包み直したものだった。

 甘いものが好まないテウォンは、やはりチョコレートもそれほど気に入らなかったようである。


「仕方がないな。いらんのなら、もらっといてやるよ」


 本当は最初から期待していたが、ミンギルはわざと恩着せがましく笑う。


 それからもらったことを忘れないように念じてから、ミンギルはチョコレートを空の銀紙が入っているのと同じポケットにしまった。

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