2‐11.聖性を得る

「お待たせいたしました、王女殿下。夜のお食事を、中庭にご用意いたしました」


 日が傾き空が赤くなった夕べ。料理人のルェイビンは、ハルティナを夕食に呼びに部屋の戸口に立った。

 別にルェイビンを待ってはいなかったのだが、ハルティナはとりあえず期待をしているふりをした。


「食堂ではなく、中庭か。わざわざ私のために、趣向を凝らしてくれているようだな」

「はい。今晩はあなたの最後のお食事ですから、あなたの王国の料理をお作りいたしました」


 ルェイビンは冷めた様子で、しかし自信はありげにハルティナを廊下に連れ出す。


 最初に会ったときと同じ鴉青色の服を着たルェイビンの背中は、ハルティナの故郷にいたどの人よりも広くたくましかった。


(最後のお食事、か)


 刻一刻と終わるときは近づいているらしいが、ルェイビンの態度からは感傷的になれるものは何も感じない。


 ハルティナは床につく長さに仕立ててある裳をつまんで持ち、踏まないようにしてルェイビンの後に続いて、中庭へと向かう。


 夏らしく石榴と棗の花が咲く饗花宮の中庭は、黄昏時の薄暗さと涼しさに包まれており、灯籠がやわらかな明かりを灯していた。


 庭の中央には木製の椅子と円卓が置かれ、天板の上には白い皿や香蕉の葉、高台付きのざるに盛りつけられた料理が載っている。


 ルェイビンは面倒くさそうに椅子をひき、主賓であるハルティナを招いた。


「配膳もあなたの国に近づけたつもりなのですが、いかがでしょうか」


 自分の料理の腕に絶対の自負があるらしいルェイビンは、無関心に振る舞う一方で、ハルティナが気に入らないことは絶対にありえないと言いたげな表情をしている。


 本当にそれほどの出来なのだろうかと思いながら、ハルティナはルェイビンが案内した席に座る。

 しかし料理を一目見れば、自然と口をついて出たのは承認の言葉だった。


「異国での再現にしては、悪くはないんじゃないのか」


 ハルティナは、ルェイビンの料理を即座に褒めた。


 こんがりと丸焼きにされた豚に器いっぱいに入ったスープ、綺麗に切ってむかれた野菜に果実。

 燭台と一緒に天板の上に並べられた手の込んだ料理の数々は、確かにハルティナの故郷の食材や調理法を使ったものだった。


 それらは王族として豪華な食事を見慣れているハルティナから見ても、どれも素晴らしい品々に見えた。


 返す言葉以上に感心しているハルティナを前にして、ルェイビンは当然味も満足するはずだという顔で食事を勧める。


「お褒めいただき、ありがとうございます。出来立ての方が美味しい品はこれから持ってきますので、どうぞお好きな品からお召し上がりください」


 そう言って取り皿を渡し、ルェイビンは必要最低限の敬意を示してお辞儀をした。


 ハルティナはその白く大きな皿を受け取り、せっかくの機会なので食事を楽しもうと腹をくくった。


(態度はどうであれ、この男が料理上手なのは確かだからな)


 七日間の滞在を通して、ハルティナはルェイビンの料理を一通り食べている。

 大陸の料理については比較の対象を知らないものの、どれも質は確かであった。そのルェイビンがハルティナの故郷の料理を作ってくれたのだから、どんな味なのか楽しみではある。


「ではこの野菜と、焼き豚からもらおう」


 ハルティナは食前の祈りを済ませ、青菜ともやしを赤い唐辛子のたれで和えた惣菜や蒸した玉菜を、大きな木匙を使って皿に取り分けた。


 焼き豚は腹に香辛料を詰めて直火で頭ごと焼いたもので、好きな部位を言えばルェイビンが庖丁で切ってくれる。


 香ばしい茶色に焼けた皮と肉を皿に載せた隣には、円錐形に固めて用意された米飯を置く。米飯はウコンの粉がまぶされて鮮やかな黄色になっていて、皿の上を明るく彩った。


(なかなか、良い香りだ)


 ハルティナは自分の故郷の作法に従って、右手でほの温かい肉片をつまんで口に運んだ。

 するとしっとりとした肉の繊維がほろほろと舌の上でくずれて、豚の旨みが口の中いっぱいに広がる。


 その味をしっかりと噛みしめて飲み込み、ハルティナは今度は、香辛料が多めについた部分の肉を黄色い米飯と一緒にまとめてもらう。

 ほどよい粘り気のある米飯はまろやかに香辛料の辛みと絡んで、豚肉の味の良さをひき立てた。


(これは本当に上質な味の豚だな)


 期待を超える焼き豚の味に、ハルティナは手を止めることなくぱりぱりに焼かれた皮まで食べる。


 そうしたハルティナの様子を、ルェイビンは淡泊な態度であるなりに、誇らしげに立って眺めていた。


 ハルティナは少々の敗北感を感じたものの、そそられた食欲には勝てずに指についた米粒をなめる。


 一頭分の豚はどの部位も無駄なく調理されていて、豚足はとろみを活かして煮込まれ、内臓はからりと食べやすく油で揚げて添えられていた。

 きっと自分もこうして残すところなく神に食されるのだろうと、ハルティナは思う。


 豚の濃厚な味に飽きたら、米飯に鶏肉のあっさりしたスープをかけて匙で食べればちょうど舌が休まった。

 鶏の出汁がしっかりと感じられるスープは、芹菜や分葱のような爽やかな風味のある野菜が入っていて、しゃきしゃきと歯ざわりも良く美味しかった。


(次は、魚料理だな)


 皿が一旦空になると、ハルティナは今度は香蕉バナナの葉に綺麗に包まれた魚の蒸し焼きをもらった。


 鮮やかな緑色の葉を解くとふんわりと香蕉の匂いが香り、大蒜や玉葱のペーストが塗り込まれた鰹の切り身が姿を現す。

 ハルティナはその魚の身を指でほぐし、ペーストと一緒に口に含んだ。


(内陸部の都のわりに、魚も新鮮だ)


 鰹はやや身が堅いものの脂がのっていて味が濃く、ペーストの薄い塩味とよく合っていた。

 思ったよりも魚が新鮮で臭みが少ないのは、おそらく帝都の水運が発達しているからなのであろう。


 葉に包まれて蒸し焼かれたことで、大蒜や玉葱のみじん切りと共に旨みが凝縮され、魚はより美味しくなっている。

 小骨もすべてあらかじめ丁寧に抜かれているのも、配慮が行き届いていて食べやすかった。


(後でまた、もう一包み食べてもいいな)


 皿に載せた分の魚をあらかた食べ終えたハルティナは、茉莉花の香りのついた発酵茶を飲んで一息つく。


 そこにいつの間にか部屋を出ていたルェイビンが、大きな木の皿を手にして戻ってきた。


「串焼きをお持ちいたしました。つくねは魚と鶏の二種類をご用意してます」


 ルェイビンは空いた皿を片付けて、鶏のもも肉やつくねの串焼きと付け合せの茹でた薯が載っている皿を円卓に置いた。肉やつくねは、熱する音が聞こえてくるほどに美味しそうだった。

 どうやら最初に言っていた出来立ての方が美味しい料理というのは、串焼きのことであるらしかった。確かに串焼きなら直接手で掴まず食べることができるので、熱々でも食べやすいだろう。


「では魚も鶏も、両方もらおう」


 ハルティナは全ての種類を一本ずつ、自分の皿に取り分けた。そしてまずは、鶏のつくねにかぶりつく。


 串焼きは湯気が立つくらいに熱々で、ハルティナは息を吹きかけながら食べ進めた。唐辛子や香辛料がふんだんに使われたつくねの熱さと辛さに、口の中は忙しくなる。


 また串には清涼感のある風味の植物の茎が使われているので、挽き肉には何とも言えない香りがついていた。

 様々な味が調和した刺激的な味がくせになって、ハルティナは一口、二口と食べ続ける。


(辛い物を食べた後には、甘い薯が美味しくなる)


 唐辛子の辛みが厳しくなったところで、ハルティナは付け合せの茹でた薯をほっくりと割って口にしようとする。


 だがそのとき横に立つルェイビンが、なぜか唐突にハルティナを呼んだ。


「王女殿下」


 いきなり話しかけられたハルティナは、いぶかしむ気持ちで顔を上げた。


「何だ」


 ハルティナの返事は、怪訝そうに響く。


 しかしルェイビンは一向に構わずに、言いたいことを言い始めた。


「俺は以前、チャンティク王国には殺された少女の死体から薯が育つ神話があると、書物で読んだことがあります」


 ルェイビンが言っているのは、ハルティナの国に伝わる、殺された少女が女神になる神話のことだった。


 他国の料理を立派に作れるのだから、他国の伝承に詳しいことは不思議ではなかった。

 とはいえ、ルェイビンがハルティナの国の信仰について話す理由はわからない。


「ああ。死体が食物になった少女エレウニアは、農耕の女神として信仰されている」


 手に持った薯を皿に置き、ハルティナは頷く。


 するとルェイビンは、その引き締まったほとんど無表情な顔に、かすかに微笑みを浮かべた。


「だとすると犠妃であるあなたも、その女神に近い存在なのかもしれません。死んだ後に、その身を食材として食される女性という点で」


 ルェイビンが、低くかすれた声でぽつりとつぶやく。

 その自虐めいた態度と思い遣りのない言葉に、ハルティナは思わず驚いて目を見開く。


(この男が、それを言うのか)


 ルェイビンは、ハルティナを殺して、神に捧げる役目を持った料理人である。

 そうでありながらルェイビンは、戯言や冗談として、ハルティナを殺された女神にたとえていた。


 一応は負い目からの言葉なのかもしれないが、勝手に他国の人間を生贄として連れて来て、そして他国の神話と重ねるとは、あまりに無責任でいい加減である。


 しかしハルティナは、ルェイビンのその情のなさがなぜか嫌いではなかった。


「そうか。私は神に食べられることで、神になるのか」


 ルェイビンにつられて、ハルティナも笑った。


 故郷の伝承を使えば実に簡単に自らの死を正当化できることを、ハルティナは逆に異郷の人間に教えられた。


 食物を探していた人間の王によって殺された少女が食物として復活し、女神として祀られる。


 王国の民は少女を深く敬愛しているが、その信仰は女神となった少女への感謝と憐みだけで成り立っているわけではない。

 傲慢な人間によって殺された少女は、人間が自分勝手に振る舞っているのを見ると、呪いによって飢饉を起こすと言われている。

 人々は祟りを恐れて、女神を祀るのだ。


(ディティロと、ディティロと一緒に私を見捨てた人々は、私を恐れてくれるだろうか)


 暗い希望を抱いてハルティナは、善良であろうとしても心の底では許せなかった者たちのことを考える。

 彼らが悪人ではないことを知ってはいても、ハルティナは聖人のようには振る舞えない。


 ハルティナは剣を手に強くあろうとしたが、これまではその力を存分に自分のために使うことはできなかった。

 ハルティナは自分の存在を認められたかったが、他人に目障りだとも思われたくなくて自分を曲げ続けてきたのだ。


 しかし明日死ぬことになっている今晩、遠い異郷のよく知らない男の前でなら、ハルティナは自分の心に正直になれた。


(私は、私を蔑ろにした者たちを許さない。ディティロも、大帝も、この世界も)


 異邦人のハルティナには大帝が本当のところは何であるのかはわからないが、この大嘉帝国の民が神だと言うのなら神なのだろう。


 ハルティナは現実にはもう何も持ってはいない。けれども見知らぬ神に捧げられる前に残す想いは、殺され女神になった少女の存在と同じように、世界を呪い祝福することができる。

 それは見捨てられた存在の現実逃避でしかないのかもしれなかったが、ハルティナにとっては救いだった。


 気付けば陽は沈んで夕暮れ時は終わり、中庭は暗く灯籠と卓上の燭台だけがにぶい光を灯していた。

 ふいに吹く夜風が、ハルティナの耳飾りや簪に挿した花を揺らす。


 食べかけの料理の載った暗闇の円卓を前にして、ハルティナは静かに言った。


「私は本当は、王になりたかったのだ」

「はい」


 ルェイビンはただ、相づちをうって頷く。


 相手がどこまで理解しているのかはわからなかったが、ハルティナは話し続けた。


「私の国では女は決して王にはなれない。だが私が王になれたのならば、私を生んだ母上を悲しませずに済むと思ったから……」


 言葉を続けるハルティナの目に、熱いものがこみ上げて頬を流れる。ハルティナは自分が多分、泣いているのだろうと思った。

 王になりたかったという叶わぬ願いをはっきりと口にするのも、人前で泣くのも、全て初めてのことだった。


 しかし側に立つルェイビンの表情は変わらず、侮蔑や憐みがこもったものではない、不思議と落ち着く眼差しでハルティナを見つめていた。

 だからハルティナは、自分の想いを過剰に恥じることなく、強がりつつも想いを吐露する。


「だが確かに、神に仕えるお前に丁重に殺されてみれば、私は王よりも貴い、天に立つ神になれるのかもしれないな」


 半ば自暴自棄な気持ちで、ハルティナはまた笑った。


 香蕉の葉に包まれ蒸し焼かれた魚と同様に、海から大陸へと運ばれてきたハルティナは明日、目の前の男の手で魚のように捌かれて死ぬ。

 異郷の支配者でありでも神でもあるらしい大帝にその身を捧げ、肉を喰われることで嫁ぎ、犠牲者として娶られるために死ぬ。


 その先に待つ未来でハルティナは、王よりも絶対的な何かになると信じた。


 それから一寸の間をおいて、ルェイビンは幾重にも着飾って椅子に座るハルティナの足下にまた、山犬のように顔を伏せて跪いた。


「そうなるように俺は、尊い食材であるあなたを、きっと良い料理にさせていただきます」


 料理の話をしているときだけは、思い遣りのないルェイビンの声にも多少は張りがある。


「そうか。それは期待している」


 ハルティナは、手が震えるのを堪えて頷いた。


 実際にルェイビンがハルティナのために作った料理は、どれも綺麗で美味だった。

 まだ食後の甘味は食べていないが、おそらくそれも良い出来映えなのだろうと思われた。


(どうせ喰われることになるのなら、まずい料理よりは美味しい料理の方がよい)


 頬についた涙を左手で拭い、ハルティナは卓上のまだ料理が残っている皿を見る。


 それらの品々と同じように、明日はハルティナが、ルェイビンの手によって美しく素晴らしい料理になるはずだった。

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