3‐13.祈りと食事

 饗花宮は大きな池のある庭園に面した居館であり、窓からの眺望は日夜を問わず見応えがある。

 ルェイビンがシャーディヤのための夕食を用意したのも、その庭園をよく見渡せる、垂花の飾りが彫られた軒の下の縁側だった。


「これが最後の夕食だから、今夜はお前の国の料理を作ってある」


 堂々と味に自信がある口ぶりで妙な配慮を語り、ルェイビンは紫壇の円卓が置かれた縁側へとシャーディヤを招く。


 実際、ルェイビンは重要な食の役職についているだけあって、これまで作ってくれた帝国の料理も非常に美味なのものばかりだった。


「あなたが作ったものならきっと、美味しいのでしょうね」


 シャーディヤは料理に関しては素直に期待しつつ、床に敷かれた絨毯キリムに片ひざを立てて坐った。

 食卓は椅子に座って食べる大嘉帝国の形式とは違う、シャーディヤが慣れ親しんだ坐食の形にしつらえられていた。


 夕日に輝く池の水面は欄干の向こうで静かに揺れていて、黄金色に色づいた柳の枝垂れた葉を鏡のように映している。

 その秋の終わりの情景を背景に、吊り灯籠の淡い光に照らされた円卓に載っているのは、野菜に魚介、肉類に果物など、数えきれないほどの食材をふんだんに使った大皿の大ご馳走の数々だ。


「食器もお前の土地の趣味のものを使ってある。料理の量が足りなければまた持ってくるから、食べたいものを食べろ」


 そう言ってルェイビンは、碧玉でできた杯に白く濁った蒸留酒を水で割って注ぎ、シャーディヤに渡した。


 絶対に足りないわけがない量の料理が載せられているのは、ルェイビンが説明した通り、ザバルガドの王宮でも使っていたような象眼が施された青磁だった。

 滅ぼした国の料理を配膳方法も含めて再現するのは、少し悪趣味でもあるなとシャーディヤは思った。


「いろいろとご配慮、ありがとうござます」


 料理人であるルェイビンの妙なこだわりに感心しつつ、シャーディヤは水差しと綿布で手を清めて合わせる。

 そして目を閉じて、シャーディヤは丁重に神様に祈りを捧げた。


「神の御名において、そして神の恩恵の上に。あなたが私たちに与えた食べ物と飲み物を祝福し、私たちをお救いください」


 異教の地でも変わらず、シャーディヤの祈りは歌のように美しく響く。

 こうして祈りを終えた後に、シャーディヤは食事を始めた。


 レモンの果汁で和えた刻んだ生野菜に、綺麗に焦げ目をつけて焼けた肉団子、花のように綺麗に飾り切りされた果物など、卓上には様々な品が載っている。


 これらの料理を作った料理人のルェイビンは、少し離れたところで胡坐をかいてほおづえをつき、シャーディヤの反応を伺っていた。


 シャーディヤはまず、茄子の和え物やつぶして練ったひよこ豆などが載った前菜の皿から、香りよく色づいたピラフが詰められた貝殻を一つもらった。

 細長く膨らんだムール貝の殻に、魚介の出汁で炊かれた挽き割り小麦のピラフをぎっしりと詰め、その上にふっくらと茹でた貝の身を載せた料理だ。


 匙のように貝殻を口に含んで、中身を食べる。


 するとシャーディヤの頬の中いっぱいに、ほんのりと味のついた挽き割り小麦のぷちぷちした食感と、肉厚の貝の身の旨味が広がった。


「……この貝の前菜は多分、私の国の料理人が作ったものよりも上手ですよ」

「そうか。他の料理も多分、美味いぞ」


 この海の幸による完璧な調和をじっくりと味わい、シャーディヤはルェイビンに感想を伝える。

 すると自分の料理が美味しいのは当然だとでも言いたげな様子で、ルェイビンは他の品も勧めた。


「では次は、このスープをいただきましょうか」


 シャーディヤは二個目と三個目の貝を平らげると、さらに今度は青磁に映える白いスープを象牙の匙ですくって飲んだ。

 それはさっぱりとした酸味のある発酵乳に刻んだ香草や玉葱を入れた爽やかな味のもので、口にするとより食欲がわく。


 その刺激された気持ちに素直に従って、シャーディヤはぎっしりと皿に盛られた前菜を一品ずつ順番に食べた。


 刻んで果汁で和えた胡瓜や葱などの生野菜は新鮮で色も味も濃く、練ったひよこ豆はなめらかで隠し味の胡麻のコクが効いている。


 パイ生地で塩気のある山羊のチーズを巻いた細長い揚げ物も出来たてで、さくさくと歯触りがよく水割りの蒸留酒との相性が良い。

 焼いた茄子と甘唐辛子をオリーブオイルで漬けた惣菜は、野菜の甘みが引き出されており優しい味は口休めに適していた。


 また卓上には、前菜やスープの他に、肉料理や魚料理も載っていた。


 食べやすい大きさに捏ねられた肉団子は食べごたえのある密度の挽き肉からあふれる風味豊かな肉汁が旨く、よく噛んで食べればふんだんに使われた香辛料の辛みがほどよく後に残る。


 とうもろこしの粉で揚げたイワシは、そのまま食べてもピタパンと合わせても、こんがりと火の通った身のほろ苦さが美味しかった。


「本当に、たくさんの料理を作ってくれたんですね」

「それが俺の、仕事だからな」


 シャーディヤが感心すると、ちゃんと話は聞いているらしいルェイビンが相づちをうつ。


 少しずつでも食べきれないほどの品数の多さに、半ば全てを味わうことを諦めつつも、シャーディヤは食事を続けた。


 およそ繊細さを感じさせない男であるルェイビンが、このような手の込んだ料理の数々を作ってきているという事実は、何回食事をしてもなかなか信じることができない。


 ルェイビンが作る料理は、王に愛された奴隷として王と食事をともにし続けてきたシャーディヤから見ても、どれも素晴らしい出来のものばかりだった。


 だがどれだけ料理の出来が良いものだとしても、美味しさを分かち合う大切な相手がいなければ、感じる味も違う。


 今のシャーディヤには愛する主であったイスハークはおらず、側にいるのは無愛想なルェイビンだけである。


 一緒に将棋を指しても、可愛いと言われても、丁寧な食事を作ってもらっても、シャーディヤはルェイビンに一度も好意を持ったことはなかった。

 どんなに親切にしてもらったところで結局は、ルェイビンは料理人であり、シャーディヤは宴のための食材として異国にいる。


 食材が料理人のことを好ましく思う必要はない。

 だからシャーディヤにはまったく、ルェイビンを好きになる理由はなかった。


 シャーディヤは奴隷なので、誰かを好きになるように命じられればその通りに好きになる。

 だが主か誰かの命令がなければ、わざわざ人を好きになろうとは思わなかった。


「これは羊ですよね」


 白いんげん豆と肉の煮物をバターで風味づけした米飯にかけて、シャーディヤはルェイビンに尋ねる。


「ああ。昨日屠った、仔羊の肉だ」


 空になったシャーディヤの杯にまた酒を注ぎながら、ルェイビンは答えた。


 真っ黒な土鍋で煮込んだぶつ切りの仔羊の肉と白いんげん豆はぐつぐつと音がするほどに熱々で、添えられた香草が赤茶をささやかな緑で彩っていた。

 その鍋の前で深く息を吸い込めば、ターメリックの匂いがする湯気が鼻をくすぐる。


 シャーディヤは成長を終える前に屠られた見知らぬ仔羊に、もうすぐ死ぬらしい自分の姿を重ねながら、まずは肉だけを食べてみた。


 仔羊の肉は柔らかくて臭みがない緻密な肉質で、軽く噛んだだけでも肉の旨味と美味しさがしっかりと感じられた。

 大きく育てばより多くの人の腹を満たせるところを途中で屠ったのだから、それは贅沢な味だった。


 二口目に、香りのよい米飯と一緒に口に運ぶ。白いんげん豆はどれも上質な大粒で食べごたえがあり、羊肉の出し汁の染みた米はしっとりとして、深いこくがあって美味しかった。

 また米飯に混ぜられた松の実も、食感が楽しめる食材だ。


「この豆と肉も、とても美味しいです」

「なら、よかった」


 シャーディヤが料理を称賛すると、ルェイビンは頷いた。

 胡坐をかいたままでも、ルェイビンはシャーディヤよりもずっと大柄で威圧感がある。


 シャーディヤは別に、ルェイビンのことが特別に好きではなかった。

 だが人生の最後に食べる夕食がとても美味しいものであることについては、シャーディヤはとてもルェイビンに感謝していた。


 そしてまた、死ぬ前にルェイビンの料理を食べる機会を用意してくれた神様にも感謝していた。


 国が滅ぼされ、イスハークが死に、シャーディヤにはほとんど失うものは残されていない。


 そのためシャーディヤは特に未練もなく、死を受け入れることができた。

 残るものを全てを本当に死んで手を離してしまえば、いよいよ本当にシャーディヤは喪失に怯えることはなくなる。


 殺戮と破壊と略奪と。


 ひどい現実を見てきたシャーディヤにとっては、明日殺されるくらいのことは些細なことだ。


 だからシャーディヤは、たくさんの不幸を見せてくれた神様に感謝した。


 帝国を支配する神であるらしい大帝シカンダルは、別の神様を信じるシャーディヤにとっては化け物に等しい。

 しかしそれでもシャーディヤは、異教の神に喰われる未来を受け入れた。国が滅んで異国に連れて来られても、奴隷として誰かに服従し続ける、神様が定めてくれたシャーディヤの人生のあり方は変わらなかった。


 そしてシャーディヤは、死ぬ寸前でもまだ自分に可愛さが残されていることを神様に感謝する。

 その幸運によって犠妃という役目に選ばれ、シャーディヤの人生は幸せなまま終わろうとしていた。


 金色の髪に琥珀色の瞳、華奢で小柄な身体に白く端整な顔。この可愛さこそが、神様がシャーディヤに与えてくれた恩寵だった。


 辺りを見渡せば日は沈んで庭園は暗闇に包まれ、池の水面は次第に星の光が見える夜空を映す。

 暗い夜を迎えれば、吊り灯籠の光は明るさを増したように見えた。


 そんな闇と光の中、シャーディヤが仔羊の肉の煮込み料理を引き続き食べていると、ルェイビンが言った。


「食後には紅茶と砂糖菓子ロクムが用意してあるから、食べ終わったら言え」


 ルェイビンは思いやりのないの目をした男だが、食事に関しては細やかな気遣いがある。


「はい。ありがとうございます」


 着実に満腹に近づきつつ、シャーディヤはルェイビンにお礼を言った。


 土鍋でしっかりと温められた仔羊の肉は、少食なシャーディヤには半分も食べられないほどの量がある。


 ルェイビンはシャーディヤをどのような品に料理するのか。

 大帝シカンダルは華奢なシャーディヤを果たして美味しいと思うのか。

 神の花嫁である自分の食材としての価値を、シャーディヤは知らないし興味がない。


 だがシャーディヤは、花嫁の比喩にもなる捕らえられた羊が、祭壇で首を斬られて死ぬ様子は知っていた。


 死んだイスハークと違って、きっとルェイビンは迷うことなく即座にシャーディヤを殺してくれるはずだった。

 だからこそシャーディヤにとっては、ルェイビンに殺されるのは、イスハークに刀を突き付けられたときのように心がときめくものではなかった。


 シャーディヤがルェイビンのことを好きにはならないように、きっとルェイビンもシャーディヤのことを可愛くて愛しいとは思わないのだろう。


 ルェイビンは料理人であり、シャーディヤは食材である。


 だからルェイビンは仔羊と屠るのと同じように、あの大きな手でシャーディヤの肩を押さえて、最後は首を切り落とす。


 多くのもの失ったシャーディヤの手と、庖丁を握るルェイビンの手が重なることはなく、死はためらいもなくもたらされる。


 しかしそれこそが神様が与えてくれた救済であり祝福であるはずなので、シャーディヤは神様に感謝した。


 シャーディヤは神様が定めた生き方に従って死ぬのだから、当然幸せになるはずなのだ。

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