4‐5.最初で最後の口づけ

「迎えが来たら呼ぶから、ここで待っとってくれるか」


 部屋のドアから出ていこうとしながら、村長がラーストチカに声をかける。


 ラーストチカは村長の家で、大公が手配した馬車を待っていた。これも一応は秘密裏に行われているため見送りはなく、家族とは自宅での別れが最後だ。


「わかりました。待ってます」


 高ぶる気持ちを押さえて、ラーストチカは頷いた。


 村長の家もラーストチカの家と同じように丸太小屋だが、もっと大きく造りがしっかりしていて部屋の数も多い。


「そいじゃ、後でな」


 間抜けそうな呼びかけを残して、村長は他の部屋へ行った。


 一人残されたラーストチカは、身だしなみを整えて待った。


(お姫様になれたら、これよりもさらにもっと綺麗な服が着れるんだ)


 ラーストチカは未来への期待に胸を膨らませながら、自分が今着ている服を改めて見た。

 楕円のブローチで胸元を飾った上着と鮮やかな青の手織りのスカートは、村長があまりみすぼらしい格好でも良くないと用意してくれた卸したてものである。


 そうしてラーストチカが三つ編みにした髪を手で撫でたりしていると、ぎいっと何かが開く音がした。それはドアの音ではなかった。


 後ろを振り向けば木製の雨戸が下りていた窓が外から開けられて、白い粉のような雪が振り込んでいた。


「ラーストチカ」


 見慣れた赤毛の人影が、ラーストチカの名前を呼ぶ。

 窓の外にいたのは、妙に落ち着いた表情をしたスーシャだった。


 もう会うはずがなかった幼なじみがやって来ても、ラーストチカにそうたいした想いはわき上がらない。


「何か、言い忘れたことでもあったの」


 窓辺に近寄って覗きこみ、ラーストチカは尋ねた。


 スーシャとは昨晩、夕食を家族同士で食べたときに別れを済ませたはずである。

 地味でしょうがないスーシャの顔を今更見るのは、現実に引き戻された気分になるから嫌だった。


 スーシャは無言のまま手を伸ばして、窓辺に立つラーストチカの頬に触れた。


 その指の冷たさに、ラーストチカはおもわず目を閉じた。


 そしてスーシャはそのままそっとラーストチカを引き寄せて、くちびるとくちびるを触れ合わせた。

 それはかすかな、雪解けのようなはかない口づけだった。


(またスーシャは勝手なことをする)


 ラーストチカは心の中で毒づいたが、スーシャとの口づけを心の底から拒んでいるというわけでもなかった。


 目を閉じてしまえば、相手のスーシャが平凡な農奴の少年であることも一瞬だけは忘れることもできる。


 外の空気もスーシャの身体も冷えていたが、そのささやかな口づけにはほのかな温もりがある気がした。

 お互いの存在をふれ合わせた二人の間には、長いのか短いのかよくわからない不思議な時間が流れる。


 やがてスーシャがくちびるを離すと、ラーストチカもゆっくりと目を開けた。

 淡く甘い感覚が、ラーストチカのくちびるには残されていた。


 とりあえず目的は果たしたらしく、スーシャは深いため息をついていた。そしてラーストチカの頬に手を置いたまま、優しげな顔で諭す。


「ラーストチカ。お前は、姫君なんかじゃない」


 死地へ旅立つ幼なじみを見送る、スーシャの声は穏やかだった。

 しかしラーストチカにとっては、姫君のふりはできても所詮はまがいものでしかないのだという、スーシャが話す真実は聞きたいものではなかった。


(違う。あたしは……)


 その思い遣りに虚を突かれて、ラーストチカは目を見開いた。


 しかしスーシャは冷静なふりをした表情で、ラーストチカを見つめ続ける。


「お前がどこの誰に似ていたとしても、これからどんなに立派なお城へ行ったとしても、お前は農奴のラーストチカだ」


 まるで暗示をかけるように、スーシャはラーストチカにささやいた。

 それはスーシャの告白であり、忠告であり、呪いでもあった。スーシャはラーストチカの得た幸運を、根本から否定していた。


 鈍く暗い褐色のスーシャの瞳には、まだ誰のものでもないラーストチカの姿が映っている。


(嫌だ。どうしてここから離れさせてくれないの)


 ラーストチカは、今までで一番にスーシャの言動に苛立った。身体の奥から黒く重い感情がわき上がり、腹が立って怒りを隠せなくなる。


 他人が大切にしている願いを善意と良識で壊そうとするスーシャを、ラーストチカは許すことはできなかった。

 だからラーストチカはふいの衝動に従い、自分にふれたままのスーシャの手を振り払って、さらに反撃を試みた。


(あたしは、あたしじゃなくなってみせるから)


 鋭い音を立てて、ラーストチカの片手がスーシャの顔を強かに打つ。

 避けることなく、反撃することもなく、スーシャはただ平手を受けてラーストチカの方を見た。


 ラーストチカは窓を挟んでスーシャと対峙し、ひどく罵る言葉を飲み込んで前を向いた。


「確かにあなたとのキスじゃ、あたしがお姫様になれる魔法はかからない」


 口づけをしたくちびるを手で拭い、ラーストチカははっきりと言い返した。


 あえて笑みを浮かべるラーストチカに、スーシャは心配そうな顔をして何か言いたげに口を開く。


 しかしそのとき、再び部屋のドアが開く音がした。

 やって来たのは村長だ。


「大公様の馬車がいらっしゃったが、準備はできてるか」

「はい。大丈夫です」


 ラーストチカは即座に返事をしてから、窓の方を振り返った。


 だがもうそこには、スーシャの姿はなかった。

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