1‐13.箱の中で



「ギュリ。搬贄官様が来てくださったが、準備はできてるか」

「うん、兄様。あとは、靴を履くだけだよ」


 兄に呼ばれたギュリは、白地の足袋に赤い唐鞋を履き、外に出る。


 空は白色の雲にうっすらと覆われた明るい曇天だった。ギュリは兄と一緒に、茅葺の門をくぐった。


(これで私はもう、この家に戻ってくることはない)


 言うほどたいした感慨もなかったが、ギュリは我が家に別れを告げた。


 門から農地へと延びる小道の両脇には、ギュリを見送りにやって来た人々が並んでいた。ギュリの家族や親戚も、あまり話したことのない牛の世話係の使用人の男もいた。近隣の住民も、ギュリの同性の友人や父親の知り合いなど、親交のある人たちのほとんどは集まっている。


 ギュリを帝国へと運ぶ馬車はその道の先に止まっており、ギュリと一緒に輸送される貢物を載せた荷台や護衛の騎馬が後ろに続く。

 兄の先導に従い、ギュリは背筋を伸ばしてゆっくりと迎えの馬車へと歩いた。


「遠いところへ行っても、達者でな」

「大帝様のもとで、お幸せに」


 見送る人々は皆、ギュリに別れの言葉をかけた。

 ギュリが犠妃として死ぬことを、わかっているのかどうか怪しい言葉もあった。


 ギュリはほとんど無意識のうちに、見送る人びとに何かを言って、微笑んだつもりの顔で進んだ。

 父に、弟妹に、友人に。あまりに大勢の人が目の前にいるので、目には映っても一人一人はよく見えなかった。自分がどんな言葉で一生の別れをすませているのかも、わからなかった。


(でもきっと、これくらいの雰囲気が私にはちょうどよいはず)


 かすかにだけ感じられる人々の親愛を、ギュリは受け取って返して、安心して通り過ぎていく。


 やがてギュリは広い農道に出て、立派な屋根と格子に覆われた、二頭立ての馬車の前に着いた。


 最後まで側にいた兄と別れれば、目の前にはあの金髪に浅黒い肌の搬贄官の男が立っている。


 男はギュリに近づくと花冠に触れ、化粧や衣服を隅々まで眺めた。


「これはこの地方の花嫁衣裳かな。君の奥ゆかしい美しさに、良く似合ってるよ」


 ギュリだけに向けられたその言葉は役人にしては甘く、まるで口説いているかのようにくだけていた。


「お褒めいただき、光栄に存じます」


 初対面の際に思ったより地味だと言われたことを思い出しながらも、ギュリは素直に微笑んでみせた。


 男は着飾らせれば化けるはずだという自分の見立てが正しかったことに、満足している様子だった。


「君が犠妃として捧げられる宴は、きっと素敵なものになるだろうね」


 選んだ果実の品質を確かめるようにそっと丁寧に、男は今度はギュリの髪を撫でた。

 男は嘘を嘘だと隠さず、優しくギュリを大切にするふりをする。嘘の裏の本心は、わからない。


 見送る人びとは何も言わずに、ギュリが供物として帝国の手に渡るのを拍手をして見ていた。


(何であれ、認めてもらえたなら良かったのかな)


 ギュリは男の態度は好きではなかったが、自分の立場は受け入れていた。


 改めて見ると搬贄官の男の瞳は夏の夜空のように深く紫がかった藍色で、ギュリは思わずその顔をじっと見つめた。

 この男の瞳はいったいどこまで自分に関わっているのだろうと、ふとした疑問がギュリの口をついてでる。


「その宴には、あなたもいらっしゃるんですか?」

「いや、宴に僕はいないね」


 ギュリが自発的に問いかけたことに意外そうな反応を見せて、男は説明を続けた。


「帝都の皇城では、一人の料理人が君を待っている。肉を割いて烹ることをもって飲食を奉上し、至高の神である大帝に仕える庖厨官という役職の男だよ」


 男が話しているのはどうやら、ギュリを殺して料理する役目を持った人物のことだった。

 ギュリの人生は近いうちに終わるのだが、その日を迎えるにはまだいくつかの出会いと段取りが必要であるらしい。


「皇城に到着した後は、その料理人の男が尊い食材として君の面倒を見る。だから僕が搬贄官として担当するのは、君を帝都に運ぶところまで。ある意味では君を迎えに来た今日が、一番重要な仕事かもね」


 自分が責任を持っている範囲を明らかにして、男は優しげにギュリに微笑んだ。


「私ごときに、恐れ多いことにございます」


 ギュリは袖を手重ねてお辞儀をして、男に再びお礼を言った。

 後宮で料理人に世話をされるという今後はあまり想像がつかなかったが、帝都に着けば搬贄官である男の役割が終わることはよくわかった。


 そして男は犠妃の少女を輸送するという自分の務めに従い、馬車の簾を上げてギュリを中へと手招きをする。


「皆との別れも済んだみたいだし、そろそろ馬車に乗ろうか」

「かしこまりました」


 ギュリは用意されていた踏み台を使って、馬車に乗り込んだ。


 男の手によって簾が下ろされると、ほどなくして馬車は動き出した。


 馬車は幾何学模様を作る形に組まれた格子がはめ込まれた小さな窓がついていたので、覗けば田畑や山々の風景が流れていくのをわずかに見ることができた。


 座席にはギュリに着せられた衣裳と同じくらいに立派な布地を使った座布団が敷かれ、強めの香によって馬の匂いは隠されている。

 けれども座ってみると、思っていたよりもずっと馬車の内側は狭くて天井も低かった。


(こうして運ばれていると、箱に梱包されてた物みたいだな。いや、みたいじゃくて、そうなのか)


 速度を上げていく馬車に揺られ、ギュリは酔わないように目を閉じた。

 上等な座布団がひいてあったとしても、揺れがまったくなくなるわけではない。


 着慣れない衣裳の息苦しさに馬車の狭さが加わり、ギュリは自分の身体が小さくなったかのような、奇妙な気分になった。


(後宮で私を待つ庖厨官が、私を殺して肉を割く。彼が料理を捧げる至高の神である大帝が、割かれた私の肉を食べる)


 ギュリは香の匂いのする空気を深く吸い込み、搬贄官の男がした説明を頭の中で繰り返した。

 整然と定められた帝国の規律と仕組みは、犠妃となった人間が置かれた血なまぐさい現実を覆い隠す。


 料理人が仕えているのは至高の神ということになっているが、人間を食べるくらいだからもしかすると化け物に近いのかもしれない。


 実際のところギュリはどのように死ぬのか。一人で想像したところで正解は見えず、ギュリがその答えを得るのは死後のことである。


 ギュリは空想が得意ではないし、好きではない。


 だが帝国への道のりは長く、狭い馬車に押し込められたギュリには時間が山ほどある。振り返るべき思い出も少ないギュリは、この先に待つものを考える他にすることがなかった。


 やがて空は西から雨雲に変わり、ざあざあと雨が降り始める。


 雨が農地に水たまりをつくっていくのを見て、衣裳が濡れなくて良かったとギュリは馬車の中で思った。

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