第609話 忠元は、裏で野心を隠さない

天正10年(1582年)6月中旬 山城国伏見 斯波忠元


父上と母上がお帰りになられた後、空いた席の敷物を見つめながら、ついため息が零れる。俺は今日、親不孝な事にとても大きな嘘を吐いた。口先では大樹様を支えると申したが……そんなつもりは全くなかったのだった。


「殿、皆がお待ちになっておられます」


「わかった。すぐに参る」


そして、喜太兄ぃが呼びに来たので俺は未練を断ち切るかのように席を立ち、別の広間へ向かう。そこには、斎藤新五郎と共に謹慎を解かれた姉小路侍従、吉法師様の乳母を務める京極殿(竜子)、公家や寺社と強い繋がりを持つ前田玄以殿、さらには四郎様と共に関東に向かう長谷川藤五郎殿といった面々が待っていた。


これに喜太兄ぃと喜兵衛が加われば……俺と天下獲りの志を共にする仲間たちが勢ぞろいだ。


「それで、武衛様。御母君は何と?」


「やはり、簒奪をするのかと訊ねられたよ、姉小路殿」


「それはそれは……予想通りでしたな。それで、何とお答えに?」


「もちろん、そんなつもりはないと。嘘を吐くのは心苦しかったけどね……」


父上と母上がこの伏見で待ち構えていることは、四郎様と行動を共にしている長谷川殿から密書を貰って知っていた。


その父上と母上が、俺に天下を簒奪する野心があるのではないかと疑い、またそのような事を望んでいない事は、伏見城であった大樹様との会談内容を京極殿が聞きだしてくれたおかげで知ることができた。


もし、これらの情報を知らなければ、今日の面会時にきっと隙を見せてしまい、そこを母上に突かれて……俺の野望は食い破られて霧散していたに違いない。それゆえに、この二人の協力に感謝した。「ありがとう」とそう述べて……。


「べ、別に!あ、あんたの為なんかじゃないんだからね!勘違いしないでよね!」


静かに頷くだけの長谷川殿に対して、このように可愛らしい反応を見せる京極殿は、そんな事を言いながらも、俺を愛してくれて……男の子を密かに産んでくれている。父親の高吉公が浅井家に捨てられて苦労されたので、初対面の時は必ずしも俺に対して友好的ではなかったのだが……わからないものだ。


ちなみに、竜子はあくまで名目上ではあるが、喜太兄ぃの側室だ。そのため、生まれた子は表向きの話として、喜太兄ぃの子という事にしてある。


但し、成人した暁には京極家の当主として、それなりの大名にすると竜子には約束している。その為にも、俺はやはり天下を獲らなければならない。


「しかし、お母上が反対となれば……武衛様が織田家の天下を簒奪しても、朝廷の支持を受けることは叶いますまい。その辺りは如何されますかな?」


「そうだな。何しろ、母上は『主上の御心』。されど……それはあくまで、今の主上の話。玄以殿、東宮様の御代になられたら、果たしてどうなるのかな?」


東宮・誠仁親王様は、伝え聞くところによると……母上が主上の名を借りて好き勝手やっていることに、あまり好意的ではないらしい。この辺りは、周りにいる関白の九条卿たちが色々と吹き込んでいるのだろう。そして、主上は御年66歳だ……。


「つまり、時機を待つという事ですかな?」


「それまでに少しずつ段取りは進めていくけど、そうなるのかな。まあ……その方が母上にバレずに済むかもしれないし、悪い事ではないはずだ」


ご意向に従うことはできないけれど、なるべくならば、対立するような関係にはなりたくはなかった。未練かもしれないけど、時間が必要だという事でどこかホッとしている……。


「ただ、母上の事だから、またどこで首を突っ込まれて、こちらの動きに気づかれぬとは限らない。長谷川殿……関東に行かれたら、逐一我らに報告をお願いする」


「承知いたしました」


これよりこの伏見に留まり幕政に参画する日が増えるため、関東はさらに遠くなるだろう。古河に四郎様を置かれた上様の真意はわからないが、我らにとっては好都合であったのだ。母上の動きを監視する目を近くに置けたのだから……。

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