第12話 主が去る日

 グミの実を採り終えたミンギルとテウォンが裏山を降りて村に戻ってみると、湖のほとりにいた芥子色からしいろの服の着た軍人らしき者たちは、ちょうど五、六人ほどファン家の屋敷の前の道を歩いていた。

 彼らが着ている軍服はファン家の長男が学校に通っていたときに着ていた学生服に形は似ていて、何人かはミンギルが知る木製の猟銃とは違う黒光りする長銃を手にしている。

 テウォンが足を止めて、何か挨拶をしようと口を開いたので、ミンギルもその半歩後ろで立ち止まった。

 しかし向こうもミンギルとテウォンの存在に気づいていたので、まず声を発したのは軍人たちの中でも一番手前にいた中年の男だった。

「ここがファン・ヤンウンの屋敷か?」

 神経質そうな顔をした男は、玉石張りの塀の向こうにある、ミンギルとテウォンが屋根を直したばかりのファン家の屋敷を指さしながら尋ねた。

 ファン・ヤンウンとは、ファン家の当主の名前である。

 男の態度はそれほど高圧的ではなく、親切そうに微笑んではいたが、テウォンの後ろにいるミンギルに対しては皆、薄っすらと警戒の眼差しを向けていた。

(大方、おれのことをファン家の用心棒か何かだと思っているんだろう)

 ミンギルは黙ったまま、相手を挑発しないように視線を泳がせる。

 使用人のわりに立派な大男に成長したミンギルは、最近は屋敷でも軽んじられるよりも怖がられることの方が多かった。

 自分では何も変わったつもりはなく、何かをした覚えはないのに距離を置かれることは不思議だったが、強そうな男として扱われることはミンギルにとって嫌なことではない。

(おれもテウォンも、殴られずにすむなら良いことだ)

 テウォンを庇って代わりに殴られることもあった、ぼんやりとしか覚えていない子供のころのことを思い出し、それが過去の出来事であることにミンギルは一人満足気に頷く。

 半歩先にいるテウォンは、自分よりは大きいが、ミンギルよりは小さい軍人の男を見上げて、問いに受け答えていた。

「はい、そうです。私たちは、この屋敷で働く使用人です」

 テウォンの言葉はミンギルと話しているときとも、屋敷にいるときとも違う、緊張したものだった。

 軍人の男はテウォンのかしこまった物言いに失笑をしつつ、二人にさらに話しかけた。

「我々は、ヤンウンに用があるんだ。ここに呼んできてくれないか」

 男が頼んできた内容に、テウォンはミンギルと顔を見合わせつつ頷いた。

「はい。かしこまりました」

 普通の客人なら、屋敷の中に入って客間で話せば良いはずである。なぜ外に呼び出さなければならないのかと、二人は不思議に思う。

 だが敵でもない自国の軍人の頼みを断る理由もなかったので、ミンギルとテウォンはグミの実を厨房に渡すついでに、どこからかやって来た軍人たちが当主のヤンウンを呼んでいることを屋敷の使用人に話した。

 そしてテウォンとミンギルは、屋敷の門に戻った。

「あなた方のことを伝えておいたので、もうすぐここに来ると思います」

「どうもありがとう。それじゃここで、待たせてもらうよ」

 テウォンから屋敷の反応を聞いた軍人は、子供に話しかけるようにお礼を言って、連れてきた五、六人の兵士たちを門の前に整列させた。

 兵士たちの実際の年齢はわからないが、同じ軍服を着て軍帽を被り、神妙な表情で並んでいる様子はミンギルやテウォンよりもずっと年上に見えた。

 それから次は何をするべきかと、ミンギルはテウォンの様子を伺った。

 開けっ放しにした門のすぐ内側にテウォンは立っていたので、ミンギルも同じように門の内側に移動した。

(そうか。おれたちは門の開け閉めを任されているんだから、ここにいれば良いのか)

 ミンギルはテウォンと並んで、軍人たちとともに当主のヤンウンが来るのを待った。

 初夏の高原の澄んだ空気が、青空を背景にして建つファン家の屋敷を包んでいる。だから木製の柱に支えられた黒い瓦の屋根と、白い紙を貼って仕上げた壁は、ミンギルとテウォンが手入れをしたばかりというのもあって一層清らかに見えていた。

 しばらくすると、ひげを綺麗に伸ばして髷を結い、きちんと外套トゥルマギを着た正装のヤンウンが、主屋の格子戸を開けて戸惑いながら出てくる。

 屋敷の中には心配そうな表情で父親の後ろ姿を見つめる長女のソヨンがいて、彼女の側に控える屋敷の中で働く使用人がいた。

 ミンギルやテウォンに対しては支配者の立場でいるファン家の人々も、新しい共和国の軍隊の前では顔色を伺わなくてはならないようである。

 マダンを横切って門まで歩いてきた初老のヤンウンは、外にいる軍人たちと挨拶を交わしてお互いに名乗ってから、おずおずと訊ねた。

「あの、私どもの屋敷に一体何のご用事でしょうか」

 開け放たれた門の外には新しい武器を持った軍人がいて、中には古めかしい両班ヤンバンの生活を守る一族の当主の老人がいる様子は、何かの見間違いのように見える。

 しかし軍人は見間違いではなく確かにそこにおり、屋敷の中にいる者たちにも十分に聞こえる声の大きさでヤンウンの問いに答えた。

「この建物と土地は、我々朝鮮人民軍が使わせてもらうことになった。ファン家の人々は、早急にここを立ち退いてほしい」

 話を聞くとどうやら軍人の男は、村を支配する地主であるファン家を排除するためにやって来たようだった。

 つまり彼はミンギルとテウォンが長い間待ち続けていた、公正で平等な新しい国への変化を促すためにやって来た人物なのである。

 しかしあまりにも唐突で急な来訪であったので、ミンギルとテウォンはすぐには喜ぶことはできなかった。

(ファン家が立ち退くって、どういうことなんだ?)

 ミンギルは軍人たちがファン家に何を求めているのかわからずテウォンの方を見たが、テウォンもまだ状況を飲み込めていない様子で見つめ返してきた。

 何が起きているのかわかっていないのはヤンウンも一緒であるようで、間の抜けた声で男に聞き返した。

「はい? どういうことでしょう?」

 田舎の地主として時が止まったような生活を送っていたヤンウンは、ミンギルやテウォン以上に時流に乗り遅れていて、危機感を抱くのが遅い。

 都会ならもっと早くに訪れたはずの変化が僻地の山奥に届いた今日を、ヤンウンは何の備えもなく迎えていた。

 男は年季の入った門柱が瓦葺きの屋根を支える名家らしい門をくぐって、マダンにいるヤンウンに歩み寄って答える。

「このあたりで兵士を集めたり、管理したりするのにお前の屋敷を使うということだ。米帝の侵略から国を守るために、大事なことだろう?」

 三、四十代だと思われる男はヤンウンより若いはずだったが、その話し方に儒教らしい年長者への尊敬の念はない。

「はあ、米帝と……」

 まったく納得していない様子のヤンウンは、新しい敵であるらしい国の名前を繰り返す。

 男が前方に移動したので、ミンギルはそっとテウォンに近づいて、小声で訊ねた。

「どこかとまた戦争があるのか?」

 米帝という国については知っていることがあるらしく、テウォンはミンギルを少し屈ませて耳打ちする。

「日本を打ち負かした米帝、つまりアメリカ合衆国は、南朝鮮を不当に支配して南北の統一を妨げとる国だ。米帝の傀儡政権による圧政に抵抗しとる同胞もおるから、彼らを助けるためにも戦争で南朝鮮の国土を取り戻すべきだって意見も多い」

「……とにかく、米帝が悪いんだな」

 テウォンの説明は、ミンギルには半分もわからなかった。だが朝鮮の土地を奪おうとする国があるらしいことはミンギルにも理解できたので、敵を倒すための戦いには疑問を抱かない。

 朝鮮を救う戦争のために、ファン家が犠牲を払うならそれはミンギルにとっては良い報せである。

 屋敷の方を見てみると、軍人の男に対応している父親の後ろ姿に不安を覚えたのか、ソヨンは母親に引き止められながらも革靴を履いてマダンに降りてきていた。

 丈長のチマを可憐に揺らしながら父親の前に立っている軍人の男に駆け寄り、ソヨンは甲高い声で名乗った。

「あの、私はヤンウンの長女のソヨンです」

 娘を下がらせようとする父を無視して、ソヨンは男に話しかけた。

 男は見目の良いソヨンの顔と、ヤンウンの冴えない顔を見比べて不思議そうな顔をして、それから屋敷の中から顔を出している母親の顔を見て頷いた。

「名前は聞いていたが、美人なお嬢さんだ」

 お世辞ではなく、ある程度は本音で、男はソヨンの容姿に感心している。

 男の反応に自分の女性としての魅力を利用するべきだと気づいたソヨンは、よりか弱いふりをしよう名前を告げたときと表情を変えた。

 長年使用人として彼女の無関心な冷たさを見てきたミンギルはあまり心動かされなかったが、ソヨン自身は自分の美しさには他人の行動を変えるだけの価値があると信じていた。

「私はもうすぐ、婚約者とこの家で婚礼を挙げることになっているんです」

 袖に手を隠して顔の近くで合わせて、ソヨンは上目遣いで軍装の男を見つめる。

 ソヨンは自分に与えられていたはずの幸福な未来を壊さないでほしいと、庇護欲をくすぐり伝えようとしていた。

 しかし男の反応は、ソヨンの期待に反して思ったよりも素っ気のないものだった。

「……それで?」

 男は首を傾げて、ソヨンの結婚と自分の仕事の間に何の関係あるのかわからないという顔をした。男はソヨンが美人であることは認めていたが、それ以上には何も感じていないようだった。

(そう簡単に、絆されたら困る)

 待ち望んていた通りの事の次第に、ミンギルはほっとした気持ちになって、庭に立つソヨンと男のやりとりを見守った。

 生まれてから今日まで他人にぞんざいに扱われたことがないらしいソヨンは、きょとんとした様子で言葉を続けた。

「だからあなた方に家を使われてしまうと、私がここで婚礼が挙げられなくて困るのですが……」

 予想が甘かったソヨンの言葉は、段々とたどたどしいものになっていく。

 単にソヨンが自分と自分の家族の財産を維持しようとしてただけだとわかった男は、ソヨンと向き合うことを止めて言い捨てた。

「なるほど。それなら隣の村に空き家があるのを見かけたから、そこに住んで婚礼を挙げれば良いだろう」

 実家で行われる華やかな婚礼に夢を見ていた若い娘に対して、男の提案はひどく残酷な内容だった。

 隣の村に空き家があったとして、それはこの何人もの使用人が働くファン家の屋敷のような立派なものではありえないし、一家の家や土地が失われれば結婚が成立するかどうかも怪しい。

 だからソヨンは反論を重ねようと口を開きかけていたが、兵士たちが屋敷の前に並ぶ状況の危うさにやっと気づいたヤンウンが、慌てて恭順の姿勢を見せた。

「では、いつまでにここを去れば良いでしょうか」

「できるだけ、すぐに」

 男は立ち退きを急かしていたが、無理な期限は言わなかった。

 そのわずかな温情をかけられたヤンウンは情けない笑みを浮かべ、へこへことお辞儀をした。

「かしこまりました。これから荷物をまとめます」

 空気を読んで黙ってはいるものの、まだ何か言いたげな顔をしたソヨンを連れて、ヤンウンは屋敷の中へと去っていった。

 最低限の衣食住と引き換えに物心ついたころから働かされていたミンギルは、父娘に直接の恨みはなくても同情はしなかった。

 ミンギルよりは良い立場にいるはずの屋敷の中にいる使用人たちもまた、誰も家を奪われる主人を助けようとはしない。

 その様子を、軍人の男と男の連れてきた兵士たちはあまり興味が無さそうに見ていた。

 軍の男たちは、ソヨンやヤンウンから屋敷と土地以外のものを奪うこともできたはずだった。

 しかし彼らはヤンウンに荷物をまとめることを許し、ヤンウンが家族を連れてどこへ逃げたとしても問題視しない素振りも見せていた。

 それはファン家に待つ未来が、どう転んでも暗く苦しいものであると男たちが知っていたからである。

 昨日までは何もかもが自分の思い通りになるはずだと信じていたソヨンも、今日からは力に屈して踏みにじられることを知る。

 だがミンギルはファン家がどこまで転落することになるのかあまり具体的に想像できなかったので、ただ素直に気に入らない主がいなくなることを喜んだ。

「やっぱりテウォンの言っていた通り、新しい国っていうのはおれたちみたいな人間のための国なんだな」

 ミンギルは笑顔でそっとテウォンの頭上に呟いたが、それは言うほどの小声にはならなかった。

 テウォンはミンギルよりは物事をわかっているので、少々複雑な表情を見せたが、それでもずっと待っていた変化が現実に起きたことには微笑んだ。

「ああ。きっともう、誰も俺たちを蔑ろにすることはないんだ」

 先程までよりも清々しく見える五月晴れの空の下で、テウォンはもうすぐ主が去ることになった古めかしい屋敷をすっきりした表情で見つめている。

 その二人の呑気な会話が聞こえていたのか、庭に立っていた軍人の男は振り向くとミンギルとテウォンに話しかけた。

「この屋敷の使用人だったなら、彼らが去れば君たちの仕事はなくなるな」

「はい。この屋敷の人々のために働くことは、もうありません」

 テウォンは慌ててかしこまって丁寧な言葉づかいになって、男の問いに受け答える。

 隣のミンギルはただ黙って、テウォンにやりとりのすべてをまかせていた。

 男はミンギルとテウォンを交互に見て、特に体格の良いミンギルを興味深げに見つめて、新しい選択肢を与えた。

「それなら朝鮮人民軍に入って、共和国のために働く気はないか」

 ある一家から住まいを奪ったばかりの人物が言うのだから、その提案は命令に近いものであったのかもしれない。

 だがやっと低い身分から解放されそうで明るい気分になっていたミンギルとテウォンは、自分たちの来ているぼろぼろに擦り切れた野良着と、兵士たちが着ている軍服の折り目の正しさを見比べて、自然とその気になった。

(こんなに立派な服を着てるんだから、きっと食べてるものも立派なんだろう)

 ミンギルは勝手な想像で兵士たちの生活を思い浮かべて、それ以上のことは何も考えなかった。

 一瞬は躊躇っていたテウォンも、すぐに細かいことには目をつむって、進む道を決めた表情でミンギルの方を向く。

 ミンギルは何も言わずに、目配せでテウォンに合意して、答えを伝えることを任せた。

 男の方に一歩歩み出たテウォンは、はっきりした声で男が提示した選択肢を選んだ。

「あります。軍に入ってみたいです」

 声変わりを終えても少年らしさが残る、テウォンの澄んだ声が彼ら以外誰も話さない庭に響く。

 それがミンギルとテウォンが生まれて初めて自分で選んで決めることができた、人生の決断だった。

 ミンギルとテウォンはそのとき、軍隊が本来何を目的にした組織であるかは忘れて、新しい環境での自分たちの幸せを疑うことなく信じていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る