1‐14.宮殿の料理人

 大嘉帝国の帝都は、大陸の東の果てに位置する灑国から西に四千里ほど離れた場所にある。四千里は、普通に移動すれば何十日もかかる距離である。


 だが帝国は馬の扱いに長けており、また替え馬や食料を用意した宿駅も完全に整備された旅路だったので、ギュリが乗る馬車は思っていたよりもずっと早くに帝都に到着した。


(帝国は灑国よりずっと大きいとは聞いてたけど、こんなにも栄えてる国だったんだ)


 ギュリは馬車の窓から、巨大な建造物が立ち並ぶ帝都の大通りを覗く。


 帝都は頑丈に築かれた城壁に囲まれた四角形の都市で、東西南北の各面にそれぞれ三つの楼閣のついた門が開かれている。

 ギュリの乗る馬車は、そのうちの一つを通って都の南にある皇城に向かっていた。


 何層にも重なる屋根を持った鐘楼に、頂に金色の飾りのついたまっ白な円塔など、帝都には天高くそびえ立つ建物がいくつもひしめき合っている。


 通りを行き来する人々の数も信じられないほど多く、灑国の民と大きく変わらない風貌の者たちもいれば、搬贄官の男と同じように浅黒い肌の者や、逆にギュリよりもずっと肌の白い者もいた。


 また都の中央には運河によって海と繋がった巨大な人工の湖があって、湖面にはたくさんの商船が浮かび、湖岸にはあらゆる種類の店が軒を連ねている。


(これが世界の半分を支配しいる国の豊かさなんだね)


 帝都に来るまでの街道は整備されていて泊まる場所の心配はなかったけれども、過ぎゆく景色のほとんどは赤土の大地だった。


 進んだ先に突如として現れた壮大な光景を、ギュリは半ば夢のような気分で見つめた。旅した時間が短すぎたためにわかっていなかった帝国の巨大さは、帝都に来ただけで自然と実感することができた。


 やがてギュリの乗る馬車は、黄金に輝く瑠璃瓦の屋根で覆われた皇城にたどり着く。衛兵たちによって厳重に守られた門をくぐって敷地内を移動し、しばらくしたところで馬車は止まった。


「お疲れさま。これで旅は終わりだね」


 搬贄官の男が簾を持ち上げて顔を見せ、手を取ってギュリを馬車から降ろす。

 ギュリが正装に合わせて履いた唐鞋でこれから自分が死ぬことになる場所に降り立つと、男は歓迎の言葉を述べた。


「大嘉帝国の皇城ヘようこそ、チェ・ギュリ殿。ここは饗花宮きょうかきゅう。犠妃である君が宴の日を迎えるまで過ごすところだよ」


 男が饗花宮と呼んだその建物は澄んだ池に囲まれた形で建った大きな居館で、その名の通り花のように美しい赤や緑の彩色が施してあった。


 目の前の色のあまりの鮮やかさに呆気にとられたギュリが屋根の上まで見上げていると、建物の中から一つの人影が現れる。


 男はその影を指さし、その者の名前をギュリに紹介した。


「そしてあの男が庖厨官ほうちゅうかんのルェイビン。君を肉として捌いて大帝に捧げる料理人のね」


 端的に語られた男の言葉が、ギュリに与えられた出会いの意味を説明する。


 やる気がなさそうな足どりでこちらに歩いてきたのは、大柄で仏頂面の青年だった。


「庖厨官のルェイビンだ。よく来たな」


 ルェイビンというらしい青年は不機嫌そうな態度で自分の名前を名乗り、ギュリに雑なあいさつをした。

 大陸中央の民らしい頑強な風貌から発せられる声は大型の獣のように低く、ギュリの村に毎年来た帝国の行政官と同じように他人を威圧する雰囲気を持っている。


「チェ・ギュリです。よろしくお願いいたします」


 ギュリは袖を合わせてお辞儀をしつつ、神に仕える料理人であるルェイビンを観察した。


(この人が、私を殺すんだ)


 ルェイビンは黒い髪をきつく結い、鍛えられた身体に鴉青からすば色に染めた長袍を着て、大きな壁のようにギュリの前に立ち塞がっていた。

 顔は顎や頬骨がしっかりとした男らしさがあり、切れ長の一重まぶたの奥の瞳の色も髪と同じように黒い。


 ルェイビンは何も言わず、面倒くさげな表情でギュリを見下ろしていた。素手で楽に人を殺せるだろう大男にじろじろと眺められ、ギュリは自分がかよわくて小さい生き物なのだと実感した。


 やがてギュリを皇城の後宮に輸送するという役目を終えた搬贄官の男が、ルェイビンとは違う朗らかな声で沈黙を破った。


「僕はもう戻るから、この残りの貢物はついでに倉に入れとくよ」


 男はギュリと共に皇城に運ばれてきた荷台から、ギュリの故郷の名産品である人参を一つ手に取ってルェイビンに見せた。


「ああ、頼んだ。目録は後で確認する」


 ルェイビンはギュリから目を離し、返事をした。

 どうやら搬贄官の男とルェイビンは、それなりに親交がある仕事仲間であるらしかった。


 男は荷台に繋がれた馬を引いて去りながら、振り返ってギュリに別れを告げた。


「それじゃ、よい最後の日々を」

「はい。選ばれた幸せを噛みしめます」


 内実はどうであれ優しげな彫りの深い横顔で、男はギュリに微笑みかけていた。


 ギュリは短い日々を過ごした異国の男の後ろ姿に、お礼を言った。


(そういえば、この人の名前は聞いた覚えがなかったな)


 彼について知っているのが肩書きだけであることを、ギュリは最後に思い出す。しかしもう会うことはないとわかっていたので、名前を尋ねようとは考えない。


 貢物を載せた荷台と共に護衛の一団もその場を去ると、今度は居館から女官たちが現れた。

 淡い青色の衣を着た十人くらいの年若い女官たちは、金の取っ手のついた両開きの扉を大きく開け、頭を下げてギュリを迎える。


 ルェイビンは、女官たちを一瞥もすることなく居館の中に進んだ。

 そうした次第でギュリも、その後ろに慌てて続く。


 父や兄とは比べものにならないほど広い背中の後ろ姿で、ルェイビンは歩きながらギュリに語り出した。


「お前も知っている通り、犠妃は大帝に娶られた妃であると同時に、大帝に捧げられた供物でもある存在だ。だからこの饗花宮も妃であるお前の居館でもあり、食材であるお前を一時的に貯蔵する場所でもある」


 およそ建物の華やかさな装飾には似合わない直接的な言葉で、ルェイビンは饗花宮という場所がギュリにとってどんな意味を持っているのかについて話す。


 扉をくぐった先にまず最初にあったのは、春の花が咲き誇る中庭を一望できる檐廊えんろうだった。

 中庭の中央には紅い花が咲く海棠の木が、四隅には白い花が咲く梨の木が植えられ、地面には黒く焼かれた磚が綺麗に敷き詰められている。


 紅白の花と黒色の磚の対比が効いたその中庭は、一枚の絵のように美しく完成された空間だった。

 しかしルェイビンが立ち止まらないので、ギュリは花々の姿や香りは後で堪能することにして、案内人を追って先へ向かった。


「庖厨官の仕事はここで食材を管理し、最後は料理にすることだ。神である大帝は宮帳にいるから、この饗花宮に来ることはない」


 どの説明も話し慣れた事柄であるらしく、ルェイビンは必要な情報だけを手短に伝えていく。


「お前が大帝に召されるのは七日後。お前が最後の夕餉を食べ終えて眠るときまで、俺は庖厨官としてこの饗花宮の妃であるお前の世話をする」


 ルェイビンはまったく意気込みを感じさせない態度で、奉仕すると同時に管理するという一見矛盾した仕事について語った。


「そしてあなたは私を殺して、大帝に捧げるために割いて烹るんですよね」


 その隣に追いついたギュリは、省略された先を補う形でルェイビンに確認した。


「……そうだ。俺はお前を殺し、その肉を料理する」


 ルェイビンはわずかに顔色を変えて、ギュリの言葉に答えた。しかしその表情がどんな感情を表しているのか、ギュリにはわからなかった。


 やがて檐廊の途中でルェイビンは立ち止まり、菱花の透かし彫りが施された戸に手をかけながら左右を指を指した。


「ここがお前の寝室で、この廊下の右の突き当りが浴場。左が食堂だ。着替えや湯浴みについては、さっきの女官たちが面倒を見てくれる」


 ルェイビンは部屋の配置を説明してから、戸を開けギュリを中に入れた。


 そこは大理石の床に赤い絨毯が敷かれた広々とした部屋で、天蓋から紗絹の垂れた寝台が置かれた豪奢な寝室だった。

 壁に設けられた丸い窓からは外の池を見ることができて、差し込む陽光は金銀や硝子で装飾された柱を明るく照らしている。


 また部屋の中心にはよく磨かれた木製の机と揃いの椅子があり、八角形の天板の上には揚げた米のお菓子や饅頭、蜜柑や芒果などが盛られた器が載っていた。

 ギュリが来る頃合いを見計らっていたように、器の隣に添えられた茶器にはちょうどよい温度に冷めたお茶が淹れられている。


 食べ物の載った机の前に立って腕を組むと、ルェイビンはやっとまともにギュリの方を見た。


「ここに置いてあるものは自由に食べていいし、朝夕の食事もお前の好きな時間に用意する。食べたいものがあれば俺に言え。俺はたいていの料理はそれなりに作れる」


 ルェイビンが働く意欲に欠けた姿勢であるのは、現れたときからずっと変わらない。

 しかし料理の腕にはやはりそれなりの誇りがあるのか、食事の用意について話しているときだけは声に自慢げな響きがあった。


(この人はやる気はないけど、自信はあるんだね)


 ぶっきらぼうな大男がかすかに見せた得意顔に、ギュリは心の中で微笑んだ。とはいえ世界の半分を治める大帝に料理を捧げるという大役を果たしているのだから、ルェイビンはおそらく本当に料理が上手いのだろう。


「あと他に、最後にしたいことがあれば要望を聞く」


 食事の話題がおわると、ルェイビンは元通りの不機嫌そうな表情に戻り、ギュリに死を迎えるにあたっての希望を尋ねた。


 ギュリはそれまで説明を聞いてばかりで、自分が何か聞かれるとは思っていなかったので、一瞬、返答につまった。


 犠妃に選ばれてから今日まで、最後にしたいことについて考える機会は何度もあった。

 だがいくら考えても、ギュリは願いや期待を実りのない人生のどこかで捨てていた。この饗花宮にいれば衣食住はすべて満たされるらしいのだから、なおさらわざわざしたいことは見つからない。


 それでも、何も言わないのは有意義ではない気がしたので、ギュリは近頃気になっていたことから考えてみて答えた。


「そうですね……。しいて言うなら私は、あなたがどんなふうに生き物を屠るのかが見てみたいですね」


 自分よりも高い位置にあるルェイビンの顔を、ギュリは真っ直ぐに見上げる。学んで覚えた帝国の言葉を話すギュリの声は、妙にはっきりと響いていた。


 自分の身にこれから起きることについては、わからない方がいいのかもしれない。しかし馬車の中で一人考えていた結果、ギュリは犠妃としての死に方について知りたくなっていた。


 ギュリの要望は少々想定外のものだったのか、ルェイビンは少し変な顔をした。だが自分の予定を考えた様子を見せた後、ルェイビンは渋々といった様子で頷いた。


「わかった。それならこの饗花宮の裏にある屠殺場を六日後に使うから、その時にはお前を呼んで見せてやる」

「ありがとうございます。庖厨官殿」


 願いを聞いてもらえたギュリは、花の刺繍が施された白い付け袖を合わせてお礼を言った。


(多分、この人は私の言うことは立場上だいたい聞いてくれるんだ)


 次第にルェイビンの頑強な外見に対する恐れを忘れながら、ギュリは思った。


 屠殺を見ることを許可されて微笑むギュリを、ルェイビンは不思議そうな目でしばし見下ろしていた。


 そのうち女官の一人がやってきてルェイビンに代わってお茶を勧めてくれたので、ギュリは揚げ菓子と共に頂いた。

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