第606話 寧々さん、大樹様を訪ねる

天正10年(1582年)6月上旬 山城国伏見城 寧々


外峯ら、林の旧臣たちを町奉行所に引き渡した後、わたしと政元様は伏見城の信忠様の元を訪ねた。なお、四郎様は「約束したから」と言って、事の顛末を安土におられる信長様に直接伝えると言われて、別行動をとられている。


まあ……信長様の事だから、たぶん全部ご存じだとは思うけど、これも四郎様の経験になると思えば、無駄ではないはずだ。伏見での用事が片付いたら安土に迎えに行くことを約束して、わたしたちも送り出した。


「関東管領殿も寧々殿も、ご無沙汰しておりましたな」


「こちらこそ。大樹様には御嫡男が誕生されたと伺いました。遅れましたが、お喜び申し上げます」


ただ、そう口上を申し上げている政元様の表情は非常に硬い。いや……どちらかといえば、怒りを抑えているようにも見える。おそらく、希莉を吉法師様の許嫁にされたことをまだ根に持っているのだろう。だからわたしは、そんな政元様のお尻を叩いてやることにした。


「いて!な、なにするんだ……寧々!」


「何するんだじゃないわよね?わたしたちがここに来たのは何のため?不幸にしてできた蟠りを解くためよね?それなのに、新たな遺恨を作ろうとは……何を考えているのよ!」


そんなわたしたちのやり取りに信忠様はお笑いになられたが、世情を考えたら全然笑えないのだ。今の豊臣家と幕府の関係は……。


それゆえに、わたしはここで信忠様を支える事をこの場で明言した。御父君である信長様と同様に今後も織田幕府に忠誠を誓い、惜しむことなく天下泰平の実現のために協力することを。


「わかりました。そもそも、某は寧々殿に恩こそあれ、恨みに思う事などございませんでしたから、異論はございません」


そして、信忠様もこの申し出を受け入れられて、必ず我らの想いに報いるとも誓われる。その一つが……忠元の処遇だ。


「武衛には帰還してから正式に命じるつもりでしたが、我が治世を支える重臣の一人として幕閣に加わって欲しいと思っています」


これは信長様の承諾を得ているらしいが、九州平定後に信忠様の治世を支えるために、5名か6名ほどの重臣に任命することになっているらしく、忠元は確実にその中に入るとわたしたちは説明を受けた。


ただ……これに対して、わたしは懸念を抱いている。それは、同じような事を前世で藤吉郎さがやったけど、機能しなかったという事だ。そして、何となくだが……今の忠元が大人しくその枠の中で収まるとは思えなかった。


だから……わたしは願う。その重臣の中には、忠元を抑える事ができる大物を加えてもらいたいと。


「なるほど……お気持ちは理解しました。それで、寧々殿はどなたが望ましいと思われますか?」


「羽柴筑前守殿を……」


毒には毒で制するしかない。忠元が天下に野心を抱くのなら、それ以上の野心家である藤吉郎殿を対抗馬に宛てて相殺するのが望ましいと考えて、わたしは信忠様に提案した。


しかし……これには、難色を示された。


「ダメですか?」


「筑前は出自がマズいかと。寧々殿のお気持ちは理解しますが、そのような人事を行えば、家臣の多くが不満を抱くでしょうな」


まあ、確かに藤吉郎殿は百姓上がりだから、大領を治める大名になっただけでも、幕臣たちの不満は高い事はよくわかる。第一、それは前世でわたし自身が側にいて経験しているから知っているが……信忠様はこうしてわたしの提案を却下なされた。


それならば、この件でわたしの方からいう事はもう何もない。あと、できることがあるとすれば、忠元に直接言い聞かせる事くらいだ。


「九州も片付いたという知らせもありましたゆえ、そう遠からず武衛もこの都に戻ってきましょう」


言った所で果たしてわたしの言う事を聞いてくれるかはわからないけど、これも親としての責務だ。疎遠になった幕臣たちとの関係改善を図りつつ、この伏見に暫し滞在して、忠元を待つことにするのだった。

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