1‐15.肉を割く

 饗花宮にやってきてから数日間、ギュリは至高の神である大帝の妃として、何不自由のない暮らしを送った。


 食べ物も、衣服も、何もかもがギュリの生きてきた灑国よりも素晴らしく豊かで、求め続けても尽きて無くなってしまうことはない。


 ギュリの故郷は奪われる側だったが、帝国は奪う側である。奪ったもの出来上がっている帝国の後宮では物を食べることも気軽で、飽きて食べ残すことも許されていた。


 ルェイビンの話によればギュリは死んで料理になって初めて大帝の元に召されるのであり、生きてる間に自分を娶った者の顔を見ることはないらしかった。


 しかしギュリは最初から自分は貢物として帝都に運ばれたのだとわかっていたので、神である大帝の姿を生きて見る機会がないことをおかしいとは思わなかった。

 人にとっても物は物でしかないのだから、神である大帝にとっては妃であるギュリもなおさら物でしかないのだ。


(でも私は物の中でも、大切にされている方の物なんだろうけど)


 そして妃としてかしずかれて六日目に、ギュリはルェイビンが牛を屠殺する姿を見た。


 ギュリの住んでいた土地では牛は労働力として飼われた家畜であったため、食用に殺すところを見るのは初めてのことだった。


 屠殺場の土間の隅に用意された椅子に、ギュリは座る。そこは格子越しに入る日光と風がほどよい、薄暗くて涼しい場所だった。


 ルェイビンは牛に赤い布を被せてやって来た。ギュリが知っている赤毛のものとは違う黒毛の、とてもおとなしい仔牛だ。


 家畜の前に立つルェイビンは仏頂面の大男であることには変わりはないが、普段よりもどこか優しげで、使命感を帯びているようにも見える。


「じゃあ始めるぞ」

「どうぞ、お願いします」


 話しかける声はぞんざいだったが、ギュリはこれから起こること考えて姿勢を正した。


 神に仕える料理人が牛を屠るのだから、それは日常的に行われている屠殺とは違うはずである。いずれルェイビンに殺される犠妃であるギュリにとっては、その死を見ることは自分に訪れる死を直視することでもあった。


 ルェイビンはまず赤い布でそのまま牛を目隠しして、用意してあった桶の水を柄杓で土間に撒いた。


 厄除けにも似たその行為の次は、ルェイビンはギュリにはわからない言葉で二、三言ほど何かをつぶやいた。どうも本人も意味をよくわかっていなさそうな、伝統的な決まり文句のようだ。


 こうして事前の儀式が終わると、ルェイビンは部屋に置かれた大机から縄を手に取って牛の脚を縛り、強く引いた。

 目隠しをされたままの小さな仔牛は、ルェイビンの力に引っ張られてよろける。


 その後、ギュリがそのときがいつなのかと考える暇もなく、ルェイビンは引き寄せた仔牛の眉間に、左手に持った先の尖った大槌を振り下ろした。


 鈍い音をたてて仔牛の頭がかち割れ、血が溢れて地面を濡らす。


 ルェイビンは牛から目隠しを外し、見開かれたままの目を覗いた。

 そして牛が息絶えたことを確認すると脚の縄を外して、再び何かをつぶやいて弔った。


 淡々とした低く響くルェイビンの声は冷たく聞こえたが、合理化された手順の中に残っているということは何かしらの想いが込められているのだろうとギュリは思った。


 屠った後には解体が行われ、ルェイビンはぴくりとも動かなくなった牛を仰向けにして、その喉を庖丁で掻き切った。頭を割ったときよりも多くの血が流れて、地面には血だまりが作られる。


 こうして血抜きが終わると、ルェイビンは服を脱がせるように牛の皮を剥いだ。

 すべて剥がれれば、次は腹部を割いて内臓を取り出す作業が始まる。


(生きてて痛いのは多分、一瞬みたいで良かった)


 ギュリは濃い血の臭いのする空気を吸い込み、自分の未来でもある切り開かれた牛のあばら骨や臓物を、妙に安心した気持ちで眺めた。


 牛を殺して肉を割くのだから当然、血は流れている。


 しかしルェイビンは牛を食べるために割いているのだから、庖丁で捌く切り口は不純なものを遠ざけていた。ルェイビンが行ってるのは完成された技であり、清らかで美しい食材を生み出す営みだった。


 普通に考えれば、いくら手順が清潔に洗練されていたとしても、牛と同じように殺されるのは嫌な死に方なのかもしれない。


 しかし他者に全てを任せれば何も悩むことなく終わるのだと思うと、牛のように殺されるのもそう悪い死に方ではない気もしてくる。


 ギュリはこれまでの自分の人生が最高に幸福でもなかったが、最低な不幸でもなかったことを知っている。犠妃として過ごした数日間の暮らしが簡単に手に入るものではないことも知っているし、この世にはもっとひどい死に方が他にたくさんあることも知っている。


 だから自分が得てきた幸運の代償として、今目にしている死はそう重いものではないとギュリは思った。


 ギュリが犠妃としての死について考えているうちに、ルェイビンは手際よく仔牛の臓物を腹から出して壺に納め、首を断って四肢を切り離していた。

 肉と骨を切断するその音は、歯切れがよく心地の良いものだった。


 ルェイビンの背中は広く、その左手に握られた庖丁の刃は長い。


 それは牛の形をしたものから何か別の物を引き出すような、不思議な光景だった。


 やがて、ルェイビンは全ての処理を終える。ルェイビンは切り出した薄紅色の肉を大机に並べると、ギュリの方を見て尋ねた。


「これで、気が済んだか」

「はい。あなたの仕事のことが、少しわかりました」


 はねた血のついたルェイビンの顔と服を見ながら、ギュリは答える。

 離れた場所で椅子に座るギュリの華美な衣裳は、まったく汚れてはいなかった。


 ルェイビンはギュリの返事を何も言わずに聞くと、最初に牛に被せてきた赤い布で大机の上の肉を再び覆った。

 その表情は神に仕えて命を奪う業を倦んでいるようにも、あるいは矜持を持っているようにも見えた。

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