第612話 寧々さん、政元様と隠居を相談する
天正10年(1582年)7月中旬 武蔵国江戸城 寧々
伏見を発った後、清洲に立ち寄って長富丸と伏の顔を見てから迎えの船に乗ったわたしたちは、特に大きな問題も起きずに江戸に到着。新次郎らに迎えられて、城に戻った。
だが……こうして、1升までという厳しい割り当ての下で出されるお酒をちびちび飲みながらも頭の中に浮かぶのは、忠元がやらかしやしないかという心配ばかりだ。もちろん、あの子の才能は認めるけど、信長様を甘く見ては恐ろしい事になるような気がしてならない。
「おやおや、寧々様が真面目に1升でお止めになるとは……」
「天変地異の前触れでなければよろしいのですが……?」
「いや、行きの船で船に積んでいた酒を全部飲み干して、その後寝込まれたらしいから、流石に反省されたのでは……?」
考え事をしている間に、あちらこちらで好き勝手な事を言っているのは聞こえてきたが、相手にする気になれない程、わたしの悩みは深い。
だから、酒宴が終わった後、二人っきりになった所で政元様に相談することにした。前に三左殿から提案を受けた通り、隠居して伏見に移ってはどうかと。
「隠居……か」
「さすれば、忠元が何か恐ろしい事をやろうとしても止められるでしょ?孫たちにもいつでも会いに行けるし、ねえ……そうしません?」
孫をあれほど可愛がられていた政元様だし、容易く頷くとわたしは思った。しかし、政元様は頷かれなかった。
「寧々、おまえが忠元の事を心配している気持ちはよくわかる。わかるが……それでは同じことの繰り返しになると思う」
「同じことの……繰り返し?」
政元様の口から吐き出される考え抜かれた結論のような重みのある言葉に、わたしはその意味がすぐに理解できずに、どういう事なのかを訊ねた。すると、「おまえの影響力をよく考えろ」と言われた。
「影響力……?」
「上様や大樹様だけでなく、朝廷、3つの副将軍家やその他諸大名、柴田殿を始めとする織田家の重臣方に顔が利くそなたを……幕臣たちは警戒したからこそ、我が家はこの関東に来ることになった。違うか?」
「それは……違いません。誠に申し訳なく思っております」
わたしがあちらこちらで出しゃばり過ぎたから、我が家はこの関東に左遷されたのだ。もちろん、その事はわかっている。皆は気にするなと言ってくれるけど、心の底から反省している。
だが、政元様はその上で「謝らなくていいから、その事をもう一度考えよ」と言われた。隠居して伏見に行って同じようにあれこれやっていたら、また煙たがられるのではないかと……。
「しかし、此度は新五郎殿を味方にしておりますが……」
「新五郎殿とて、おまえが関東に居てこれ以上の口出しをしないと思っているからこそ、味方してくれるのだ。それなのに、またしゃしゃり出れば、機嫌を損なうのではないか?」
「それは……」
う~ん、そう言われてみれば、確かにそう思わないでもない。なるほど、同じことの繰り返しとは、そういうことか。
「でも、だからといって……それなら忠元は放っておくという事ですか?」
「致し方あるまい。すでに独立した息子だ。いつまでも親があれこれと口出しするものではなかろう。それに……」
「それに?」
「上様がそんなに甘いお方だとはおまえも思っていないから、そのように心配しているのだろう?」
「え、ええ……あの子がこのままだと酷い目に遭うのではないかと……」
わたしは、今世だけでなく前世でも信長様を知っているのだ。味方には甘い所があるけど、あの人は一度敵対した相手には容赦しない。それゆえに、忠元が逆心を抱いて、それが上手く行かなかった場合に、どうなるのかが想像がついて心配になるのだ……。
「だからこそ、上様の事だから忠元が謀反に及ばないように手を打たれるのではないかな?そして、忠元も馬鹿ではないから、少なくとも上様が御存命の間は大人しくしているはずだ」
「つまり……もし、忠元が不穏な動きをするにしても、ずっと先という事?」
「そうなるな。だから、隠居して上方に行って止めるにしても、その時で良いと思う。今は、この関東で大人しくしている事こそが我らの取るべき最善の道だろう」
その言葉に反論する道が見えず、わたしは不安を感じながらも頷き、受け入れるしかなかった。しかし、信長様が御存命の間か……。
本能寺でお亡くなりになられなかった以上、どこまで御健在であらせられるのやら……。
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