1‐16.収奪と対価

 大帝に召される日の前夜。


 ギュリの最後の食事は、ルェイビンが牛を屠るのを見た翌日のことだった。


 中庭に咲く海棠や梨の紅白の花が闇夜に浮かぶ澄んだ三日月の夜に、ギュリは食堂へと続く檐廊を歩く。


 人生の締めくくりを彩る衣裳は、五色の紐で飾った黒色の宵衣を女官たちに着せてもらった。

 紅色で縁取られた大帯と、白い裏地との対比が美しい衣だ。編んだ髪は金色の簪でまとめて、玉を散りばめた布を垂らした。

 ギュリの細い身体によく映える、夜の暗さに溶け込むようなその装いを、最後にふさわしいものとしてギュリは気に入っていた。


 中庭を囲む檐廊を巡って食堂の前に着くと、淡い青色の服を着た女官が流水や魚が彫られた扉を開ける。


「どうぞ、準備は済んでおります」


 饗花宮の食堂は大宴会ができそうなほどに広く、無数の蝋燭が揺れる燭台の光によって照らされた室内は天井も壁も朱や金箔で装飾されている。

 ギュリが女官の案内に従ってその食堂の中に設けられた自分の席の椅子に座れば、そこにはギュリが思い描いていた最上を超える最上のご馳走が用意されていた。


(妃どころか、王様が食べる食事みたい)


 食堂の中央に置かれた大きな円卓に用意された豪勢な料理に、贅沢に多少は慣れたはずのギュリも思わず驚く。


 円卓の上で輝く銀製の器には、苦菜の和え物に筍のあんかけなどの旬の野菜の料理や、味をつけて焼いたり腸詰めにしたりした様々な肉料理など、数えきれないほどの品々が盛りつけられている。


 さらに奥に置かれた鍋の中で湯気をあげている具入りの湯は澄んだものと白濁したものの二つが用意され、脇に添えられたごうによそわれた米飯も赤飯と白飯の両方があった。


 そのどれもが手が込んでいて、彩りよく美味しそうだったので、ギュリはかえって食べるのがもったいない気がして一つ一つをまじまじと見る。


 そうしてギュリがじっと料理を見ていると、普段通りに鴉青色の胡服を着たルェイビンが部屋に入ってきて、向かいに座った。円卓の天板は広かったが、体格が良いルェイビンがいると急に場所が狭くなったような気がした。


 ルェイビンは無言のまま卓の上の杯に酒尊しゅそんから杓で酒を注いで、大きな手でギュリに渡した。透明に満たされた杯の中身は、梨の花の香りがほんのりとついた、甘く熟成された味の酒だった。


 もらった酒を飲んでもルェイビンが黙っていたので、ギュリは食べ始める前にまず話しかけた。


「これを全部、あなたが作ってくれたんですか?」

「だいたいはそうだ。お前のために作った料理だからな。好きに食べろ」


 ルェイビンは突き放した態度で、ギュリをもてなす。しかしそのやる気のない姿勢とは裏腹に、目の前にある繊細な献立の数々はルェイビンの料理人としての生真面目さをよく表していた。

 そうしたルェイビンの奇妙な二面性に心の中で微笑みつつ、ギュリは箸を手に取る。


「最後まで丁寧に、ありがとうございます。それじゃ、いただきますね」


 ギュリはまず前菜らしい手前の品物から、にんにくの漬け物を選んで食べた。酢醤油と砂糖に漬け込まれ輪切りにされたにんにくの、甘酸っぱい風味と歯ざわりを味わう。

 そして昨日まで出されていた異国の料理とはどこかが違うその味付けに、ギュリはルェイビンがわざわざギュリのために作ったと強調した意味を理解した。


「もしかしてこれ、私の国の献立ですか」


 箸を持ったまま顔を上げて、ギュリはルェイビンの方を見た。

 ルェイビンは、卓上の鍋の中身を杓でかき混ぜつつ頷いた。


「死ぬ前に食べるのはやはり故郷の味がいいだろうと思って、この日に出す料理はお前たちの土地のものにしている」


 征服された国から運ばれてきた犠妃への配慮らしいもてなしについて、ルェイビンは言葉少なく語る。

 自分の国ではない土地の料理でこれだけのご馳走を用意できるとは、ルェイビンはやはり優れた腕の料理人なのだとギュリは思った。


(いろいろ気を遣ってくれてるみたいだし、心して食べさせてもらおう)


 ギュリは自分の故郷の料理だとわかったうえで、改めてよく卓の上の品々を見た。ところがルェイビンの料理はあまりに繊細に手間がかけられていたので、ギュリが見たことがある品は少なかった。


 考えた末にギュリは二品目に、薄く食べやすい大きさに作られた野菜入りの丸餅を選んだ。


 ギュリが見知っているものとは雰囲気が違うが、生地の色からギュリの実家で宴会が行われるときに叔母が作っていた料理と同じものだと思われた。


 薄い黄色に何枚も焼かれたその餅は、赤い糸唐辛子で綺麗にあしらって銀製の皿に盛りつけられてる。ギュリはそのうちの一つを小皿にとって、焼きたてのまま頬張った。

 すると胡麻油を使って焼かれた表面の香ばしさ、しっとりと焼けた中の生地の熱さが口の中に広がる。


(やっぱりこれはあの緑豆の丸餅だ。具に挽き肉が増えてるけど)


 熱々の生地から感じられる緑豆の甘みと、中に入っている白菜や韮の食感を楽しみながら、ギュリはこれまで食べてきたものとの違いを感じた。

 生地と一緒に焼かれた挽き肉の肉汁が溢れる旨味は今日まで知らなかった美味しさで、ギュリが故国から遠い都にいることを確かめさせる。


(そういえば昔、この丸餅を使用人の少年と分けて食べたことがあったような気がする)


 ギュリは醤油をつけて二枚目の丸餅を食べて、さらに幼いころに一緒にいた少年のことを思い出した。

 それは遠い昔の、鈍い痛みのような記憶である。


 もう名前を忘れてしまったその少年は、緑豆の丸餅が何枚も食べることができる人が羨ましいと言っていた。

 少年は使用人としてよく働き、そして緑豆の丸餅を存分に食べる機会のないまま、ある冬に死んでしまった。


 大人たちが残してくれた宴のご馳走の欠片が、あの日のギュリと少年が食べることのできたものだった。


 しかし今のギュリの目の前には、緑豆の丸餅だけではない素晴らしい料理があった。

 ギュリは最初からわかっていた以上に、死んでしまった少年よりも多くのものを得ていた。


「この肉は、昨日屠った仔牛ですか」


 胡麻塩がふりかけられた串焼きの肉を一本手に取って、ギュリはその肉の焼き色を見る。


「ああ。この茹でた肉もそうだ」


 ルェイビンはその隣の器に盛られた茹でた牛肉の塊を、庖丁で食べやすい大きさに切り分けていた。


(実際に殺されたところを見た後で食べるのは、ちょっと変な気分かな)


 屠殺場で見た赤い布を被せられた牛の姿を思い出しながら、ギュリは肉を竹串から外して箸で食べる。


 串焼きは太めの甘い葱と肉が、交互に香りよく炙られているものだった。

 平たく切って叩かれた仔牛の肉は柔らかく、醤油も何もつけなくても十分なほどに塩がつけられており、肉そのものの味やおいしさがしっかりと引き出されていた。


 ギュリは牛や鶏などの他の生き物に対して、愛情を持って接したことがなかった。また愛情を持つにしろ持たないにしろ、家畜が家畜であることは変わらないように感じていた。


 鶏は餌をもらう代わりにその肉と卵を人間に提供し、ギュリは後宮でもてなされる代わりに屠られて食べられる。

 ギュリの妹は、自分が餌をやっている鶏を可愛がっているつもりのようだった。だが一方で鶏は、自分に餌を与える人間のことを何だと思っていたのだろうかと、ギュリはふと振り返る。


 自分を食べる大帝が何者であるのかを、ギュリは知らない。大帝が神でも化け物でも、ギュリはただ支配された国の民として従うだけである。


 この世には食べられるために殺される牛もいれば、死ぬまで働かされる牛もいる。


 だから例え相手が化け物であったとしても、奪われ続ける人生よりは、対価が身体であったとしても何かを与えられる人生の方がずっと恵まれているはずだと、ギュリは投げやりな結論を下す。


(せっかく切ってもらったんだし、次はこの茹でた肉をもらおうか)


 ギュリは串焼きの肉をにんにくの漬け物と一緒にして米飯に載せて食べ終えると、小鉢に入っていた青海苔と大根の和え物で口の中をさっぱりさせた。


 そして出汁の味が上品に感じられる若布入りの清湯を一口飲んで落ち着いたところで、ルェイビンが薄く切って花弁のように並べた茹で肉の皿に箸をのばす。


 綺麗な照りのある淡紅色の肉をよく眺めてから口に入れ、ギュリは舌で全体でその柔らかさを味わった。


(ん。こっちのお肉は、ほんのり甘い)


 脂身がほどよくついた部位の牛肉はとろけるような肉質で、噛まなくても口の中でほどけていく。串焼きと違って下味がついていないため、添えられている赤い味噌を少しだけつけると旨味が増した。


 こうしてギュリがしゃべることも忘れて食事を続けていると、ルェイビンは太い腕を組んで比較的優しげな声で様子を伺ってきた。


「味はどうだ。故郷を思い出すか」

「すごく美味しいですよ。今までこんな料理、今まで食べたことないくらいに」


 ギュリは一旦箸を置いて杯を手にして微笑み、ルェイビンが期待するものとは逆であろう答えを言った。

 そして遠い過去を思い出したことは伏せたまま、杯の中の酒を飲んで酔う。


 燭台の灯りが照らす円卓にはまだ、細切りの生肉や腸詰めなど、肉料理だけでも手をつけていないものがたくさんあった。

 それは絶対に食べきれないほどの量で、ギュリは間違いなく心行くまで腹を満たすことができるだろう。


(この人は明日、私を殺して料理する。でも私は多分、この人のおかげで満足できる食事ができた)


 想いを口にはしなかったが、ギュリは感謝を込めてルェイビンの黒い瞳を見つめた。

 するとルェイビンは怪訝そうな顔をして、ギュリを見つめ返す。ルェイビンがギュリよりもずっと身体が大きいのは、お互いが椅子に座っていても変わらない。


 酔ったギュリはそのルェイビンの姿が妙に面白い気がして、さらに笑みをこぼした。


 この饗花宮で犠妃としてルェイビンにもてなされてはじめて、ギュリは満腹という言葉の意味を知った。


 故郷にいるときは、死にたい理由もないが、生きたい理由もないという気持ちで、生きてきた。


 だが満たされた気持ちを知った今、ギュリはきっともう死んでも構わないほど幸せだという思いで、明日屠られる運命を受け入れていた。

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