第13話 壮行会

 軍隊に入ることを決めたミンギルとテウォンはめでたく頭の上からつま先までの身体検査に通って、すぐに北に移動して羅南ナナムの兵営に入営することが決まった。

 羅南ナナム清津チョンジンの近くにある街で、かつて日本軍が軍事拠点を置いていた場所であるとテウォンはミンギルに教えくれる。

 やがてファン家の屋敷には二人と同じように軍に入ることが決まった村の若い男たちが集められて、出発の前日の夜には壮行会と称して普段よりもずっと豪華な食事が振る舞われた。

 マダンの中心で火にかけられた大きな両手鍋にはぶつ切りの鱖魚ソガリや|長ネギ、大根、春菊などがコチュジャンを使った汁で甘辛く煮込まれていて、縁側テッマルには色とりどりの具が巻かれた海苔巻きキムパプや緑豆の匂いが香ばしく焼けたピンデトクなどが載った小盤ソバンが並ぶ。

 開け放たれた屋敷の戸や窓にはすべて明かりが灯っていて、料理や集まった人を橙色に照らしていた。

「はい。おかわりは自由だよ」

 これまではファン家のために料理を作っていた下女も、あっさりと忠誠を誓う先を新しい国に替えて、お椀に魚と野菜を煮込んだチゲをすくって入れている。

「軍に行くって決めただけでもう、こんなに偉くなれるんだな」

 これまでは匂いをかぐことしかできなかった、飯と漬物で終わらない小綺麗な料理をまじまじと見つめて、ミンギルは自分の立場が変わったことを明るく実感する。

 一方で改めて真面目に今後のことを考えだしているテウォンは、厚遇の代償を多少気にしていた。

「その分大変なこともあるかもしれんけど、ちゃんと頑張らんとな」

 テウォンはネギと牛肉を交互に刺した串焼きジョックを二本取って、そのうちの一本をミンギルに渡す。

「今日みたいに肉がもらえるならまあ、頑張れるだろ」

 考えの浅いミンギルは、テウォンの手から串焼きジョックを取ると、何も迷わずにさっそくかぶりついた。

 ほどよく焼き目のついた牛肉とネギはまだ温かく、歯をたてると砂糖醤油で作られた甘じょっぱいタレと肉汁が絡んで脂身と赤身がほどけていく。

 肉と肉の間に挟まっているネギも、旨味を吸ってやわらかくなって、香ばしく焼けた牛肉の味を引き立てていた。

(肉ってこんなに旨いものなのか)

 生まれて初めてご馳走の味を知ったミンギルは、すぐに貪るように一本を食べ終える。

 次の料理を取るついでに室内に目を向けると、部屋の上座では村での徴兵を取り仕切っている軍人の男と、百姓の中でもそれなりに人望があるらしい年配の男がいて、焼酎ソジュを飲みながら政治か何かの話をしていた。

 勉強熱心なテウォンも、喧騒の中で軍人の男と年配の男の会話に聞き耳をたてて、串焼きジョックをゆっくりと食べている様子である。

(他の人の話を聞いてるテウォンの邪魔しちゃ悪いし、おれはチゲでも食べてよう)

 そう判断したミンギルは、火にかけられた鍋の前の列に並んだ。

 周囲で談笑している者のほとんどは同じ村の百姓であり面識はあるはずだったが、顔に見覚えはあっても名前はわからないのでミンギルは黙っている。

 火にかけられた鍋の近くは、暖かいというより暑かった。

 やがて列が進み、いつもは厨房にい下女がミンギルの前に来る。

 玉杓子で鍋をかき混ぜている下女は、これまでのミンギルを小馬鹿にした態度は崩さなかったが、これまでのよしみがなくはないと微笑みかけた。

「あんたは身体が大きいから、大盛りだね」

 下女は玉杓子を深々と沈めると、魚の切り身や大根でいっぱいにした汁をお椀に入れる。

 汁をこぼさないように注意して、ミンギルは素朴な木製の椀によそわれたチゲを受け取った。

「そりゃ、どうも」

 ミンギルがお礼を言うと、下女は意外そうに目を丸くした。

「あんた、そんな声だったの」

 どうやら下女は、ミンギルの声を聞いたことがないようだった。言われてみると確かに、いつも話していたのはテウォンだったから、ミンギルは言葉を交わしたことがなかったかもしれない。

(でも、もうこれで話すことはないよな)

 特に反応を返さないままミンギルは、椀を持って下女から離れた。

 ミンギルが彼女の名前を覚えていないように、きっと彼女もミンギルの名前を覚えていないはずで、お互いに記憶に残す必要はない。

 それからミンギルはやはりテウォンがいるところに戻って、チゲの辛みのある匂いを楽しんだ。

 社交性もあるテウォンは今度は他の百姓の男と話していたが、お互いよそ事をしていてもテウォンの隣がミンギルにとって一番安心する場所である。

(こんなに色がすごい料理って、初めてじゃないか)

 ミンギルは輪切りの唐辛子の入った熱々のチゲの汁に浸かった、野菜や魚の切り身をじっくりと見た。長ネギの緑が真っ赤な汁の色に映えて彩りよく、湯気だけでも辛さを感じるほどに匂いが強い。

 これまでミンギルが食べてきたチゲは豆腐が入った味噌テンジャンの味の茶色いものばかりであり、蕃椒醤コチュジャンを使った色鮮やかなものを食べるのは初めてであった。

 ミンギルは舌を火傷しないようにゆっくりと冷ましながら、木匙でまず魚の切り身をすくって食べた。生まれてはじめて人の食べる物を口にする獣のように、その手付きは慎重である。

 そして赤い汁の染みた魚の白身を、ミンギルはおそるおそる口に入れた。

(美味い、けどからい)

 ほどよい硬さの白身の淡白な風味を味わった瞬間に、後から来るじりじりとした辛さにミンギルは思わず瞬きをした。

 それは今日まで食べてきたものにはなかった強い刺激で、汁や具の熱さもあいまってぼんやりとした味しか知らない舌が混乱する。

 しかし食べ続けられないほどからいというわけではなく、唐辛子のからさとまろやかで香ばしい甘みが混ざった蕃椒醤コチュジャンの風味がくせになる。

(具だけじゃなくて味もたくさんで、豪華なチゲだ)

 チゲにはすり下ろしたニンニクにごま油など、蕃椒醤コチュジャンの他にも様々な薬味や調味料が使われていて、ミンギルにはわからない複雑な味を作り出していた。

 ミンギルは辛さに耐えて木匙で汁を飲みつつ、熱く煮えた具も頬張った。

 鱖魚ソガリの白身は小骨も少なく、味付けのおかげか生臭さも感じず食べやすい。

 大根や長ネギもやわらかく煮込まれつつも、しゃきしゃきとしたほどよい歯ざわりを残していて、汁に溶け込んだ野菜の旨味がチゲ全体に深みを与えていた。

(こんなに美味いものが作れる人だったんだな。あの人たち)

 ミンギルは新しい料理を運んだり空になった皿を下げたりしている厨房の使用人だった人々を見て、最後になってやっと初めて尊敬を覚える。

 その気付きは今まで与えられてきた食事が家畜の餌のようにおざなりなものだったことを意味していたが、ミンギルはご馳走の品の素晴らしさにその点についての怒りは忘れていた。

(辛いから合間に海苔巻きキムパプが食べたくなるが、ここで我慢した後で甘いトックをもらってもきっと美味い)

 食べる順番について考えながら、ミンギルは舌やくちびるをぴりぴりさせて食べ進めた。考えることは得意ではないはずだけれども、食事に関しては不思議とちょっとした知恵が回る。

 やがて一杯の椀を食べ終えるころには、ミンギルの身体は熱く、薄っすらと汗をかいていた。

「最初からもう、顔が赤くなっとるな」

 視界から外れたところから、聞き慣れた親しげな声が話しかける。

 声がした方を見下ろすと、赤くなったミンギルの頬を茶化して笑うテウォンがいた。

 ミンギルがチゲに夢中になっているうちに、テウォンは他の人との会話を終えて、両手に白濁した農酒マッコリが注がれた杯を持って立っている。

「甘い菓子も良いけど、酒も飲みたかった」

 ちょうどよいときにちょうどよい具合にいるテウォンから一杯の農酒マッコリをもらって、ミンギルはチゲの辛さの残った口で一気に飲んだ。

 香ばしく甘酸っぱい農酒マッコリで味は唐辛子のからみに晒されてきたのどを潤して、ミンギルは尽きることのない食欲で動いて今度は海苔巻きキムパプに手にとった。

 急な変革を目の当たりにした百姓たちの困惑や不安はありつつも、明るくにぎやかな宴の夜は遅くまで続く。

 料理の量は十分にあったので、他の人と取り合うということはなかった。

 好きな料理を好きなだけ手にとって、やがてミンギルとテウォンは満腹という感覚を生まれてはじめて知った。

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