第18話 訓練

 朝食が終われば、各自で食器を洗ったり、洗面所で洗顔や歯磨きを済ませたりする時間があって、それから洗濯と掃除もすることになる。

 新兵は古参兵の洗濯等を任されることもあり仕事は多かったが、ただ基本的には自分たちの生活に関係することが中心であったので、ミンギルはそれほど嫌な気持ちにはならなかった。


(他人が住む家や食べる物のために働いとったときに比べれば、全然やれる方だろう)


 そして物干場ぶっかんばに洗濯した服や下着を干し、机や床を拭いたり掃いたりして掃除を済ませてやっと、朝礼があって訓練が始まる。


 その日は白兵戦の訓練であったので、銃剣に近い大きさの模造刀ダミーナイフを手にして、ミンギルの班が含まれた新兵たちは営庭に集まり準備運動をして待った。


 銃や銃剣は一人一挺ずつ貸与され、手入れや管理は厳しく教えられている。


 しかし営庭では初夏の風が薫る青空が綺麗な天候に自然と新兵たちは笑みをこぼし、これから人を殺す練習を始めるにしてはのどかな雰囲気が流れていた。


「これを使って、今日は何を教えてもらえるんだろうな」


「前回は、銃を持って走る時間が長かったからな」


 模造刀ダミーナイフを手にミンギルが待ち切れない様子でつぶやくと、テウォンが肩をすくめてわざとらしく困った顔をした。

 体格が良く元々身体を動かすのが得意なミンギルは実技はすべて良い成績を収めていたが、小柄なテウォンは射撃はそれなりでも重い小銃を持って走り続けるのは苦手なようであった。


「でもテウォンも、順番に数えれば良い方におるだろ。難しい勉強はやっぱり、一番覚えるのが早いし」


 長い時間がとってあるわけではないものの、朝鮮人民軍の初年兵教育には国を想う気持ちを育て、兵士としての心づもりを持たせるための思想や教養の講義もある。

 そうした座学では、ミンギルはテウォンに頼るしかない。

 しかしそれ以外ではほとんど苦労していないミンギルは、少しだけ勝ち誇った顔をしてテウォンを励ました。


 最初は皆平等な存在として朝鮮人民軍という軍隊に入ったけれども、何ができて何ができないかによって格付けはされて、ありがたいことにミンギルはかなり良い方に、テウォンはそれなりによい方にいた。


 やがて教官が歩いてくるのが見えると、新兵たちは緊張感を思い出して整列し、気をつけから敬礼の姿勢をとって挨拶して迎えた。

 最初は軍隊らしい仕草に不慣れな集団だったが、今はだんだんと自然になっている。


 人が良さそうな中年男性であっても眼光は鋭い教官は、何かしらの間違いはないかと生徒を一瞥したが、特に問題はなかったようで本題を進めた。


「今日は銃を使わず、素手や銃剣をナイフとして使って戦う訓練を行う」


 教官は腕を組み、若干乗り気ではないようにも聞こえる落ち着いた声で話す。

 銃剣の扱いを教えると言いながら、教官自身は手ぶらだった。


 教官はざっと生徒を見渡して、周囲の男たちよりも頭一つ分以上は大きいミンギルに目を留めた。


「じゃあリム同務トンム。最初の見本の相手役になってもらうから、こちらに」


 腕を組んだまま立っている教官が、ミンギルを名字で指名する。

 同務トンムというのは同等か格下の相手に使う敬称で、自分より目上の人物には同志トンジを使う。


「はい、わかりました」


 何があるのかはわからないものの、ミンギルは選ばれたことを喜んで前に出た。

 直立から姿勢を変えられない周囲の男たちはただ前を向いていて、テウォンだけがミンギルを応援する視線を送ってくれていた。


(相手役ってことは、おれはこれからこの人に倒されるってことか?)


 ミンギルは指示されたとおりに、模造刀ダミーナイフを持ったまま教官の前に立った。

 目の前の教官は中肉中背で特別に体を鍛えているという雰囲気はなく、目つきの鋭さ以外には強さを感じない。

 ミンギルがじっと見つめていると、教官は組んでいた腕を解いて、口を開いた。


「リム同務トンムは背が高く男前で、なかなか立派な身体をしているが」


 息抜きの雑談という調子で、教官はミンギルの体格を褒める。

 おだてられれば図にのるミンギルは、教官の言葉に気をよくして頬を緩めた。


 だがその瞬間、教官は一瞬で距離を詰めてミンギルの模造刀ダミーナイフを持った腕を両手で掴んだ。

 間髪を入れずに、小さな蹴りでミンギルの足元を払って、掴んだ腕を引っ張って捻り、ミンギルを地面に叩きつける。


 そして倒れたミンギルをうつ伏せにして馬乗りになり、もう片方の手も捻りあげて模造刀ダミーナイフを奪って喉元に突きつければ、完全な教官の勝利であった。


「隙をつけば若くはない私でもこうして、簡単に倒すことができる」


 勝ち誇るわけでもなく、淡々と教官は事実を述べる。


 強く打った背中にしびれを感じながら、ミンギルは地面しか見ることのできない目を白黒させた。


 ぎりぎり触れてはないけれども、喉元に模造刀ダミーナイフの圧迫感を感じる。

 教官は強く抑えているわけではなさそうなのに、ミンギルは縄か何かで縛られたように身体を動かすことができなかった。


 周りで見ていた他の新兵たちは一瞬息を飲んで、それから鮮やかな教官の一撃に拍手を送る。


(今、何が起きたんだ?)


 突然の出来事にミンギルが唖然としていると、教官は拘束を解いてミンギルを立たせた。

 そして説明を求めるミンギルに目配せをして模造刀ダミーナイフを返し、今度はゆっくりと動いて不意打ちで仕掛けた攻撃を再現する。


「腕を二箇所で握って上手く力を使えば、てこの原理で小さな力でも相手を倒すことができる。肩や肘を支点にして、相手の身体に大きな力を伝えるわけだ」


 教官はどこを握ったのか生徒に見せながら、ミンギルに先程と同じように倒されることを求める。

 ミンギルは恥ずかしさを感じながらも、見本役としての役割を果たしつつ教官の動きを観察した。


(蹴りで足元を崩して、倒しやすくしとったのか)


 座学については物覚えが悪いミンギルであったが、目で見た人の動きについては、すぐに真似をして身体に記憶させることができる。

 だから教官に仕掛けられた攻撃を理解したミンギルは、すぐに身体を動かしたくなってそわそわとした態度をとった。


 教官は再度ミンギルを組み伏せ、拘束を解いて立たせた。

 そして負かされた悔しさよりもやる気が勝るミンギルの顔を見て、やられ役をやらせた生徒に今度は見せ場を与えることを決める。


「じゃあ、せっかくだからリム同務トンムと、チャン同務トンムあたりでやってみるか」


 模造刀ダミーナイフを返さずもてあそびながら、教官はミンギルの次に実技の成績の良い新兵を呼んだ。


「はい」


「やります」


 教官に呼ばれた青年とミンギルは、はっきりとした声で勢い良く返事をした。

 模造刀ダミーナイフを手にした青年は少し緊張した顔で前に出て、敗北という形で有意義な経験を積んだばかりのミンギルに対峙する。


 教官とミンギルは向き合ったときと違うのは、相手の青年はこれから自分が何をされるのかを知って警戒しているということだった。


(それにこいつは、古武術の経験者だ)


 手痛くやられたばかりのミンギルは、相手を軽んじることなく構えの姿勢をとった。

 見る側にとっては一瞬でも、やっている本人たちにとっては短くはない時間を見つめ合い、ミンギルは一歩を踏み出して青年との距離を縮めた。


 その際にわざと大きな足音をたてることで、青年を一瞬ひるませる。


 そして後は腕を掴んで一連の動きを真似すれば、今度はミンギルが模造刀ダミーナイフを奪って相手を組み伏せていた。

 強張った青年の腕を捻りあげ、喉元にナイフを突きつけながら、ミンギルは考えるよりも先に身体が動いた結果に至る心地の良さに浸った。


 ミンギルに組み敷かれた青年は、抵抗しようとする気配を見せたが、やがてあきらめて脱力する。


 それから周囲の新兵が二度目の拍手をした音で、ミンギルは我に返って青年の身体から離れた。


 青年は服についた土を払いながら立ち上がり、負けを認めた表情でミンギルを見る。

 自分も砂埃に汚れていることに気づいたミンギルは、慌てて背中や腹部についた汚れをはたいて落とした。


 教官はミンギルの想像以上の手際の良さに感心した様子で、軽い拍手をして立ち上がった二人を迎えた。


「リム同務トンムは技を覚えるのが早いし、チャン同務トンムも技をかけられる側の感覚がよくわかっただろうから、少し練習すればすぐにコツを掴めるだろう」


 両方の能力をさっぱりと認めて評価し、教官は二人を列に戻した。

 元の場所に移動するミンギルがテウォンに笑顔を向けると、テウォンも称賛の眼差しで微笑み返す。


 前に出ていた二人が下がると、教官は見本は見本として気を引くきっかけにして終わらせて、これから全体で行う訓練について話した。


「ただ全員が最初からこれをやるのは無理だから、まずはもう少し基本的なことから始める」


 理屈を知らなければ身体を動かせない者に向けた教官の説明を聞き流しながら、ミンギルは自分の優秀さを改めて実感して息をついた。


(やっぱりおれは、軍隊に向いとる)


 軍隊に入ってからのミンギルは、寒村で農事に携わって生きてきたときにはなかった、自分の価値がどんどん高まっていく高揚感を覚えていた。


 暮らしが良くなること以上に、元々持っていた能力が磨かれることが嬉しく、ミンギルは軍隊を自分を育ててくれる場所として認識する。

 訓練が終わって戦場に立ったとき、自分がどんなことができるのか、ミンギルは楽しみにしていた。

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