4‐9.偽物の姫
いくつもの凍った河や高原を越えて、ラーストチカの乗った馬車とその一行は大嘉帝国の都である帝都へと向かった。
とにかく気候が厳しい土地を通るので、旅そのものはそれほど楽しいものではなかった。
しかしその分、長い旅を終えて目的地に辿り着いたときの感動は大きかった。
(ここが大嘉帝国の、世界で一番すごい国の都なんだ)
帝都に到着したラーストチカは、巨大な白塔や瑠璃色の寺院が立ち並ぶ街の中心を馬車の窓から覗き、まるで自分が小人になったかのように錯覚した。
(あんなに大きい建物を、いったいどうやって建てるんだろう)
この土地には巨人も住んでいるのだろうかと思って、街を行く人を見る。
しかし帝都の住民は、肌や髪の色には様々な違いがあっても、身体の大きさは常識的な差しかなかった。
やがて馬車は金色の屋根が荘厳に輝く皇城の門を抜けて、ラーストチカは旅の終点に辿り着く。
進む速度をしだいに緩めた馬車は皇城の敷地のどこかで止まり、扉は搬贄官の青年によって開けられた。
「長旅、誠にお疲れさまです。ご気分はいかがですか?」
「なかなか良い気分です。窓から見えた帝都の様子が、とても素敵だったので」
青年に手袋をはめた手をとってもらって、ラーストチカは優雅に青いドレスの裾を持ち上げて馬車から降りる。
外に出た先の石畳に立ってあたりを見渡すと、そこは池の中に浮かぶように建てられた立派な居館の前だった。
居館はラーストチカが今まで見たこともないような鮮やかさの塗料で彩られていて、軒や柱の装飾に使われている赤や緑などの様々な色が目を楽しませた。
(公国の古城よりも、ずっと綺麗だ)
ラーストチカは艶やかな瓦葺の屋根まで見上げて、深く息をついた。
帝都の冬は降雪は少ないものの寒さが厳しいと聞いていたが、気分が高揚しているせいか気温はそれほど気にならなかった。
隣にうやうやしく控える搬贄官の青年は、ラーストチカを館の門まで連れてくると、かしこまった調子で口を開いた。
「地を這う全ての獣、空を飛ぶ全ての鳥、海に棲む全ての魚は恐れおののき、あの方の支配に服して、あの方の食物となる。僕たちの王であり神でもある大帝は、全てを支配し、全てを食します」
青年はおもむろにラーストチカに帝国の信仰について語り、そしてそのまま館の役割を説く。
「この
犠妃は妃であると同時に生贄でもある存在であり、夫となる大帝を前にして結ばれるのも死を迎えてからのことである。
そのため饗花宮もまた、大帝の花嫁となる少女をもてなす場所であると同時に、大帝に食される食材である少女を管理する場所でもあることを、ラーストチカはあらかじめ習って知っていた。
そしてその何度も繰り返しているのだろう説明の後に続くのは、搬贄官の青年とは違う人物の、低く抑揚のない不遜な響きの声だった。
「お待ちしておりました、イストーリヤ様」
初めて聞く声の呼びかけに建物を見上げるのをやめると、ラーストチカの目の前にはある一人の背が高い大男が立ってた。
「俺は神である大帝に仕える料理人であり、この饗花宮の番人でもある庖厨官のルェイビンと申します」
まず男は淡々と、名前と役職を名乗った。
男は敬語で話しているわりに、気難しげで高圧的な佇まいだった。細い布で結ってまとめられた髪も不機嫌そうな切れ長の目も黒く、精悍な顔は鋭い雰囲気を持っている。
武器を携えてはおらず武人ではないはずなのに、
「あなたが、庖厨官の方なのですね」
ラーストチカはルェイビンと名乗ったその男を、まじまじと見つめた。
庖厨官というのは大帝に仕える料理人のことであり、大帝に捧げられた供物である犠妃を屠って肉を割き、料理にして宴の席に出す役割を持つ存在だった。
(そう。だから私を食べるのは大帝だけど、殺してくれるのはどうやらこのルェイビンって人らしい)
ラーストチカは、大きな獣を魔法で人間に変えたらきっとこの男のようになるのだろうと思いながら、ルェイビンの様子を伺った。
誰にも興味を持たない狼のような目をして、ルェイビンはラーストチカを見ていた。
ここ一年でラーストチカの背はかなり伸びたのだが、それでもルェイビンと目を合わせるには下から見上げる必要があった。
ラーストチカをここまで連れて来た青年は、ルェイビンの隣に立って別れを告げた。
「犠妃となる方をこの饗花宮にお連れする、搬贄官である僕の仕事はこれで終わりです。後は庖厨官であるルェイビンが、あなたに従いますので」
「かしこまりました。ここまでありがとうございました」
微笑みを浮かべて手を合わせる青年に、ラーストチカはお礼を言った。
「では、これで」
青年はルェイビンと視線を交わして、立ち去った。
改めて青年の後ろ姿と目の前のルェイビンを見比べてみると、人に与える印象の良さなど、何もかもが対照的に見えた。
搬贄官の青年がいなくなると、ラーストチカはルェイビンと二人っきりになった。
ルェイビンは見るからに重そうな門を一人で開けて、押し黙ったままの仏頂面でラーストチカを中に通した。
(何か、一言くらい言えばいいのに)
神に嫁いで妃となる神聖な存在に接しているとは思えないルェイビンの態度を、ラーストチカは不思議に思った。
饗花宮に足を踏み入れて、まず目に入ったのは黒いレンガが敷き詰められた庭だった。
木々のほとんどは冬枯れしたしていたが、一本の黒い梅の木だけは花をつけている。かすかに紫をにじませたその朱い花は、静かな冬の情景に華を添えていた。
「俺は七日後に、お前を殺して大帝の宴の料理にする」
ルェイビンはまったく梅に目をやることなく庭を通り過ぎて、ラーストチカのこれからについて語った。
二人になった途端に、ルェイビンは早くも敬語ではなくなっていた。
植物を象った庇の装飾が美しい渡り廊下では、淡い青色の衣を着た女官たちがずらりと横に並んでラーストチカにお辞儀をしていたが、ルェイビンが先を急ぐので彼女たちと言葉を交わす暇はなかった。
やがてルェイビンは花鳥の飾り彫りが施された扉の前で立ち止まり、冷たく一瞥してラーストチカを招き入れた。
そこは火炉が焚かれた明るく暖かな客室で、部屋の中央に置かれた卓上にはお茶や豆菓子が用意してあった。
しかしルェイビンは客人を席に案内することなく行く手を阻み、壁に手をつきラーストチカを壁際に追い詰めて迫った。
「お前が死ぬその日まで俺は、お前の面倒を見てお前の望むものを用意するんだが……」
ルェイビンは自分がこれから果たすべき役割について語りながら、ラーストチカに顔を近づけてじろじろと見つめた。口づけするのかと思うほどに距離は近かった。
(一体、何を?)
ラーストチカはルェイビンの行動を怪訝に思って、ルェイビンの男らしく骨ばった顔を見上げた。何か酷いことをされるかもしれないという怖さは立場から考えてなかったが、自分よりもずっと背の高い男に退路を塞がれればやはり圧迫感はあった。
ただ何かを言うために、ルェイビンはラーストチカの動きだけを封じていた。
そのふれそうでふれることのない微妙な近さにラーストチカが居心地の悪さを感じていると、ルェイビンは目を真っ直ぐにそらさないままつぶやいた。
「お前は、本物のイストーリヤ公女じゃないだろ。身代わりだな」
ルェイビンの声は、低く鋭くラーストチカの耳に響いた。
(どうして。ばれるようなこと、私はしてないはずだよね)
突然自分の正体の話になって、ラーストチカは狼狽えた。
なぜかルェイビンは、ラーストチカが偽物であることを気づいていた。
正直なところ、ラーストチカは本当に自分が姫君になっているつもりだったので、見抜かれる可能性もあることはまったく考えていなかった。
しかしその動揺を見せては負けだと思ったので、ラーストチカは堂々と嘘を貫いた。
「いいえ。私はスヴェート公国の第四公女のイストーリヤです」
ラーストチカはなるべく凛と高貴に聞こえる口調で、自分の偽りの名を名乗った。
だがルェイビンはもうすでに自分の洞察に確信を得ているらしく、ラーストチカの反応を無視した。
「この饗花宮にはお前のような偽物がよく来るから、どういう人間かは一目見れば見ればわかる。搬贄官のあいつは、いつも気づかないふりをするが」
捕らえた動物を観察するように、ルェイビンは酷薄そうな黒い瞳でラーストチカの顔を眺めている。
ルェイビンの言い分を聞いたラーストチカは、自分に落ち度はなさそうなことにはほっとした。
しかし誰かの身代わりになることをよくある話扱いされたのは、無性に気に入らなかった。
だからラーストチカは宝石付きの白い手袋をはめた手でルェイビンの壁に伸ばした腕の手首を握り、精一杯の力を込めた。
「私は偽物じゃありません。本物です」
鋭く冷静に、ラーストチカはもう一度嘘を重ねる。
元は貧しい農奴に生まれたラーストチカは鍛えた大男よりは非力であったが、何も反撃ができないほどかよわいというわけでもなかった。
その握力の強さは想定外だったのか、ルェイビンは一瞬痛そうな顔をして、壁から手を離してラーストチカを解放した。
「まあ、お前がそう言い張るなら、そういうことにしておこう。お前が偽物であれ本物であれ、俺はお前を殺すんだからな」
茶番には付き合いたくはないといった様子で、ルェイビンは言い捨てた。
語る言葉は冷淡だったが、ルェイビンがラーストチカを殺せばラーストチカは本物になれるという意味にもとれた。
「ご理解いただけたみたいで、嬉しいです」
ラーストチカは勝ち切った気持ちで、少々乱れてしまった髪を耳にかけてルェイビンに微笑んだ。
今度は何も言うことなく、ルェイビンはラーストチカのために円卓の前に置かれた椅子をひいた。
ルェイビンはラーストチカを馬鹿にしているようにも見えたし、憐れんでいるようにも見えた。
(ちゃんと私をお姫様にしてくれるなら、別に何を考えてくれていてもいいんだけどね)
自分を殺す人間を前にしながら、ラーストチカは席について用意されていた豆菓子とお茶をもらった。
少なくとも今のところは、ルェイビンの心の内は重要ではなかった。
ラーストチカはおとぎ話のように死ぬことを願い、ルェイビンは自らの務めを果たすことを目指す。その各々の望みが交わる一点さえ無事に成れば、お互いのことは関わりのないはずだった。
作法を守りながらも遠慮をすることなく豆菓子を食べてお茶を飲むラーストチカを、向かいに座ったルェイビンは黙って見ていたが、しばらくすると渋々口を開いた。
「さっきも言ったが、料理でも何でもお前が望むものを用意するのも俺の仕事だ」
犠妃であるラーストチカは庖厨官であるルェイビンに管理される食材でもあったが、世界の支配者である大帝の妃になる者として家臣であるルェイビンに命令を下す存在でもあった。
そしてやる気が無さそうな口ぶりで、ルェイビンはラーストチカに尋ねた。
「何か欲しいものや、やりたいことはあるか?」
「それならまずは、私は都の中心にあったような大きな建物の中に入ってみたいです」
ラーストチカは馬車から見た雄大な帝都の街並みを思い出しながら、間を置かずにすぐに答えた。たとえルェイビンにはどうでもよいことだとしても、ラーストチカには死ぬ前に姫君としてやってみたいことがたくさんあった。
「そうか。じゃあ明日、お前をこの皇城で一番高い楼閣へ案内しよう」
ルェイビンは腕を組み、にこりともせずに頷く。
実際には偽物なのだとしても、ラーストチカが犠妃としてこの饗花宮にいる限りは、ルェイビンは殺すその日まで主の言葉には逆らえないのだった。
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