第608話 寧々さん、忠元に真意を問う
天正10年(1582年)6月中旬 山城国伏見 寧々
伏見にようやく忠元が戻ってきたと聞いて、わたしと政元様は慶次郎らを伴い、武衛屋敷に乗り込んだ。
「これは……管領様にお方様……」
玄関先に現れて出迎えたのは、武藤喜兵衛だ。息子たちは借金の証文付きで帰していたから、すでに何があったのかは知っているはず。だから、単刀直入でわたしは言った。「忠元に会わせなさい」……と。
「承知いたしました。どうぞ、こちらへ……」
そして、わたしの読みは当たったようで、喜兵衛は慌てることなく、忠元の居る広間まで先導した。広間には、忠元が一人だけ座って待っていた。
「父上、母上、ご無沙汰しております。ささ、どうぞお座りください」
見れば、忠元の対面に敷物が2枚敷かれていて、ここまで案内してきた喜兵衛は下がって行く。だから、親子水入らずによる話し合いを所望していると考えて、わたしも慶次郎たちにこの場は下がるように命じた。
「さて、大体の事は聞き及んでいるとは思うが、新五郎はそなたの目論見通りとはいかず生きておるぞ」
「どうやら、そのようですね。源三郎と源次郎から話は聞きました」
政元様からの言葉に、忠元はそう答えたが……その顔には残念そうにする素振りは見えなかった。だから、わたしは疑問に思って訊ねてみた。失敗しても悔しくないのなら、なぜこのような事を企てたのかと。
「決まっているではありませんか。母上のご無念を晴らすためですよ。そして……その母上がお望みではなかったと知った以上は、むしろ失敗してよかったと思っております」
だが、「心中をお察しする事ができず、余計な真似をしてすみませんでした」……そう続けて謝る忠元に、わたしは何か薄ら寒い感覚を覚えた。
「忠元……あんた、一体何を考えているの?」
「別に何も……」
「嘘おっしゃい!諱を『忠達』にしたいなどと言ったことといい、もしや……三国志の司馬仲達みたいに、簒奪を企んでいるの!?」
考えたくはないけど、もしそうなら……わたしたちの考えとは相容れない。場合によっては、冗談抜きにして『主上の御心』を使ってでも、止めなければならないだろう。
しかし、忠元は笑ってこれを否定した。それは考え過ぎだと。
「確かに、一時はそんな事も考えましたかな?『狡兎死して走狗烹らる』という故事がありますからね。粛清される前にいっその事と。ですが……」
それはあくまで、幕府が敵対的な態度を続ける恐れがあったからだと忠元は言った。そして、新五郎が味方に付き、自分が幕府の重臣に列することが決まった以上は、そんな事を考えずに義兄である信忠様を支えるつもりだと続けた。
「それじゃ……もう変な事は考えていないのね?」
「ええ、そのとおりですよ。その証として、諱を変えるのも止めにします。これなら、少しはご安心頂けるでしょう?」
それでも何かが引っ掛かるような気がするが……諱を変える事を止めると言われて、政元様が嬉しそうにされているので、水を差すのは気が引けた。
まあ……もし、本当にまたよからぬ事をやろうとしたら止めたらいいのだ。そう思って、この話はこれまでとした。
「ところで……清洲から知らせが言っていると思うのだけど……」
「清洲から?はて、何のことでしょう」
「何の事って、子が生まれた話……聞いていないの?実は、双子だったって……」
「えっ!?」
おや?どうやら行き違いがあったのか、本当に聞いていなかったようだ。ゆえに、わたしは清洲で起きていたことを説明した。もし孫八郎が心配していたように、長富丸が忌み子と呼ばれるのを嫌うのであれば、わたしたちが引き取るとも。
「いやいや、母上!それはないでしょう!」
「そう?それなら、自分の娘として育てるのね?」
「当然です!」
そして、忠元はまだ見ぬ娘に、「伏」と名付けた。由来は、この伏見の地名であり、今日の事を忘れぬ意味も込めていると言った。それが本心であるかは……今のわたしにはわかるはずもない。
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