1‐8.帝国の使者

 数日後の昼過ぎも、ギュリは草木染めの準備のため外にいた。煮出して使う梅の枝を集めて、ギュリはかごを背負って裏山を草鞋で歩く。


 つつじの濃い桃色の花が鮮やかな山の景色は、春の盛りを感じさせていた。

 裏山は領地を見下ろせる場所に位置するので、開けた場所からは田畑で働く村民の姿がぽつりぽつりと見えていた。


(花が咲いていても、人は働き続けなきゃいけないからね)


 美しい眺めは多少の心の安らぎにはなるけれども、冬から春になっても元々の暮らしが貧しいことには変わりがない。


 ため息をつき、枝を入れた籠を背負う。

 そして来た道を戻ろうとしたそのとき、ギュリは背後に草木を踏みしめる音を聞いた。


(私以外の誰かも、山に入っていたんだろうか)


 この裏山には虎や猪などの獣が住んでいないことを知っているので、ギュリは大した緊張感もなく振り向いた。しかしギュリの目に入ったのは、想定していた知り合いの村民の姿ではなかった。


 背後を見れば、何歩か離れたところに一人の若い男が立っている。


 男は非常に立派な鷹の刺繍が施された胡服を着いたので、帝国の関係者であることは一目でわかった。鷹は帝国の象徴だ。

 だがその顔は大嘉帝国の支配者である荒野の牧畜の民とも、灑国に住む農耕の民とも違う彫りの深さがあった。そして後ろで束ねられた男の髪は陽の光に輝く金色で、肌は見慣れぬ具合に浅黒い。


「君は僕たちの言葉がわかる? それとも、この国の言葉で話しかけたほうがいいのかな」


 男は帝国と灑国の二つの言語を使って、ギュリに呼びかけた。身分が高そうな服を着ているわりには、くだけた言葉遣いだった。


 突然のことにお辞儀をするのも忘れて、ギュリは帝国の言葉で受け答えた。


「少しは、話せます」

「言葉が通じるなら、助かるよ。僕はこの国の言葉が苦手だからね」


 男はほっとした表情で微笑みながら、ギュリの方へと歩み寄った。男の使う帝国の言葉は、ギュリが今まで聞いてきた獣の唸り声に似たものとは違って、明るく透明な響きを持っている。


 そして男はギュリの目の前で立ち止まると、ギュリにもう一つの質問をした。


「チェ・ギュリって名前の女の子のことを、君は聞いたことがあるかな」


 どうやら胡服の男は、何かしらの理由でギュリのことを探しているようだった。

 しかし、もしかすると人違いということもあるかもしれないので、ギュリは慎重な言い回しをした。


「チェ・ギョングの娘のチェ・ギュリのことを言っているのなら、それはおそらく私です」


 ギュリが父の名前も並べて名乗り出ると、男は意外そうな反応をした。


「ふうん、君が」


 男は腕を伸ばし、ギュリのあごに指でふれて持ち上げた。

 村には長身のギュリを見下ろすことができる者はいないが、この異国の男はギュリが顔を上げなければ目線を合わせられないほどには背が高かった。


「評判に聞いていたよりは、地味な子かな。でもちゃんと着飾らせれば、化けそうではある」


 男は値踏みをするように観察し、指でギュリのくちびるをなぞった。男の指は冷たくて、案外細い。

 小国の辺境に住んでいるギュリのことを男が知っているのは、帝国の戸籍管理が厳格であるおかげだと思われた。


(貶しているのか褒めているのかわからないけど、この人はいったい何なんだろう)


 ギュリは男を信用できなかったし、気安く触ってくる点にも好感を持てなかった。

 だがギュリは戦争に敗け帝国に征服された灑国の民であるので、帝国の高官の服を着た男には従うほかはない。


 男はギュリを誰かの愛人か何かにしようとしているのかもしれなかったが、それにしても男の態度は不可解だった。


「よし。じゃ、合格でいいね」


 男は男なりの結論を下すと、さっさとギュリから手を離した。


「人に話を聞くのも面倒だったから、ここで会えてちょうど良かったよ。ちょっと向こうに繋いだ馬を連れてくるから、ついでに君の屋敷に案内してくれる?」


 背後の木々のむこうを指さし、男はギュリに今度は質問ではなく要望を言った。


「はい。承知いたしました」


 ギュリは従順に頷き、頭を深々と下げた。


 男は目的を説明しなかったが、身分をわきまえたギュリは何も尋ねなかった。

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