1‐5.冬の炎

 帝国の行政官は、ご馳走を平らげ、貢物を馬車に乗せて去っていった。


 数年に一度の重大な行事を終えた土地の人々は、粛々と日々の日常に戻る。


 農閑期の冬にも必要な農事はいくつかあり、そのうちの一つが田畑の耕作だ。

 畑の土を耕し寒風にさらすことで害虫を殺し、雑草の根を枯らす。そして繰り返し霜が降り、溶けて乾くことで、やわらかく水はけの良い土が出来上がるのだ。


 だからギュリとヨンウォルが世話をしている二頭の牛は、ここのところは毎日田畑で使われていた。

 太陽が冬の空気をかすかに暖める晴天の空の下、百姓に手綱を引っ張られた牛が、馬鍬を牽いて畑を歩いて行く。


 ギュリはその様子を、叔母たちと川で洗濯を済ませて家に戻る道すがらに見た。


(あ、ヨンウォルだ)


 朝に牛舎で別れたヨンウォルが、牛の胴体についた土をぬぐっているのを、ギュリは川沿いの道から見つける。


 牛とヨンウォルはどちらもとてもやせていて、そしてよく働いていた。


 離れた場所にいるヨンウォルの顔は見えなかったが、きっとそれは優しい表情で牛の側にいるのだろうとギュリは思った。



 ヨンウォルが特に可愛がっていた方の小柄な牛が病にかかったとわかったのは、それから数日後のことだった。落ち着かない様子でいる牛のお腹が鼓のように膨らんでいることに、ヨンウォルが気付いたのだ。


 薄暗い牛舎の中でヨンウォルが心配そうに牛に駆け寄り、ギュリも一緒に様子を伺う。


 病にかかった牛の呼吸は荒く、弱々しい調子でよく鳴いていた。赤茶色の毛並みに覆われた胴体に触れてみると、鼓動が早まっているのがわかる。


「大丈夫だよ。きっとなおしてもらえるから」


 ヨンウォルはそう自分に言い聞かせるようにして、牛の背中をさすっていた。


 しかし呼ばれて牛の様子を見に来たギュリの父親は、一瞥しただけで静かに言った。


曖気げっぷができなくなって、胃が膨らんだんだな。こういう病は急に進むから、気づいたときには手遅れだ」


 父親の言葉の通り、牛の病は刻一刻と悪くなっているようだった。牛は立つのも辛そうな様子で、時折何かを吐きたそうに震えていた。


「じゃあもうこの牛は、死なせてあげるんだね」

「残念ながら、そうなるな」


 淡々とギュリが尋ねると、父親も言葉少なく答える。

 牛舎の隅に座り込んだヨンウォルは、深々とギュリの父親に頭を下げた。


「もうしわけありません。たいせつな牛を病気にしてしまって」


 人一倍牛に優しく接していたヨンウォルは今にも泣き出しそうな顔をしていたが、まず言葉にしたのは使用人としての謝罪だった。

 ギュリの父親は病の原因がヨンウォルとギュリの世話にあるとは考えていないようで、二人を責めることはしなかった。


「確かに思ったよりは早かったが、家畜は働いて死ぬものだからなあ。最後はこんなところだ」


 そう言い残すと、ギュリの父親は念のため他の人にも意見を聞くために牛舎を出て行った。


 ギュリの父親がいなくなってやっと、ヨンウォルは声を上げて泣き出した。


 牛の横でうずくまって泣いているヨンウォルと違って、ギュリの心は冷めている。


 ヨンウォルは病にかかった牛が生まれたばかりのころから弟か何かのように可愛がっていたから、死なせてしまうことが辛いのかもしれない。だけどギュリの方は特に思い入れがないので、その牛が死ぬことになったところで涙は流れなかった。


(でもわたしは、泣いてるヨンウォルもすき)


 病にかかった牛の苦しげな呼吸と、ヨンウォルのしゃくりあげて泣く声を聞きながら、ギュリは手を後ろで組んだ。隣にいるもう一頭の牛は、いつも通りに干し草を食んでいた。


 こうしてその日のうちに、「最後はこんなところ」と言われた一頭の家畜の牛の一生が終わった。大人たちは牛の喉を切って殺すことを決めたけれども、準備が済んだときにはもう息を引き取っていたとギュリは聞いた。


 病で死んだ牛だったので、残った死体は村の外れで燃やされた。


 炎は日が暮れても燃えていて、夕闇に赤々とちらつく火の明かりは遠くからでもよく見えた。


 昨日まで自分たちが世話をしていた牛を燃やす火を、ギュリとヨンウォルは夜の野原に腰を下ろして眺めていた。

 月もない夜の空は暗く、風も寒くて夜露に濡れた草も冷たかった。だけどギュリはヨンウォルを一人にしたくはなくて、三つ編みをいじりながら傍らにいた。


「はたらいて、死んで、それ以外はきっと何もないんだろうね」


 ヨンウォルはそう消え入りそうな声で呟いて、まるで身体以外何も持っていないかのように、膝を抱えて座っていた。


「また、泣きたくなったの?」

「ううん、もうだいじょうぶだよ」


 何かヨンウォルにしてあげてみたい気持ちで、ギュリはヨンウォルの顔を覗き込んだ。ヨンウォルの目は赤く、頬には涙の跡があった。


 ヨンウォルの身体は、夜の闇に溶けてしまいそうなくらいに小さくて、細い。

 だけど泣きやんだヨンウォルはまた、ギュリよりも大人みたいな顔をしていた。


「ギュリは、ぼくが死んだら泣いてくれるのかな」


 牛の死にギュリが泣いていないことをなじるような口ぶりで、ヨンウォルは静かに問いかけた。


 妙に大人びた態度をヨンウォルがとるので、ギュリもできる限り背伸びをしてみることにした。

 ギュリはヨンウォルの細い手首を掴み、そのまま抱きしめて地面に倒れ込んだ。そしてヨンウォルの薄い背中を抱き止めて、その耳元にギュリはささやく。


「だってヨンウォルは、人間でしょ」


 ぱさぱさした髪に、やせて余計に目立っている大きな目。ギュリはすぐ近くから、見慣れたヨンウォルの顔をじっと見る。腕の中のヨンウォルの身体は軽すぎて、ギュリは少し不安になった。


 ヨンウォルは何も言わなかった。ヨンウォルは返事の代わりに、ギュリと向かい合う形に寝転がって、口に軽くくちづけをした。


 食べ物を一緒に食べたり、手をつないだりしたことはあったけれども、くちづけをしたのは初めてである。

 だけどそれは相づちと同じくらいに、ほんのかすかにふれるだけのものだった。


(もしかしたら、ヨンウォルは牛が死んだのが悲しくて泣いてたわけじゃないのかも)


 ギュリはわからないなりに、ヨンウォルのことを考えた。


 衣越しに感じるヨンウォルの体温は温かく、身体を預けた地面は冷たく濡れている。


 ヨンウォルと身体を重ねながらギュリは、土の匂いを吸い込み、赤く燃える炎の光も届かない暗い天頂を見上げていた。

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