第6話 お祝いのお菓子

 春が過ぎ、田畑に播いた籾種から芽が出て育つと、青稲が眩しい夏になる。

 それほど暑くはならない土地であるが、日差しの強さは感じるようになった八月パルウォルの半ばに、日帝の始めた戦争が終わった。

 ミンギルとテウォンの生まれ育った朝鮮は、結局どのような国名になったのかはわからないが、解放独立の日を迎えたことになった。

 連合国の勝利と日本の敗戦が伝えられた八月十五日は半信半疑で戸惑っていた人々も、翌日には長い植民地時代の終わりを確信して喜びだす。

 戦争はもうすぐ終わるとテウォンから何度も聞いていたので、ミンギルは玉音放送というものがラジオで流れたと聞いてもそれほど驚かなかった。

 ただ日帝の敗戦をきっかけに村全体が浮かれた雰囲気になり、特にファン家が率先して解放独立を祝い始めたのには首を傾げた。

 ファン家の当主は宴の余興で使うために蔵にしまってある太鼓をわざわざ出してきて、独立万歳と歌って村人に貸し出していた。

 ミンギルは畑で雑草を抜きながら、庭に太極旗を掲げた棒を立てたファン家の屋敷を冷めた気持ちで眺める。

(この国が日帝に支配されてたからって、別にあいつらがそこまで苦労していたわけじゃないだろう)

 異国の植民地となっていた祖国を想う気持ちが、ミンギルにまったくないわけではない。

 しかしミンギルは、自分の主であるファン家が、日帝の支配下において何か犠牲を強いられているのを見聞きした覚えはなかった。

 使用人のミンギルからは、ファン家の人々は裕福で満ち足りた幸せな生活を送っているように見えていた。

 また村から出たことがないミンギルは日本人に会ったことがなく、ミンギルに命令するのは常にファン家かファン家に気に入られている人物であったので、自分が日本のせいでひどい目にあっているという実感はない。

 テウォンも同じように考えていたようで、しぶとそうな雑草を引き抜き籠に放り投げて呟いた。

「俺はあの人たちが、あそこまで愛国者だとは思ってなかった」

 より政治や歴史を理解しているテウォンは、村中のいたるところに増えていく即席の太極旗には敬意を払いつつも、冷めた目をしている。

 しかし何にせよ、日帝の敗北がめでたいことには違いないので、ミンギルとテウォンは将来に期待していた。

 祖国から独裁者が去って幸福な時代がやって来るのなら、自分たちもきっと奴婢のような立場から解放されるのだと信じて、二人は待つ。

 独立を祝う雰囲気が一番強まったある夜には、ファン家ではつややかな白米が釜いっぱいに炊かれ、その釜の蓋では何枚もの緑豆の丸餅が焼かれて、具を詰められた鶏肉が鍋で煮込まれた。

 そうして出来上がったご馳走は、使用人たちにも分けられる。

 ミンギルとテウォンの二人も、一体どんなに美味しいものが食べられるのだろうと想像を膨らませながら厨房に夕食をもらいに行った。

「あの、今日の夕食をお願いします」

 肉や魚が焼ける香ばしい匂いのする勝手口から顔を覗かせ、テウォンが二人分の食器を厨房に差し出す。

 厨房を切り盛りしていた下女は、その食器を受け取り、鉢にいつもと同じ赤米を盛り付け漬物を載せた。

「えっと、あんたたちはこれと薬菓ヤッカァだね」

 下女は紙に包まれた小さな菓子らしきものを二つ添えて、二人に飯を盛った食器を返す。

 厨房で様々なご馳走が作られても、末端の使用人であるミンギルとテウォンに分配されるのは、その一部のほんのすこしだけであった。

「……ありがとうございます」

 思っていたものとは違う夕食の内容に、テウォンが戸惑いを隠しつつもお礼を言う。

 それからミンギルとテウォンは、たったこれだけという気持ち半分と、でもいつもとは違うお祝いのお菓子があるという気持ち半分で、裏庭の隅に腰を下ろして夕食を食べ始めた。

 内庭アンマダンで鳴り響く太鼓や笛の音や、招かれた客人の楽しげな話し声だけが聞こえる裏庭は、まったく静かなときとは違う落ち着きがある。

「まあでもいつもよりは炊きたてで、飯の量が多いみたいだな」

「漬物に入っとる野菜の種類も、多いようだし」

 ミンギルが手秤で飯の量を量って、テウォンが漬物に使われている野菜の色を数える。

 元々が夏も涼しい土地であるので、夜風は野良着しか着ていない二人には少々肌寒く、星の輝きを隠す月明かりは煌々と冷たく見えた。

 何とか普段よりも良いところを探しながら、いつも通りの主食を終えたミンギルとテウォンは、厨房でもらった紙の包みをほどいた。

 かすかに油の染みた薄紙の中には、つやつやと蜂蜜に覆われたきつね色の薬菓ヤッカァが一つずつある。

 菊形の型で綺麗に形作られた可愛らしい菓子は、ちょうど手のひらに載る大きさだけれども適度な重みがあり、真ん中には白い松の実が何粒がついてこんがりと揚がった生地の色を引き立てていた。

「見ろよ、きらきら光るぞ」

 薬菓ヤッカァを月明かりに当てて、ミンギルは表面の蜂蜜が光るのを楽しんだ。

「ああ。食べ物じゃないみたいに綺麗だ」

 テウォンはミンギルよりも冷静に、地面に座ったまま手のひらの上の薬菓ヤッカァを見つめていた。

 まだほんのりと温かく、蜂蜜の匂いがする薬菓ヤッカァに食欲をそそられたミンギルは、適当なところで見るのをやめて、そのお祝いのお菓子にかぶりついた。

 しっとりとした生地が崩れて、中までしっかりと染みた蜂蜜の甘さにミンギルの頬が緩む。

 外側は香ばしく揚がって松の実と共に歯ざわりよく仕上がっていても、中は黄色く柔らかく、優しく口の中でほどける食感を楽しむことができる。

 ほのかに感じる生地に入った生姜や桂皮の香りも味に深みを与えており、ミンギルは今まで経験したことのない美味しさに目の覚めるような気持ちになった。

「たったこれだけだと思っとったけど、十分に甘くて美味しい」

 ミンギルは薬菓ヤッカァを大事そうに両手で持って、二口目からは大切にじっくりと食べることにした。

 しかしテウォンは一口食べた後も表情を崩さずに、無感動な様子で飲み込んでミンギルの言葉に応えた。

「そりゃまあ、蜂蜜より薬菓ヤッカァが甘いって言うからな」

 そして包み紙に包み直して、テウォンはミンギルが食べ終えた器の中に食べかけの薬菓ヤッカァを入れた。

「俺はいらないから、お前にやるよ」

「いいのか?」

 テウォンの申し出に、ミンギルは美味しいものをより多く食べることができる喜びを隠さずに顔を上げる。

 何もかもがミンギルとは正反対の淡々とした態度で、テウォンは頷いた。

「ああ。俺はやっぱり、塩辛いものの方が好きだ。だから代わりにまた今度、漬物を多めに分けてくれ」

 甘い菓子よりも塩辛い漬物の方が良いと話すテウォンの表情は、相方に美味しいものを譲ってあげたかったなどという殊勝な感情に基づくものではなく、本当に甘いものの美味しさがわからないという怪訝そうな顔をしていた。

 だから遠慮はまったくせずに、ミンギルは二つ目の薬菓ヤッカァが入った器を自分の方に引き寄せた。

「ありがとう。じゃあおれはこのお菓子を二つ、食べさせてもらう」

 テウォンから食べ物を譲ってもらうのは、ミンギルにとって常日頃良くあることだった。

 飯粒を噛んだときのほのかな甘さが好きなミンギルは、おかずなしでもいくらでも炊いた飯を食べることができるが、味の薄いものが苦手なテウォンは塩辛い漬物なしでは飯を食べることができない。

 だからテウォンが残した飯を食べるのは、いつもミンギルだった。

 身体の大きさも、得意不得意も何もかもが正反対のミンギルとテウォンは、食べ物の味の趣味も正反対なのである。

(テウォンがくれる食べ物のおかげで、おれはさらに大きくなれたわけだけど)

 ミンギルはほんの小さな、しかし食感は十分に楽しめる大きさの一口で、慎重に薬菓ヤッカァを食べた。

 小さな欠片でも薬菓ヤッカァは甘く、ミンギルはそのときだけはファン家の人間への不満を忘れる。

 ミンギルは蜂蜜で作って蜂蜜よりも甘い、目の前の薬菓ヤッカァのこと以外は何も、考えていなかった。

 だがその隣ではテウォンが膝を抱えて座り、俯いて月明かりに照らされた地面を見つめて、ミンギルの代わりに何か難しいことを考えていた。

薬菓ヤッカァは元々王族や貴族が食べとったお菓子だから、俺たちが食べられるのは幸せなことのはずなんだが」

 奴婢に近い自分たちが、ただひとつだけの薬菓ヤッカァを食べることを許された意味を問いつつ、テウォンは一人星の見えない夜空を背負って俯く。

 ミンギルにとっては何も疑問はなく、薬菓ヤッカァが美味しいということだけが、その一口を味わっている間の答えであり真実だった。

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