2‐8.奇妙な嫁入り
帆がいくつもついた巨大な帝国の木造船は潮の流れに乗って海上を進み、ハルティナと積荷の品物を半月もしないうちに大陸の港へ運んだ。
港のある土地は同じ夏の季節でも、ハルティナの国よりも涼しい場所だった。
大嘉帝国の帝都があるのは内陸部であるので、港から先は河船に乗り換えて大規模に整備された運河を移動する。
海でも運河でも旅は嵐に遭うこともなく順調で、ハルティナは外港から五日ほどで帝都の整備された街並みを見ることになった。
(ここが、大嘉帝国の都か)
都の中央にそびえ立つ鼓楼や、翼を広げた鳥のような形に曲線を描く屋根が優雅な宮殿の遠景、煉瓦造りの屋敷がどこまででも続く眺めを船上から見て、ハルティナは帝都の豪壮さに感心した。
最初に着いた港や運河沿いの街の活気からも帝国の繁栄は感じていたが、帝都の規模の大きさにはまた驚かされる。
故郷であるチャンティク王国の王都や聖都も美しさでは負けてはいないとは思うのだが、都の広さや建物の巨大さから読み取れる国力はやはり大嘉帝国の方が勝っていた。
やがてハルティナの載った河船はいくつかの水門を越えて、宮殿の敷地の外れに設けられた人工池に到着した。
(どうやらここが、旅の終点のようだな)
船を降りればそこには、池に囲まれる形で建った大きな居館があった。鮮麗な赤や緑の塗料で彩色された、華やかな外観の居館である。
居館の前には薄青色の衣を着た女官の集団が待っていて、声を奪われているかのように無言でお辞儀をしてハルティナを迎えた。
王国からここまでハルティナを送ってきた青年は、軒に花の飾りのついた門を開けて中へと案内した。
「こちらが大帝に召されるその日まで貴方がご滞在することになる居館、
青年が呼んだ居館の名前は、意味は分からずとも仄暗い響きを持っているように思えた。
「一国の王女の私にわざわざ最高の暮らしを教えてくれるとは、ありがたいことだ」
深紅に染められた更紗の衣に合わせて着た薄絹の上着を羽織り直し、ハルティナは皮肉を交えつつ青年に従った。
青年の言葉に従って門をくぐれば、内側には強い陽差しを遮るように植えられた木々の緑が綺麗な中庭があった。
ちょうど棗にはささやかな黄色の花が、石榴には鮮やかな赤色の花が咲いていて、花の色は情緒豊かに夏の陰影を彩る。
青年はハルティナを連れて中庭を一周する形に設けられた渡り廊下を進み、流水紋の浮き彫りが立派な扉の前で立ち止まった。
「搬贄官は犠妃となった方を帝都にお連れする役職ですから、僕の役目はここまでになります」
そう言って青年が扉を丁重に開いてハルティナを中に通すと、金と銀の装飾が施された柱と唐草文様の絨毯が見事な部屋には、葡萄色の漆塗りが艶やかな円卓と、その卓上に茶の用意をしている一人の男がいた。
ハルティナと比べて十歳は年上に見えるその男は、客人の存在に気が付くと無愛想な顔つきで黙って顔を上げた。
男は故国では大柄な方であったハルティナよりもさらに背が高く、武人とはまた違う労働のために鍛えられたものであろう身体をしていた。
着ている
「これからは、この男が私の面倒を見るのか?」
男が何も言わないので、ハルティナはまず隣の青年に尋ねる。
船旅を共に過ごした青年は、今後の男の役割をハルティナに説明した。
「はい。この饗花宮では彼が貴方のお世話をいたしますので、気兼ねなく何でもお申し付けください」
そして青年は円卓と同じ葡萄色の椅子を引いてハルティナを座らせると、お辞儀をして部屋を去った。
ハルティナは青磁の茶器の載った円卓を前にして腰掛け、すぐ近くには男が一人立っている。
この二人っきりの状況になってやっと、男は渋々口を開いた。
「ようこそお越しくださいました。王女殿下」
男の声は深い海の底から響くように低く高圧的であったが、言葉遣いはそれなりには丁寧であった。さらに挨拶に続けて、男は名前と役職を名乗った。
「俺はこの饗花宮で、犠妃であるあなたを料理人としてもてなした後に、神に捧げるために肉を割いて烹る役目を持っております、
ルェイビンという名前であるらしい男の話すことは、祭りの儀式で読まれる祈祷文と同じで、あらかじめ決められた表現によって本質がぼかされていた。
その正当性があるふりをした言い回しを無視して、ハルティナはルェイビンが請け負っている仕事の実態を見抜く。
「要するに、私を殺す男だな」
「……はい。左様でございます」
ハルティナが率直に思ったことを言うと、ルェイビンは少々の沈黙を置いて肯定する。
負い目や罪悪感があるのかどうかはわからないが、ルェイビンは目をそらすことなくハルティナを見ていた。
だからハルティナはルェイビンを少しは信頼してみて、大嘉帝国について理解できないことを、言葉を選ぶことなくそのまま辛辣に尋ねた。
「この国の神は、なぜ人を喰らうのだ。お前たちの神は、人の血を見るのが好きなのか」
ハルティナは自分に与えられた運命を、全て納得しているわけではなかった。
王女として問い質すハルティナの言葉は、意図はしてなくても刺々しいものになる。
さらなる単刀直入な発言に対してルェイビンは、手にしていた急須を置いて、椅子に座っているハルティナに手を合わせてお辞儀をした。
「殿下。この国には
この帝国の支配者であり神でもある大帝について、ルェイビンは目を伏せて語っていた。食べることは支配すること、というルェイビンの言葉は、ハルティナも感覚としてわからないわけでもなかった。
だがルェイビン自身が神とされている大帝をどこまで信仰しているのかは、その淡々とした声からは伺えなかった。
そしてルェイビンは今度は顔を上げて、ハルティナの目をじっと見た。
「ただ殿下のような、遠い国々から犠妃となるために送られてくる女性は、普通の食材よりもずっと神聖で尊いものです。犠妃となる方は、支配下に入った国の象徴として、大帝への永遠の服従を祝福する花嫁ですから」
お辞儀をしてハルティナに従うふりをするルェイビンの姿は、まるで大きな山犬のようでもあった。
その犬は最後はハルティナを殺して残った肉を咥えて、主のもとへ持って行ってしまう犬であるはずだった。
ルェイビンの無愛想な表情からはあまり、熱意や意欲は感じられなかった。
しかしルェイビンはハルティナの存在そのものには敬意を払って、大切な花嫁だとは言ってくれた。
それはおそらくこのルェイビンという料理人にとっては、建前に過ぎないのだろう。
だがもしかすると、ハルティナにとっては王族としての矜持が全てであるように、その建前こそが彼にとっての全てなのかもしれないとも、ハルティナは思った。
この遠い異郷の大陸の地にハルティナは、歪な婚姻のために招かれた死すべき宿命の花嫁としてやってきた。
しかし異国を支配する絶対神という、実際に会えるかどうかも怪しい存在が相手であるせいか、なかなか嫁ぐ実感はわかない。
ハルティナが知っている婚姻は、愛情の有無はどうであれ男女が共に生きるためのものであって、どちらかが死ぬためのものではない。
だからハルティナは、その死によって完成する婚姻を受け入れるためには、努力をしなければならなかった。
(私が考えていた婚姻とは大分違うが、彼らが私を必要としてくれるなら、それは喜ぶべきことなのだろうか)
ハルティナはルェイビンが語る帝国の特異な論理に触れることで、徐々にその思考に影響されつつあった。
だがそれでもハルティナはまだ、ディティロを許せないのと同様に、自分の身にいずれ降りかかる理不尽な死を快く受け入れる気にはなれなかった。
「お前たちの国の考え方が、よくわかった」
ハルティナは素っ気ない冷たさで、述べられた理屈に理解を示す。
開かれた窓の外から入る夏の陽射しは故郷よりは弱く、部屋の中にいるハルティナの両手は冷えていた。
ルェイビンはハルティナとの問答を終えると、実務的なことを付け加えた。
「大帝のいらっしゃる宮帳にあなたが花嫁として捧げられるのは、今日から七日後です。その日まではこの饗花宮で、最後にふさわしい日々をどうぞお過ごしください。俺は神に仕える料理人ですから、あなたが食べたいと望むものは何でも用意しますし、料理以外のことも手配はできます」
本当にハルティナのために頑張ってくれるとは思えない、消極的な様子でルェイビンは立ち上がった。
しかしやはり自分の職業だからなのか、料理について話しているときだけは、やる気が見えないなりに妙に堂々としていた。
そして再び急須を手にして湯気の立つお茶を器に淹れると、ルェイビンはまた黙り込む。
(最後にふさわしい日々、か)
ハルティナはルェイビンの言葉を、心の中で繰り返した。
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