第16話 入営

 途中でいくつかの駅で停車しながら列車は北に向かって進み、ミンギルとテウォンのいる一行は日が沈む前には羅南ナナムに到着する。一眠りしたテウォンは、咸興ハムフンを発ったときよりも大分顔色が良くなっていた。


 軍都である羅南ナナムは、王朝時代から栄えた古都である咸興ハムフンとは違った活気に満ちていて、工場らしき建物の煙突から上がる煙も力強く見える。


「三列に並んで、順番に後について歩いてこい」


 汽車から降りた先は徒歩での移動になるようで、田舎から運ばれてきた男たちは羅南ナナム駅の洒落たうろこ屋根の駅舎を後にして、これから上官になる軍人たちに引率されて兵営へと歩き出した。

 集められたのは学校教育に縁のない者たちばかりであるので、整列して歩くのも皆不慣れな様子で、ミンギルとテウォンもどのような速さで歩けばいいのかわからない。


(まあでも、方向が合っとれば別に良いだろ)


 ミンギルは順番に後からついて歩くというよりも、これまでと同じようにただ何も考えずにテウォンの隣を歩いた。


 広々と舗装された道路には歩く人や建物の影が伸びて、道の脇に並ぶ電柱と電柱を結ぶ黒い電線は赤い夕焼けの空を横切っている。

 見慣れないの近代風の夕方の情景に、ミンギルとテウォンは自分たちが生まれ育った山奥の村から遠く離れたところまで来たことを深く実感していた。


 漢字の看板を掲げた様々な建物を見つめ、テウォンはミンギルに訪れた土地について持っている知識を話した。


羅南ナナムは昔はもっと鄙びた寒村だったが、植民地時代に日帝が国境を守る軍事拠点として発展させたらしい。一時期は日本人の商工人も多かったそうだが、もうほとんど帰国しとるみたいだな」


「金持ちが去って、立派な街だけが残っとるわけか」


 ミンギルは電柱や街灯にわざと触りながら歩いて、柱に描かれた読めない文字を指

でこする。


 想像力のないミンギルは会ったことも見たこともない日本人という特定の人々に強い感情を持つことはできず、奴婢のように扱われてきた自分たちとは違う富を持った人々の一部として日本人を数えた。


 民族や政治のことはよくわからないミンギルであっても、自分たちが犠牲を強いている人々に対して無関心で思い遣りのない恵まれた人々への怒りなら何となく理解できる。

 だから羅南ナナムの街を作った日本人が街を去ることになった話を聞いても、ミンギルは朝鮮人としてではなく、貧しい身分に生まれた者として喜びを覚えていた。


 やがて田舎から来た若い男たちの列は、軍人たちに誘導されて、立派な石造りの門がある塀に囲まれた敷地に入った。

 そこがミンギルとテウォンがしばらくいることになる、兵営という場所だった。


 田畑ともマダンとも違うただ広いだけの敷地に西洋風の建物が点在するその場所には、軍服を着た様々な年代の男たちが何十人も歩いていて、建物の中にいるであろう人も合わせたらとてもミンギルには現実感のない人数だった。


「手帳や支給品を渡すから、まずはここで待て」


 妻壁に時計のついたレンガ造りの建物の前には丸眼鏡の軍人が待っていて、男たちに大きな態度で声をかけていた。


 その指示に従って、ミンギルとテウォンも前の男と適度な距離を保って待つ。


 列はゆっくりと進んで、ミンギルとテウォンが建物に入るころには日が沈んで空は暗くなっていた。

 しかし兵営にはあちこちに電灯があって橙色に光っていたので、中も外も昼間ほどではなくても明るい。


 石造りの段差を上がって入り口に入ったところには木製の天板の大きな机が置いてあり、今まで見てきた者とはまた別の軍人が何人か座って品定めするようにこちらを見ていた。


「名前は?」


 何枚もの書類を机の上に広げて読みながら、中心に座る軍人がつっけんどんに質問をする。


 まずは手前に立っているテウォンが、物怖じすることなくはきはきと名乗った。


「ハ・テウォンです」


 書類を前にしている男は、並んでいる文字に鉛筆で何か印をつけながら隣の人物に話しかけた。


「ハ・テウォン……これだな。大河の河に、安泰の泰と、遠方の遠。服の大きさは小号だ」


「河泰遠、ですね」


 万年筆を持った隣の青年は、慣れた手付きで小さな手帳に文字を書き込みテウォンに手渡した。


「この手帳は絶対に無くさないように、常に携帯すること」


 そして青年はさらに、机の下に置いてあるいくつかの木箱のうちの一つから包みを取り出し、それもまたテウォンに差し出す。


「それと宿舎に案内されたら、そこでこの軍服に着替えるように」


「はい。ありがとうございます」


 テウォンは深々とお辞儀をして包みを受け取り、簡単な手続きを済ませた者たちの列に並んだところで、ミンギルの方を振り返って様子を見た。


 視線を交わしたミンギルは小さく頷き、テウォンと同じように手帳と軍服の入った包みを受け取った。

 ミンギルの手帳には「林岷吉」と記入されており、どうやらそれがミンギルの名前を漢字で記した文字であるようだった。


(どこから出てきた漢字なのか知らんが、まあこれくらいは頑張って覚える価値がありそうだ)


 生まれたときから与えられていたものなのか、それとも事務手続きの中で誰かが適当につけたものなのか。目の前にあるものがどちらなのかわからないミンギルは、達筆な文字で書かれた自分の名前を無感動に見つめた。


 ミンギルとテウォンは手帳や軍服以外の支給品もいくつか受け取った後、他の男も含めて五人ほどの班でまとめられ、また別の建物の部屋に案内される。


 書類を使った手続きが行われた場所から少し離れたところには、白い漆喰壁の館舎が空き地を取り囲むようにいくつも並んでいて、ミンギルは自分がどこの何番目の建物へ歩いているのかよくわからない。

 そうした理解不足を補う内容ではないものの、班を先導する年下に見えるわりに態度のでかい兵士は、後ろにいるミンギルたちに場所の説明をしていた。


「営庭に集合と言われたら、この広場にすぐに来ること。遅れたら罰則があるからな。そしてこっちの建物が、今日からお前たちが寝起きする宿舎だ」


 偉そうな口ぶりの兵士が立ち止まって、いくつか並んだうちの一つの館舎に指を指す。


 街中の商店と同じように日本人が建てたのであろうその建物は、夜の薄闇に浮かび上がる真っ白な漆喰の壁に薄緑色の窓枠が映える様子が、上品な印象を与える優美な外観をしていた。


 牛小屋の隣にあった狭く小汚い使用人部屋とはあまりにも違うように見える新しい居場所に、ミンギルは思わず息を呑んだ。


(おれたちはこれから、こんなに立派なところで寝起きできるのか)


 手前にいるテウォンもミンギルと同様、夢見るような瞳で館舎を見つめる。

 雨避けの庇のついた出入り口をくぐって宿舎に入れば、中には電灯に照らされた木張りの廊下が左右に伸びていて、正面にはまっすぐに二階につながる折り返し階段があった。


 ミンギルとテウォンのいる班はすたすたと歩く兵士に従って移動し、一階の廊下の突き当りにある広い部屋に通された。


 上げ下げ窓がいくつも設けられたその部屋は、天井も高く開放的な造りで、きちんと折りたたまれた毛布と枕が置かれた木製の寝台がいくつも並んでいた。

 腰掛けられるほどの高さのある寝台が整列して接した壁には、木でできた簡素な一段の棚がついていて、物を上に置いたり、下に引かっけたりできるようになっているようである。


 兵士は入ってきた順番に班の男たちを寝台の前に一人ずつ立たせて、支給品を棚に置かせた。


「お前たちは今日からしばらくその寝台を使うことになるから、きちんと毎日清潔を保たなければならない。朝起きた後は毛布を畳んで、ゴミもないように掃除しろ。乱れたままなら、それも罰則だ」


 それから兵士はしばらくの間、くどくどと長々しく宿舎での生活の注意事項を述べていた。

 ミンギルは多少は、兵士の話を聞く努力をしてみた。しかしやはりほとんどの内容が頭に入ってこないので、テウォンに頼るしかないと改めて決意する。


「……この後は、すぐに軍服に着替えること。着替え終わったら、食事や風呂の説明をする」


 最後にこれからすぐにやるべき指示を与えて、兵士は班の男たちに返事をさせて一旦部屋の外に出た。


 テウォンはミンギルが最初から最後まで話を聞いていないものだと考えていて、兵士の指示を繰り返した。


「今から、もらった服に着替えるんだぞ」


「ああ。それだけは聞いとった」


 最後だけは指示を耳に入れていたミンギルは、すぐに巾着状の包みを開いて服を出した。


 中に入っていたのは新品ではなくとも小綺麗な芥子色からしいろの軍服で、見慣れない西洋風の下着や靴下も入っている。


 それらの新しい時代の雰囲気をまとった支給品に目を輝かせ、男たちは着古した服を脱いで、ところどころは見様見真似な方法で、与えられた軍装を身に着けだした。

 ミンギルとテウォンも、お互い不自然なところがないか確認しながら、軍服に袖を通した。


 村で行われた身体検査の際に髪を切って風呂にも入っていたので、支給された軍服に着替えると、いよいよ本当にこれまでの奴婢に近い使用人だった人間とはまったく別の存在に生まれ変わる心地がする。


「これで、おかしいところはないよな」


 上衣のボタンを留め、革靴の紐を結んで、ミンギルは立ち上がった。

 いつも丈が足りなかった野良着と違って、しっかりと大きめの寸法で仕立ててある軍服は、ミンギルの大柄な身体にも過不足なく合っていた。


 先に着終わっていたテウォンは、目を丸くしてミンギルを見つめた。


「いやもう、誰かわからんくらいに似合っとる」


 からかっているわけでもなく、ほんとうに称賛の意味で、テウォンはミンギルを褒めていた。

 テウォンのあまりの驚きぶりに、ミンギルは照れて髪が短くなった頭をかいた。


「さすがに、そこまでじゃないだろ」


「じゃあ、こっちで見てみろよ」


 謙遜するミンギルの手を引いて、テウォンは上げ下げ窓の近くに寄った。

 夜のガラス窓には、軍服を着た凛々しい顔立ちの精悍な青年が映っていて、ミンギルは思わず姿勢を正した。


 ガラス窓に映る青年がミンギルが動いた通りに動くので、ミンギルは自分が思ったよりも見た目が良い男であることを知った。

 周りにいる他の男を見回しても、ミンギルほどたくましく軍服を着こなせている者はいない。


「やっぱり、軍隊に入って良かったなよな。おれたち」


 満足気に頷いて、ミンギルは隣に立っているテウォンに微笑みかける。

 体格の良いミンギルほどではないにしても、テウォンも軍服は似合っていて、髪を切って小綺麗になることでより知的で賢そうに見えていた。


「服は綺麗で格好良いし、立派な寝台も一人一つある。ここまではもう、間違いなく大正解だ」


 テウォンはほっとした様子で、ミンギルよりも控えめな笑みを浮かべた。


 夢のような生活と引き換えに払う代償について、テウォンは心配しているのかもしれない。

 しかし軍服が誰よりも似合ったことで万能感を得たミンギルは、どんなことだってやりこなしてみせる気持ちでいる。


 こうしてミンギルとテウォンは、朝鮮人民軍の兵士になった。

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