3‐5.卵と棗椰子の朝食
こうして大人たちに期待された通りに、シャーディヤはイスハークの唯一の寵姫になった。
「お前は実に段取りよく、わしの期待通りに王に愛されてくれたな」
王宮の廊下ですれ違うと、ムスアブは満足そうにシャーディヤを眺めて頷いた。
イスハークは政治から遠ざけられた王であり、シャーディヤはそのお飾りの王を慰める妃だった。
詩歌に楽器、双六に
シャーディヤは女奴隷として学んだありとあらゆる娯楽と、持って生まれた可愛らしさで、主人であるイスハークの無為な日々に楽しみを与えた。
二人は数えきれないほどの昼と夜を過ごし、やがてシャーディヤは十六歳に、イスハークは十九歳になった。
◆
少しだけ鼻先に冷たさを感じる、掛布団の温もりが心地の良い春の日の朝。
柔らかで上質な枕と寝具に身体を預け、甘くて重い眠気の中で、シャーディヤは目覚めた。
布団にはシャーディヤのものではない温もりも残されているが、もう一人の姿は隣にはない。
その代わりに部屋に漂う香ばしい匂いに空腹を刺激されて起き上がると、寝台の横の窓際に置かれた長椅子では、イスハークが朝食を食べていた。
「今日の朝食には、お前の好きな卵があるぞ」
イスハークはちぎったピタパンに炒り卵を載せて食べながら、シャーディヤの方を笑って見ていた。
「だったら食べ始める前に、起こしてくれればいいじゃないですか」
「お前の寝顔を見ながら朝食を食べるのが、俺は好きなんだ」
シャーディヤが着衣を整えつつ寝ぼけた声で抗議すると、イスハークはまたピタパンをちぎって食べた。
「私はあなたと二人で朝食を食べるのが好きなのですから、寝たまま放っておかれるのは嫌です」
水盆で手や顔を洗い、シャーディヤは長椅子の向かいに置かれた座椅子に坐った。
正面にいるイスハークは、成人として顔も身体も男らしくなり、外見だけは王にふさわしくなりつつあった。
一方でシャーディヤは十六歳になり、華奢で繊細な容姿は十分に大人っぽく美しく成長したが、表情にはまだあどけなさが残り、生来の可愛らしさはそのままである。
だから鍍金の飾りがはめ込まれた窓の前に坐る二人は、五年前よりも年齢の差が開いて見えても、ままごとのような雰囲気は変わらなかった。
黒金の天板に載った宝飾皿には、ピタパンと玉葱入りの炒り卵の他に、胡瓜や棗椰子、オリーブやバターなどが載っていた。
席につき食前の祈りを済ませたシャーディヤは、自分の皿に炒り卵を載せ、ピタパンでそれをすくった。
すぐにお腹がいっぱいになってしまうので、一口分は少なめにして頬張る。
ふんわりと焼かれた卵は胡椒を強く効かせて辛みがあり、玉葱を含めた素材の風味をひき立てていた。
「今日も卵は、美味しいか?」
「はい。あなたと食べる食事は全て、美味しいです」
微笑むイスハークに、シャーディヤは頷いた。
そして炒り卵とピタパンを食べる合間に、棗椰子の粒を一つつまみ、幸せいっぱいな気持ちで訊く。
「この食事の後は、昨夜の
するとイスハークは薄く切った胡瓜に塩をかけながら、一日の予定について答えた。
「いや。今日は異国の異教徒との戦についての御前会議があるから、この後は宰相たちの所へ行かなければならない」
そう首を振ったイスハークの表情は、少し深刻なものに変わった。
ベルカ朝は現在、
大嘉帝国は世界の半分を支配していると言われているほどの強国であるため、戦のための準備や話し合いにも時間がかかっているようだった。
「会議では宰相たちが全てを決めるから、俺がいなくても別に問題はないのだが」
そう言って、イスハークは自信が無さそうに肩を落とした。
年若くして即位したイスハークは、自分が国を統治する能力のある王としては扱われてはいないことに自覚的であるため、斜に構えた態度をとることもあった。
だがそれでもイスハークは少しでも王としての責務を果たそうとして、形式的なものであっても国政の会議にはなるべく出席していた。
そうしたイスハークの生真面目さが好きだったので、シャーディヤは手を合わせて微笑んだ。
「それでもちゃんと国政を大事にする、誠実な陛下はご立派だと思います」
ほんの些細なことでも素直に、シャーディヤは好意を伝える。
するとイスハークは照れて恥ずかしそうに黙って、横を向いた。
「俺を王扱いしてくれるお前こそ、立派な妃だ」
その言葉もまた、イスハークのシャーディヤへの本心からの愛情だった。
イスハークはシャーディヤを、純粋で真っ直ぐな、愛しく可愛らしい年下の妃として大事にしてくれていた。
そしてシャーディヤは王の妃としてイスハークの全てを愛すると同時に、イスハークのような善良な人物を主人にしてくれた神様に感謝もしていた。
例え人を痛めつけてなぶるような人物であったとしても、愛すべき存在であるなら愛せる自信がシャーディヤにはある。
しかしそれはそれとしてやはり痛くて辛いことは苦手なので、イスハークが心優しい人物で本当に良かったとシャーディヤは思う。
「しかし最近、戦についての会議が多いですね。その異国の異教徒は、それほど恐ろしい敵なのですか」
「俺にはよくわからないが、彼らはなかなか戦上手であるらしい。だがムスアブは、我が国も十分に戦の準備をすれば対処できるはずだと言っている」
最低限の教養としてしか異国について知らないシャーディヤが尋ねると、イスハークも説明しづらそうに答えた。
即位当初に比べれば政治についての知識も増えてはいても、イスハークは傀儡であり、宰相たちはイスハークに国政の実態を隠していた。
「ムスアブ殿がそう仰っているということは、多分大丈夫なんでしょうか」
かつての主人であるムスアブの能力を、シャーディヤはある程度は信頼していたが、人間性は少々信じられないところがある。
とはいえ、異教徒との戦争に危険があっても、対応を間違えなければ致命的にはならないという認識は、それなりに正しいとシャーディヤも思った。
「ああ。そうだな」
シャーディヤと同じ考えなのか、イスハークも頷く。
食事中の会話が物騒になっても、窓の外の朝空は綺麗に晴れていて眩しかった。
イスハークとシャーディヤは政治的には無力な状況に置かれていたが、傀儡と奴隷という神様が定めた各々の立場を忠実に生きれば、ささやかな幸せは守れると信じていた。
だが戦雲が運ぶ血の匂いは、着実にベルカ朝の都であるザバルガドの中心にいる二人に近づいてきていた。
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