1‐9.選ばれた少女

「姉様、あの男の人は誰なの」

「帝国のお役人?」


 ギュリが男を屋敷に連れて帰ると、居てほしくないときにかぎって家にいる弟妹は珍しい雰囲気の来客に騒いだ。


「そう。あの人は帝国の偉い方だから、お前たちは川でお客様のために魚を獲ってきて」


 そう言ってギュリは、面倒な弟妹を外に遊びに行かせた。


 ギュリの父や兄は、慌てて客人を迎える用意をした。

 客間の役割もある書斎には普段は置いていない屏風や掛軸が飾られ、蓮の文様の入った膳は青茶の入った茶器が載せられる。

 茶の隣には、甘い餅をつつじの花や棗の実で飾った花煎ファジョンが添えられた。貧しい暮らしを送るこの村では食べる機会が少ない、非常に貴重な季節のお菓子だ。


 その膳をギュリが書斎に運ぶと、背もたれ付の座椅子に座った客人の男は、まったく遠慮をすることなくお茶を飲み、花煎を食べた。

 ギュリと、ギュリの父と兄は、向かいの下座に座って静かにお茶をすする。


 菓子と茶の味にそれなりに満足したようで、男はお茶を飲みながら三人に微笑んだ。


「白い餅に春の花の色がよく映える、素敵なおもてなしですね」

「あ、はい。気に入っていただけたのなら、幸いです」


 帝国の関係者らしいその男は、領主であるギュリの父親に対しては一応、ある程度の敬意を払って接していた。

 一方でギュリの父は可哀想なくらいに緊張していて、動きは硬く声も震えている。


 そのため父に比べればまだ余裕がある兄が、親に代わって社交辞令的な会話をこなした。


「そのお菓子は、我々の春の楽しみなんです。貴族の方々は、山で花の詩を詠みながら食べるんですよ」


 ギュリの兄が説明すると、男は面白そうにもう一度花煎を見た。


「なるほど。この国にも風雅な行事があるんですね」


 その言葉にはどこかギュリたちの国を馬鹿にした響きがあったが、そのことを指摘する人間はこの場にはいない。


(何にせよ、私としゃべってる時よりはちゃんとした話し方だな)


 ギュリは男の丁寧な言葉遣いを聞きながら、二人で裏山で話したときとの違いについて考えた。


 そうしていると、男はギュリの方を見てわざとらしく微笑んだ。

 彫りの深い容貌と相まってその笑みはとても魅力的だったので、ギュリは好ましくはなくとも感心はした。


 男は白磁の茶器の中身を飲み干すと、表情を少しだけ変えて今度は父親たちを見た。どうやら、やっと男が用件を明かすときが来たようだった。


 空になった茶器を膳に戻し、男はまずは自分の肩書について簡潔に話した。


「さて。僕は大嘉帝国の搬贄官はんしかんとして、大帝に捧げられる犠妃ぎひに選ばれた少女に下命を伝える使者の務めを果たすためにここに来ました」


 搬贄官という役職も、犠妃という役割も、どこかで聞いたことがある言葉だった。ギュリは記憶をたぐり寄せて、その男が語る意味について考える。


(犠妃って確かあの、帝国の大帝に食べられる生贄の?)


 ギュリの認識が正しければ犠妃は、帝国を統べる至高の神たる大帝に娶られた妃であると同時に、捧げられた供物でもある少女のことを指す。


 犠妃は帝国の支配下にある国々に住む少女の中から選ばれ、神聖な存在として帝都の後宮に送られる。そして犠妃の少女は後宮で最上の暮らしを得るが、宴の日を迎えたときにはその身体を大帝に食されて死ぬ運命が待っている。


 男の肩書である搬贄官は、その犠妃となる少女を選んで帝都に輸送したり、貢納する時期を管理したりする役を与えられた官吏だ。


「ということは、妹のギュリは……」


 父親よりも早く状況を理解した兄が、搬贄官の男の顔を見る。


 男は微笑み返して問いかけを遮り、ギュリの未来を告げた。


「チェ・ギュリ殿は幸運なことに、次の宴で捧げられる犠妃に任命されました。ギュリ殿は供物として屠られることで命を終え、その身は大帝に食されます。誠におめでとうございます」


 異国の言葉を朗らかに響かせ、搬贄官の男はギュリを祝福する。男ははっきりと、ギュリは大帝に捧げられる供物として殺されるのだと言った。


 男の声があまりにも明るいので、ギュリはすぐにはその現実が飲み込めない。

 しかし帝国が人間を牛や馬と同じように扱っていることはよくわかっているので、ギュリがいずれ大帝に食べられるという男の言葉を、冗談や比喩だとは思わなかった。


 喜ぶふりも悲しむふりも選べないままギュリが空の茶器を握りしめていると、まだ理解が追い付いていなさそうな父親がずれた調子で礼を言う。


「ありがとうございます。それはそれは、一族の身に余る、大変名誉なことでございます」


 その声が震えているのはおそらく緊張しているからでしかなく、何か思うところがあるようには見えない。


 ギュリの父の反応に含み笑うと、男はさらにギュリが犠妃となった後に与えられるであろう未来を説明した。


「得るのは、大帝に命を差し出す名誉だけじゃないですよ。犠妃に選ばれた娘のいる土地は徴税も何年か軽減されますし、家門は官吏の登用試験でも優遇されます。例えば兄君も、きっと次の科挙では官位を得ることができるでしょう」


 男は犠妃に選ばれた少女の家族が受ける恩恵について話しながら、ギュリの兄の方に視線を向けた。ギュリの兄が役人の登用試験に落第し続けていることを、男は知っているようだった。


「私も官職に就けるんですか? それは願ってもないことですが……」


 突然の出世の機会を提示された兄は一瞬嬉しそうな顔になったが、妹の生死がかかっていることを思い出して横目でギュリを見る。


 父はここまで話したところでやっと男の知らせがギュリの死につながるものであることを理解したらしく、遅れてぽかんとした表情になっている。


 そこで男は懐から巻子を取り出し、ギュリたちの目の前に広げて見せた。それは犠妃としてギュリを差し出すように命じる、帝国の正式な文書だった。


「何がなんでも強制する命令ではないですから、不都合があれば断ることも可能です。その場合は多少の金銭を納めれば、これまで通りの暮らしを送ることができます」


 男は広げた文書の要点を指で指し示しながら、ギュリたちに用意されているもう一つの選択肢について話す。


 文書の最後に捺印されているのは、確かに本物の帝国の官府の印章だった。ギュリは男が帝国の官吏であることを疑っていたわけではなかったが、印章を見ていよいよ自分は本当に彼らに選ばれたのだ実感した。


 ギュリの父親は、兄と一緒に娘の様子を伺いながら、男の説明に頷いた。


「なるほど、はい。犠妃になるかどうかは、我々で選べるということですね」

「左様です。嫌がるのをむりやり、ということは一応ありません」


 やわらかく相づちをうつと、搬贄官の男もまたギュリの反応を見た。

 異国の男が一体何を感じながら生贄として死ぬことを命じられた少女の顔を見るのかは、初対面のギュリにはわからない。


 だが自分の父親や兄が何を考えているのかは、身内なのでよくわかった。


 気が小さくて鈍感な父親は、とにかく帝国の役人との間に問題が起きないことだけを願っていて、自分の娘がどんな気持ちで生贄として死ねという命令を聞いているのかを慮る想像力に欠けている。


 常識人だが人に優しいわけではない兄は、妹の身を案じる素振りをしながらも、ギュリが犠妃として死ぬことと引き換えに何かしら自分が官位を得ることを期待していた。


 そして彼らの娘であり妹であるギュリは、絶対の支配者である帝国の命令に逆らってまで生きたいと思える何かを、特に持ち合わせてはいない。


「父様、兄様。私に異存はありません」


 自分に向けられた視線の意図を汲み、なおかつ自分に嘘をつくこともなく、ギュリは父親と兄に自分の立場を述べる。


「犠妃のお役目、ありがたく引き受けさせていただきます」


 ギュリは改めて搬贄官の男と膳を間に挟んで向き合うと、両手を重ねて深々と頭を下げて正式なお辞儀をした。


(人間いつかは死ぬんだから、私にとってはそれが今ってことだよね)


 十七年という寿命を、ギュリはそれほど短いものだとは思ってはいない。


 大帝に供物として捧げられて死ぬ運命はおそらく、そう大勢の人間が迎えるものではないだろう。

 だが元々この灑国の民は皆家畜と同じように帝国に人生を管理されているのだと考えれば、ギュリに待つ未来は特別ではなかった。


 帝国は他国を侵略し、征服して、支配し続けている。その過程に取り込まれた灑国の民はしばしば奴婢として帝国に差し出され、故郷に戻ることなく命を落とす。男子は戦場で捨て駒にされて、女子は片隅で虐げられる。


 この国にはかけがえのない人間はおらず、命は全て替えのきくものとして存在する。

 見知らぬ誰かの所有物として死ぬのは、帝国の支配下に生まれた者にはよくあることなのだ。


「では今日からあなたは、至高の神たる大帝に捧げられる神聖な供物です。今から正式な手続きを行い迎えを呼びますから、出立はおそらくひと月ほど後になるでしょう」


 うやうやしくお辞儀をするギュリに、搬贄官の男は今後の予定を伝えた。異国の男のまなざしは、憐みもなくギュリを捉えている。


 父や兄は不安げな表情をしつつも、とりあえずはほっとした顔で息をついていた。

 この家にはギュリの他にも幼い弟や妹がたくさんいるから、一人減ったくらいでは困らないだろうとギュリは思う。


 ギュリはないがしろにされているわけではないが、特別愛されているわけでもなかった。

 人間死ぬしかないのなら、死ぬのが怖くないほどにしか情を与えられていないのは、むしろ幸せなことだとギュリは思う。


 死にたい理由もないが生きたい理由もないギュリは、ただ与えられた命令に従って、犠妃として死ぬことを受け入れた。

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