第601話 新五郎は、襲撃に備える
天正10年(1582年)5月下旬 山城国伏見 斎藤利治
九州の状勢は、謹慎中とはいっても自然と耳に入るもので、一時の劣勢を挽回してあと少しという所まで来ている事は知っていた。されど、このいくさが終わって、恩赦を受けるまで……それまで我が命があるのかは、わからない。
「父上……無念でございます。新選組の応援はかないませんでした。伏見は主上のおわす京の外だと申されまして……」
「そうか」
すでにこの屋敷がそう遠くないうちに、林大和守の旧臣たちに襲撃を受ける噂は俺の耳にも入っていた。しかし、幕府は守ってくれようとはしてくれなかった。何でも、噂に過ぎぬ話で俺を守るために兵を過剰に動かしては、別の噂話を認めるようなものだとして……。
「ああ、それにしても忌々しいですな!この『大樹様の衆道政治—新五郎ちゃんは、夜な夜な枕元でおねだりをする』という、不埒な薄い本は!」
別に表題まで読めとは言っていないのだが……倅の進五(義興)が顔を真っ赤にして憤っているとおり、以前からこの伏見では俺が大樹様とそのような関係になり、政を私物化していたという噂が広まっているのだ。
ちなみに、この本の出元は越前浅井家だ。昨年の若狭浅井家が関東に左遷されたことに対する意趣返しであることは明白なので、焚書にして作者の友松尼なる者を処刑したいところだ。無論、浅井家にも相応の処罰を加えた上で。今度は、九州薩摩に飛ばしてもいいのかもしれない。
しかし、お市様……さらには、帰蝶の姉上が後ろ盾になられては、現実的な問題として手出しすることは不可能だ。何しろ、最大の被害者である上様でもかなわないと諦められて、現状を受け入れるしかないとも聞いている。悔しいが、俺如きではどうしようもないという事だ……。
はあ、ため息が自然と零れた。
「しかし、新選組に断られたとなれば……我らの手勢で返り討ちにするしか道はないか。進五、この屋敷にはどれほどの侍が残っている?」
「今の時点では、30名余りですね。しかも、その多くは文官ですから、どこまで役に立つのかは……」
「ならば、銭を使って浪人たちを集めよ。謀反を疑われるかもしれぬが……背に腹は代えられぬわ」
「父上!?」
進五は謀反を疑われるのは避けるべきだと申して、どうやら反対のようだが……先に我らを見限ったのは幕府の方である。おそらく、幕臣共の中にこの機に俺を追い落とそうと考えている者どもがいるからだろうが、ならばお手向かいするだけだ。座して死を待つつもりはない。
だから、すぐに長沼三徳斎を召し出した。
「殿、お呼びで」
「今、この屋敷にある金目になりそうな物を全部売り払い、その金で浪人たちを集めるだけ集めよ。林の残党共を迎え撃つぞ!」
「承知いたしました。それでは、早速出入りしている商人を呼びましょう」
「頼んだぞ」
なおも進五は俺を止めようとするが、俺の決意は固まっている。ゆえに、この進五にはこの屋敷から出ていくように命じた。
「父上……!」
「父親のいう事に従えぬのだから、仕方あるまい。この屋敷からさっさと出ていけ!よいな!!」
少し心が痛みもするが、覚悟を決めた以上はこれでよいと念じて、まだ居座ろうとする進五を家臣に命じて屋敷から追い出した。何も俺と一緒に死ぬ必要はないのだ。生きて、我が家を再興してもらいたいと願う。
「殿……隣の北畠様ですが……」
進五が去り、静かになった所で、今度は家老の西村次郎兵衛が現れた。俺に告げるのは、「北畠様は、6月1日から丹波に向かわれて留守にされるようです」という話だ。それはつまり……襲撃が早ければ、その日の深夜以降に行われることを意味している。
「今の話を三徳斎に伝えよ」
「はっ!」
今日が25日だから、もう日はあまり残っていない。果たして間に合うかはわからないが、やれるだけの事はしようと思う。それでダメなら……その時は覚悟を決めるだけだ。
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