3‐6.滅びゆく国

 ――我がベルカ朝の領土を攻撃すれば、神の怒りにふれるだろう。


 宰相たちによる抗戦の決定に従ったイスハークはそう文書にしたためて、降伏を勧めに来た大嘉帝国の使者の首とともに送った。


 しかし帝国の兵はベルカ朝の兵よりもずっと戦に慣れていて、攻城兵器や火薬の扱いに長けた工兵も多数おり、士気も十分に高かった。

 そのためベルカ朝はじわじわと敗戦を重ねて領土を奪われていき、気づけば首都であるザバルガドは異教徒の軍に包囲されつつあった。


 戦局が悪くなるにつれて投降者も増えて、兵力はみるみるうちに減った。


 だがそれでも人々は、ザバルガドの都には王の精兵と三重の城壁があるから、異教徒の軍に負けてしまうことはないはずだと考えていた。


 こうしていよいよ籠城戦が始まろうとしていたある日、イスハークはシャーディヤがいる寵姫のための居室に来るなり、抑揚のない声で言った。


「宰相たちが逃げた。主犯はムスアブだ」


 イスハークは、この世の終わりのような顔をしていた。


「逃げたとは、一体」


 弦楽器ウードの曲を覚えていたシャーディヤは、楽器を手に床に敷いた絨毯キリムに坐ったまま、状況がわからずイスハークの言葉を繰り返した。


 あまりにも突然の話であった。


 イスハークは部屋に置かれた長椅子に、倒れ込むように腰掛けた。


「ムスアブたちは、自軍の兵の引き連れて、帝国の包囲の隙をついてこの地を去ったんだ」


 イスハークは手短に、ムスアブとその追随者のしたことについて語った。


 どうやらムスアブはイスハークに異国との戦争を始めさせておいて、自分たちはさっさと安全なところに逃げてしまったらしかった。

 それはまるで、王であるイスハークを囮にして時間稼ぎをしていたかのような、裏切りだった。


 最近は直接会うことは減っていたものの、ムスアブはシャーディヤの元々の主である。

 だから彼が無駄を嫌い効率を重視していることはよく知っていたのだが、それでも今回の出来事はもはや笑い話のような裏切りだと思う。


 しかしイスハークの方は、裏切り者ではなく自分を責めているようで、苦しげな表情で目を伏せていた。


「どうやら俺は、お飾りとしての王の役目でさえも、十分に果たせなかったらしい」


 そのまま消え入ってしまいそうなほどに悲痛な面持ちで、イスハークは両手を握りしめていた。


 イスハークは国政を投げ出していたわけではなく、無力なりに責任を負おうとする努力はしていた。

 そうして迷いつつも臣下を信じた結果、イスハークは裏切られたのである。


 情のない人々の裏切りに対しても誠実に、自らに原因があるのだと受け止めるイスハークが、シャーディヤにはとても不幸な人に見えた。

 そして同時に、やはり自分が愛さなくてはならない人だとも思った。


「残った宰相や司令官もいるにはいるが、投降する者も多く、兵力は乏しい。となると、この戦は……」


 イスハークは暗い声で、自国が迎える未来を言いよどんだ。


 すでに何度か大嘉帝国から来た降伏要求を断っているので、和睦交渉を今更行うのは非常に難しいと思われた。

 イスハークは完全に、梯子を外されていた。


 降伏もできず、勝つこともほぼ不可能であるのなら、結末は徹底的な敗北以外にない。


 ベルカ朝が戦争に負けた場合、その国の妃である自分に何が待っているのか、シャーディヤには想像できなかった。

 一番にシャーディヤが考えたのは、自分は王の妃として、まずは自責の念にかられているイスハークを肯定しなければならないということだった。


 だからシャーディヤは戦のことはわからないまま、イスハークの足元にひざまずき、その長衣カフタンの裾に口づけをした。


「この先、この国がどうなったとしても、私はあなたのことを愛しています」


 そう遠くはない死を前にしても、シャーディヤは何も疑うことなく、未来を誓った。


 そしてそのままシャーディヤはつつましく、イスハークの長衣カフタンの裾を手にしたまま考えを述べた。


「今、死んで滅び去るときが来るのなら、それは神様がお決めになったことです。だから私は思い悩むことなく、その終焉を受け入れたいと思います」


 神様は絶対に間違わないし、何事にも神様が与えた意味があると、シャーディヤは信じていた。


 それゆえ誰も責められてほしくない気持ちで、シャーディヤは立っているイスハークを見上げて微笑む。


 イスハークは一瞬虚を突かれたような表情をして、シャーディヤをじっと眺めていたが、やがて目をそらして黙り込んだ。

 どんなに権力を奪われてはいてもイスハークはやはり王であり、亡国を受け入れることはたやすいことではないようだった。


 しかしシャーディヤは従うことだけを教えられてきた奴隷であるので、滅亡にも簡単に服従した。

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