3‐7.終わりの二人
ムスアブを含む臣下たちの裏切りによって、ベルカ朝は首都であるザバルガドを守る能力を完全に失った。
だから異教徒の軍が城門を破り、都を蹂躙し始めるのには、それほど時間はかからなかった。
期待を裏切られた住民たちは、破壊されつつある街の中を逃げ惑い、敵の兵士に殺された。
迫りくる異教徒の軍勢を前にして、王宮もまた混乱した。
捨て身で戦おうとする兵士や、自ら命を絶つ官吏、やっと状況を理解して逃げ出そうとする女官などの大勢の人々が、それぞれ勝手に行動して秩序はない。
そうした無秩序の中で、重臣たちに見捨てられた王であるイスハークは、存在を忘れ去られていた。
もはや傀儡としての立場さえも失ったイスハークは、外の音が聞こえない静かな王宮の奥の部屋で、いつもと同じようにシャーディヤと身を寄せ合い寝台に坐っていた。
生命を司る糸杉の文様が織られた撚糸の壁掛けで壁を覆った寝室は、窓から陽が差し込まない頃合いであるため仄暗い。
部屋の隅には精巧な七宝細工の香炉が置かれていて、寝台は甘い花の匂いに包まれていた。
シャーディヤは白地に金の刺繍が施された衣装を、イスハークは深緑色の室内着を着て、その装いは日々のものと変わらない。
普段の様子とは違うのは唯一、イスハークがひどく心苦しそうな顔をしていることだった。
絹の寝具の上で互いの手を絡めて、イスハークは救いを求めるように、シャーディヤのくちびるに長い口づけをする。
それは今までの口づけと同じように優しかったけれども、イスハークの苦悩や自責が伝わるかのように、切ない味がした。
時間をかけた口づけに、だんだん息が苦しくなってきたところでやっと、イスハークが我に返ってくちびるを離す。
「すまない。つい」
「私は平気ですよ、陛下。むしろ深く想ってもらえたみたいで、幸せです」
シャーディヤは、イスハークの胸元に頬を寄せた。
大人になったイスハークの身体は厚みがあり、その心臓の鼓動や息遣いを感じていると心が落ち着いた。
きっとイスハークも同じように、二人でいることで少しは安心してくれると嬉しいと、シャーディヤは思う。
イスハークはシャーディヤの絹糸のように柔らかな淡い金髪を撫でて、罪悪感を滲ませた声でつぶやいた。
「外では大勢の民が殺されていて、じきにこの部屋にも帝国の兵士が来るだろう。俺は異教徒の軍隊が怖いし、自分が死ぬのも、この目で人が死ぬのを見るのも怖い」
何もかもを諦めるしかない状況に立たされたイスハークは、強がって自虐的に振る舞うのをやめて、隠そうとしてきた弱さを震える本音で吐露する。
「お前には、怖いものはないのか?」
イスハークはどんな宝石よりも大事そうに、終焉を目前にしても変わらず微笑み続けるシャーディヤを抱きしめた。
その腕の温もりと優しさに何かで答えたくて、シャーディヤはそっと両目を閉じた。
「そうですね。私は、いつか年老いてあなたの寵愛を失う未来について考えるときは、怖いと思ってました」
シャーディヤは自分で何かを選んだことはなく、ただ与えられた道を生きた結果、イスハークの妃になった。
しかし全てが他者によって決められていたからこそ、シャーディヤは幸福だった人生をありがたく思っていたし、他の誰かでも良かったはずの自分を愛してくれたイスハークのことが、本当に好きだった。
ゆっくりと二人出会ってからのことを思い出し、シャーディヤは白い指でイスハークの背中をなぞる。
そして顔を上げて、澄んで大きな琥珀色の瞳で、イスハークの泣き出しそうに潤んだ黒い瞳を見つめた。
「でも私は幸せな奴隷なので、あなたに捨てられる時は来なさそうです」
嘘偽りのない気持ちで、シャーディヤは感謝の言葉を紡ぐ。
するとイスハークはとうとう堪えきれなくなったのか、脆く傷付いた少年の顔をして、声を押し殺して涙を流した。
シャーディヤは、その頬を流れ落ちる涙を拭いたかったけれども、自分の腕はイスハークの背中に回して塞がっていた。
何も言わずにイスハークは、シャーディヤの細い身体をさらにきつく抱き寄せた。
自分を抱きしめる腕の必死さから伝わる切ない愛情で胸が一杯になって、シャーディヤはイスハークの涙とは持つ意味の違う涙を流しそうになる。
こうしてしばらく二人でお互いの想いを確かめ合った後に、イスハークはシャーディヤを抱きしめる腕を緩めて、身体を離した。
そして今度は、シャーディヤを寝台の上に押し倒し、懐から短刀を抜いて突きつけた。
「俺は民を守る力のない王だったから、せめてお前だけは、この手で守るべきだな」
イスハークは迷いながらも、シャーディヤを殺すことで敵の軍勢の暴力から守り、主としての責任を果たそうとしてくれていた。
黒い巻き毛の前髪の奥の、覚悟と葛藤に揺れる瞳は、シャーディヤに情の深いまなざしを注ぐ。
そのまなざしに感謝と喜びで答えて、シャーディヤは祈るように手を合わせた。
「最後まで私を愛してくださり、ありがとうございます。陛下」
綺麗に澄んだシャーディヤの声は、歌の終わりの一節ように美しく響く。
シャーディヤは滅びゆく国の妃として、死と破壊を目前にしていた。
だが世界で最も自分を大切にしてくれた、一番好きな人に最後に殺してもらえるのだから、自分は絶対に幸せなはずなのだと信じた。
同時に、これもまた生まれつきの可愛らしい容姿のおかげの幸運だと思ったシャーディヤは、恵まれた姿を与えてくれた神様に深く感謝した。
寝台の上に無防備に捧げられた、シャーディヤの白い衣裳を着た小柄な身体を、イスハークは不慣れな荒っぽい優しさで抑え込む。
そして焦燥感にかられた自分自身に言い聞かせるように、イスハークは低くささやいた。
「お前を苦しませないのが、俺の最後の役目だ」
イスハークは、シャーディヤの両手なら簡単に指が回るほど細い首に手をかけ、その下の薄い胸の真上に鋭い銀製の短刀の切っ先を置いた。
最愛の人に自分の心臓を深く貫いてもらえるその瞬間を待ち、シャーディヤは反射的に身体を強張らせて目をつむる。
慈しんでいるからこそ命を奪おうとする思い遣りを、シャーディヤは知っている。
だから首にふれる硬い温もりのあるイスハークの手と、衣越しに感じる刃の冷たさが愛しかった。
「陛下……」
半ば息をするのを忘れて、シャーディヤはイスハークの
溶け合うほどに近くに重なる互いの熱に、シャーディヤの鼓動は期待に高鳴る。
甘美な終焉を閉じ込めて、二人は永遠ではない時間を分け合った。
しかし本当の最期を覚悟しても、イスハークはなかなかシャーディヤに決定的な死を与えてはくれなかった。
やがて刃の冷たさは、シャーディヤの血を流さないままに離れていく。
ゆっくりとシャーディヤが目を開くと、イスハークはまた音もなく涙を流して、短剣を傍らに落としていた。
「シャーディヤ、俺は……」
かすれた声で、イスハークはシャーディヤの名前を呼んだ。
イスハークはシャーディヤが愛しく可愛いと思っていたので、敵から守るために殺そうとしていた。
だがシャーディヤがとても可愛いからこそ、イスハークはその命を奪い、責任を果たすことはできなかったらしい。
自分のために泣いてくれているイスハークの辛そうな表情に、シャーディヤの胸は締め付けられた。
その苦悩を和らげたかったけれども、自分にできることはやはり、微笑むことだけだった。
「私はどんなあなただって、愛してますよ」
人を殺すには優しすぎたイスハークの静かな涙を見て、シャーディヤは短剣を手にしていたはずのその汗ばんだ手をそっと握る。
そして華やかな唐草の幾何学模様が一面に描かれた暗い天井を見上げた後に、再び目を閉じた。
二人だけの夢から醒めて現実が戻るように、大嘉帝国の軍隊が扉を蹴破って部屋に侵入してきたのは、それからすぐのことだった。
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