2‐5.王の命令

 昨年即位した新たな国王ディティロは、現在は隠居している先王の弟と、新興の家門出身の女性との間に生まれ育った青年である。


 ハルティナの母とディティロの母は嫁入り前から互いに顔見知りで仲が悪く、あらゆる問題で張り合っていた。


 だから彼女たちの子供であるハルティナとディティロも、顔を合わせて話す機会が多いわりには、微妙な距離のある関係にいた。


 ハルティナが先王の娘として王位を継承するであろうディティロと結婚するという縁談も以前はあったのだが、特に理由もなくいつの間にか立ち消えになっていた。


(別に私は、ディティロのことが嫌いなわけではない。だけどただ、私が得ることはないものを、あいつが持っているのを見るのは辛い)


 国王の居館へと続く庭を歩きながら、ハルティナはディティロと自分の因縁のことを思ってため息をつく。


 このクルタスの花に満ちた美しい庭で、ハルティナとディティロは幼い昔に一度だけ、木刀で手合せをしたことがあった。

 ハルティナはディティロの木刀を打ち落とし勝負に勝ったが、その後に王となり軍を率いたのはディティロだった。


 国王の居館は庭を見渡すことのできる北の端にあり、ハルティナは昔を思い出しながら歩いているうちにそこに辿り着いた。


 居館は魔除けに彫られた獅子の装飾のついた扉が荘厳な建物で、何層にも重なる塔のような屋根は高く黄金色に輝いている。


 見張りの衛兵に扉を開けさせて進めば、吹き抜けの広々とした応接間でディティロは待っていた。


「よく来てくれたな。ハルティナ」


 立派な木細工の長椅子の上に膝を立てて裸足で座り、ディティロは物憂げな微笑みで呼び掛けた。


 ディティロは背丈はハルティナと変わらないが、ハルティナよりも痩せて線が細く、瞳が大きな女性のような顔立ちをしていた。

 服は部屋着として金糸を含んだ黒地の更紗を着て、髪を結った頭上には輪の形をした冠をはめている。


 この男らしさに欠けた王の姿が、綺麗で素敵だと評価する貴族の娘もそれなりにはいる。

 だがハルティナは、自分よりも女のような顔をしているくせに男である、ディティロの外見が好きではなかった。


 ハルティナはディティロと向かい合う形に置かれた椅子に座り、腕を組んだ。


「帰って早々に呼び出して、一体私に何の用だ」


 およそ敬意を感じさせない口調で話す従姉妹の王女に、ディティロは何も言わずに相づちをうって本題に入る。


「うん、どこから話そうか。ハルティナは、俺たちの曽祖父がかつて南の群島にいた叛逆者との戦争で命を落としたっていう話は聞いたことがあるよな」


 ディティロはまず、ハルティナが知っている情報を確認した。


 チャンティク王国は多数の民族が暮らしている広大な国であり、地方が反乱を起こすことも少なくはない。


 かつていた南の叛逆者の話は直接政治に関わる立場にはない者でも知っている話だったので、ハルティナは話を先に進めようと質問で返した。


「最盛期には王国を乗っ取る寸前まで勢力を拡大したという、叛逆者の話か。だが祖父の時代に鎮圧されてからは、南の群島で特に問題は起きてないと聞いているが」


「そうだな。昔の話だと思っていたから、俺も注意を払っていなかった。だがその事情が、大分変わってきた」


 ディティロは表情を曇らせて、大きく開かれた折り戸の向こうの青空を横目で見る。


 王国が置かれている状況を鑑みて、ハルティナはそのディティロの言う事情の変化が何であるのかを推しはかった。


「それは帝国が、絡んでいるのか」


 十中八九そうではないかと思いながらも、ハルティナはディティロに問いかける。

 ディティロは視線を戻して頷き、簡単にわかりそうなことであるのにも関わらず、ハルティナを妙に持ち上げて答えた。


「さすが、ハルティナは察しが良いな。ハルティナが考えている通り、南の叛逆者の末裔が帝国と組んで再び反乱を起こそうとしているとの話が今、複数の筋から出てきている。しかも叛逆者の末裔は、秘密裏にずっと戦の準備をしていたらしい」


「それは非常に、まずい話なんじゃないのか?」


「ああ、まずい。よりにもよって、一番厄介な者たち同士が手を組んだ。どちらか片方だけでも難しい戦なのだから、両方を同時に相手にすれば負けるのは必至だ」


 どんどん雲行きが怪しくなる話に、ハルティナは思わずディティロに事の深刻さを確認した。


 自分の能力の限界を認め、ディティロは敗北への確信を率直に語った。

 その暗澹とした口ぶりからはこのまま有効な手を打てなければ最悪の事態を迎える、つまり王国が滅亡する可能性がかなり高いことが伺えた。


 ディティロは剣の腕はハルティナより落ちるが、軍才がないわけでない。

 それでもその才能は負け戦を勝ちにできるほど飛び抜けたものではなく、確実な勝利を逃さないという堅実な才能だった。


 それではどうするのだとハルティナが問いただそうとしたところで、ディティロは重々しく口を開いた。


「だから俺は、叛逆者の末裔に先んじて帝国に和平を結んで属国となり、服従の証に朝貢しようと考えている。叛逆者に負けて国を失うよりは、海の向こうの国と適当に話をつけた方がましだからな」


 ディティロが至った結論は、大嘉帝国との戦をほぼ全面降伏で終わらせることで、叛逆者の末裔の計画を根本から崩して滅亡だけは避けるというものだった。


 今までの帝国との戦争をすべて無意味にするその選択は、普通に考えれば受け入れがたい。


 しかし帝国との和平交渉を有利に運び、誇りを捨てても実を取ることができるのなら、もしかするとそれほど悪い話ではないのかもしれなかった


(だがこうした状況の中で利を得るには、ある程度の犠牲が必要なはずだが……)


 ディティロが払おうとしている代償について考えて、ハルティナは押し黙る。

 その沈黙を破って、ディティロはハルティナを呼び出した意味を告げた。


「それでハルティナには属国の王女として帝国に嫁ぎ、朝貢品の一つになってほしいんだ」


 様子を伺うような落ち着いた声で、ディティロはハルティナに依頼を語る。


「私に、人質になれということか」


 朝貢品という言葉の意図が完全には掴めず、ハルティナはディティロに尋ねた。


 国と国が同盟する際に人質を送ることで関係をより強固にすることは、よくある外交の手法である。

 しかしディティロの物の言い方は、それだけではない何かがあるように思えた。


 ディティロはしばらく言葉に詰まっていたが、やがてハルティナの目を見て隠さずに全てを話した。


「……人質というよりは、おそらく生贄だな。俺も詳しいことは知らないが、帝国を治めているのは人ではなく神だそうだ。そしてその神の宴に女子の肉を烹て捧げることで、女子を神の死せる花嫁にするという風習が帝国にはあるらしい」


 ディティロが話しているのは、ハルティナが考えていたよりも何十倍もひどい犠牲の話だった。人間が鶏や豚のように扱われて死ぬ国があるとは、簡単に信じたくはなかった。

 しかしディティロの深刻な表情から、それが嘘や冗談の類いではなさそうだということが、ハルティナにはわかった。


「その殺される女子の身分が高貴であればあるほど、捧げた土地は政治的に信頼されるということだ」


 見知らぬ異郷で行われている残酷な儀式について、ディティロは淡々と伝聞を語る。


(帝国では、そんなにも惨く、人が死ぬのか)


 ハルティナの国にも生贄を必要とする神がいることを考えれば、帝国が犠牲を求める道理が理解できないわけでもなかった。大嘉帝国は想像していたよりも強大な国だから、より重い命を生贄に望む神がいるのかもしれないと、ハルティナは思った。

 だがそれでも人が烹て食べられる話を、簡単に受け入れられるはずはなかった。


 そしてまたディティロは申し訳なさそうな素振りを見せて、頼んで願う形をとりつつも、王としてハルティナに命令を下した。


「この国で最も高貴で神に嫁ぐのに適齢の女子は、ハルティナだと俺は思っている。ハルティナが帝国の神の花嫁となってくれれば、帝国が我々を裏切ることはおそらくないはずだ。行ってくれないか、ハルティナ」


 目の前の人間を死なせる覚悟を決めた、ディティロの重苦しい声が、吹き抜けの部屋に響いて消えていく。

 その声を発したディティロの感情を殺した顔を、ハルティナはぼんやりと見ていた。


(私は死ねと言われているのだな。異郷の残虐な風習に付き合う形で、惨たらしく死ねと)


 ハルティナは次第に、自分が置かれている酷な状況を理解する。


 王の命令の内容がわかってまず最初に思ったのは、そんな国に嫁いで死ぬのは嫌だということだった。

 人間を烹て神に捧げる風習が間違いだったとしても、きっとこのまま帝国に送られればろくな死に方はできないに違いなかった。


 そして次に、考えるのも嫌になるほど陰惨な死に方を従姉妹に迎えさせようとする、ディティロの人間性を疑った。

 ディティロも悩んでいないわけではないことは態度からわかるのだが、それでもひどく冷酷な判断に感じた。


 ディティロが今まではっきりと口にしたことはなかったが、やはり女であっても自分よりも血統の良い従姉妹は邪魔だったのだろうかと、ハルティナは薄っすらと考えた。


(異郷の神のために烹込まれて死ぬなんていう、そんな気味の悪い死に方はしたくない。……だけどそれでも私は、ディティロの命令を断れない)


 背筋に冷たい水を流し込まれたかのような気持ちの悪さを、ハルティナは感じていた。

 しかしディティロの言葉を拒んで生きるという選択肢は、ハルティナにはなかった。


 ハルティナには王族としての誇りがあり、死ねと言われれば死ななければ、王女として格好がつかないような気がしていた。

 たとえ、その命令を拒絶するのに十分な正当性があったとしても、求められる意味があれば命を差し出すのが、王位には就けなくても王の娘として生まれたハルティナの矜持だった。


 だからハルティナは否定の言葉を押し殺して、簡潔な言葉で承諾した。


「わかった。私一人が死んで済むのなら、引き受ける」


 実際の想いとは裏腹に、声は怯えを滲ませることなく凛々しく響く。


 自分がじき送られることになる海の向こうの帝国について、ハルティナが知っていることは少ない。

 だが生贄という言葉が比喩ではなく、おそらく現実であることは、十分に理解していた。


 ハルティナは無意識のうちに、自分の身を守るようにさらに腕をきつく組んでいた。


 しばらくの沈黙の後、ディティロはゆっくりと立ち上がり、ハルティナの座る椅子の後ろに歩み寄って回った。

 そしてハルティナの肩に手を置き、ディティロは言った。


「ではすまないが、頼んだ。ハルティナならきっと、承諾してくれると信じてた」


 背後に立つディティロの顔は見えず、肩に置かれた手は冷たかった。ディティロは自分の命よりも建前を重視する、ハルティナの気性をよく理解していた。頼めば必ず承諾することを、知っていた。


(そんなに私に死んでほしいなら、お望み通りに死んでやる)


 ハルティナは声色だけは殊勝なディティロの言葉を聞いて目を閉じ、明るく照らされた吹き抜けの部屋を見るのをやめた。



 それからディティロと別れた後の、自分の屋敷への帰り道。


 ハルティナは一人で遠回りをして王宮の敷地にある海岸に寄り、久々に海に飛び込んでみた。

 幼い頃は泳ぎの練習をしたり遊んだりした海であったが、成長してからは入る機会は少なかった。


 着衣のままぬるい海水に浸かって沈めば、水面はきらきらと青く、遠く輝く。


 水中に広がっていく衣の裾を見ながら、ハルティナは水と身体の境目が無くなり、自分の存在が小さく消えていくような気がした。

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