3‐10.絨毯に雌羊を

 ある土地には白い衣裳を着た花嫁を捕らえた羊に見立てて、赤い絨毯で包んで婚家に運ぶ風習があるという。

 そこでは肉や毛皮が役立つ羊と同じように、花嫁も貴重な財産として扱われる。


 シャーディヤもまた、羊であり花嫁だった。


 ザバルガドを出発した帝国軍の一行は、砂漠を越え、山岳を越え、何十日にも及ぶ旅の末に大嘉帝国の帝都カンバリクに辿り着く。


 長い旅の中でシャーディヤは、ただ他の積荷と同じように馬車に揺られていた。

 だから生まれた土地から遠く離れた異教徒の都に到着しても、実感というものはない。


 建築物も人の集まりも何もかもが大きい帝都カンバリクは華麗で活気のある都だったが、西の砂漠に栄えた円城都市ザバルガドの王宮で暮らしていたシャーディヤには、そうたいしたことはないものに見えた。


 やがてシャーディヤが乗っている馬車は、都の中心にそびえ立つ皇城の敷地内に建つ、ある一つの豪奢な居館に到着して止まる。


 旅の間も世話係を務めていた優男の青年は、藍色の衣で着飾ったシャーディヤをその居館の中庭まで案内した。

 檐廊えんろうに囲まれた正方形の中庭には、秋を感じさせる風が吹き、四方に植えられた棗の木には赤い実がなっていた。


「ここは饗花宮きょうかきゅう。犠妃に選ばれた君は、大帝シカンダルに捧げられるまでの最後の時間をこの居館で過ごすんだ」


 青年は庭の中央に敷かれた黒い磚に立ち、二人がいる場所についてシャーディヤに教える。


 その木々も花も整然と剪定されている中庭をシャーディヤが見回すと、華やかに彩色された檐廊の軒下に繋がる扉の一つから一人の男性が姿を現した。


「そして彼が、庖厨官ほうちゅうかんのルェイビン。大帝シカンダルの宴のために君を料理する、神に仕える料理人だよ」


 青年はその男を指し示し、名前をシャーディヤに伝えた。


 どんなに丁重に迎えられても、結局自分は食材として殺されるために異国に迎えられていることを、シャーディヤはよくわかっているつもりだった。

 だからシャーディヤは料理人として現れたその男が、食材である自分の命を奪う人間であることを、説明を聞く前から直感で理解していた。


 こうして石段を降りて、シャーディヤの前に立ったのは、鴉青からすば色の服を着た大男だった。

 きつく結った黒い髪に、冷たい雰囲気の切れ長の瞳。荒野の民らしい屈強そうな顔に浮かべた表情は硬く、長身で大柄な身体は引き締まっている。


 ルェイビンと呼ばれたその男は、遥か頭上からシャーディヤを見下ろして、低い声で自分の名前を名乗った。


「庖厨官のルェイビンだ。お前が今回の犠妃か」

「はい。シャーディヤと申します」


 逆光で影になったルェイビンの顔を、シャーディヤは子供のように見上げた。

 小柄なシャーディヤからすると、大男のルェイビンは自分の倍くらいの背の高さがあるように感じられる。


 一方、生贄の少女を帝都カンバリクまで連れてくるまでだけが役目であるらしい青年は、シャーディヤをルェイビンに引き渡すとあっさりと別れを告げた。


「それじゃ後は、彼が君に優しくしてくれるはずだからね」


 そう言って青年はシャーディヤの肩に軽く手を置くと、およそ優しくは見えないルェイビンに目配せをして立ち去った。


 青年がいなくなると、中庭にいるのはシャーディヤとルェイビンの二人だけになる。

 離れたところには女官たちが数人控えていたが、置物のような彼女たちはあまり数には入らない。


 シャーディヤが押し黙っていると、ルェイビンは梯子もなしに棗の木の高いところに手を伸ばし、実をいくつか摘み取った。そして同時に、シャーディヤが招かれた居館の矛盾を抱えた役割について話し始める。


「この饗花宮は、お前を食材として管理する場所であると同時に、大帝シカンダルの花嫁となるお前が貴人として暮らす場所でもある」


 ルェイビンの話す言葉は、他の大嘉帝国の人間と同じように獣のように荒々しい響きを持ってはいるが、シャーディヤがまったくわからない言語ではなかった。


 大きな手で何粒もの棗の実を握り、ルェイビンはシャーディヤに差し出した。


「お前が大帝シカンダルに召されるのは七日後。俺はお前を殺して宴に捧げるその時まで、料理人としてこの饗花宮で食事を用意し、お前の面倒を見ることになっている」


 果物の実を与えるという行為で立場を示し、ルェイビンは感情が見えない黒い瞳でシャーディヤを見つめた。


 もてなすルェイビンは料理人であり、客人のシャーディヤは食材である。

 ルェイビンははっきりと、自分が犠妃であるシャーディヤを殺す者であると述べていた。


 死んで食される未来のために、シャーディヤはルェイビンに果実を与えられる。最後は殺して烹るために、ルェイビンはシャーディヤに食べさせて生かす。


 このねじれた境遇に逆らう気のないシャーディヤは、ルェイビンの手にしている棗の実をその手で受け取った。

 棗はルェイビンにとっては片手分でも、手の小さいシャーディヤにとっては両手でなければ持てない量だった。


「ありがとうございます。美味しそうな色の棗ですね」


 みずみずしく赤い棗の実を両手に載せ、シャーディヤはお礼を言った。


 だがまだ言うべきことは残っていたようで、ルェイビンは話し続けた。


「お前は大帝シカンダルに捧げられる生贄であると同時に、この饗花宮の一時的な主でもある。だから食事以外でもお前が望むものがあれば、それを用意するのが庖厨官である俺の役目だ」


 そう言ってルェイビンは面倒くさそうに腕を組み、シャーディヤに尋ねた。


「何か、欲しいものはあるか?」


 どうやらルェイビンはたとえ偽装された関係であったとしても、奴隷であるシャーディヤを大帝シカンダルの花嫁となる、尊い主人として扱ってくれるらしかった。


 シャーディヤは人に命令されることはあっても、命令する機会はなかなか経験したことはなかったので、何を答えるべきなのか戸惑った。


「えっとじゃあ、将棋シャトランジの盤と、相手が欲しいです」


 小さな少女が、大きな男に命令する。


 迷ったシャーディヤは、自分が一番楽しいと思ったものを望んだ。楽器に歌など、様々な芸を仕込まれたが、あえて選ぶなら将棋シャトランジが好きな気がしていた。


「わかった。将棋シャトランジだな」


 今までのシャーディヤがそうであったように、ルェイビンは相手の言葉に従って頷いた。


 幸いなことに、大嘉帝国にも将棋シャトランジはあるらしかった。


 シャーディヤが犠妃と呼ばれる異国の生贄に選ばれたのおそらく、姿が可愛かったからである。

 しかしルェイビンがシャーディヤに従ってくれるのは、シャーディヤが可愛らしいからではなく、ただそれが自分の役職であるためであった。


 殺す者と殺される者の、奇妙な主従関係は、十六年間奴隷として生きてきたシャーディヤが初めて知るものだった。

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