第597話 寧々さん、美作で隠居を勧められる

天正10年(1582年)5月上旬 美作国津山城 寧々


勝蔵君は忠元に従って九州に行っているらしく留守だが、わたしとしては希莉と勝千代が居れば、何も文句はない。


「ばあば!いらっしゃい!」


わたしが着いたと誰かから聞いたのだろう。案内に従い、玄関から上がるや否や、希莉は廊下の向こうからパタパタ走ってきて、そのまま小さな手でぎゅっとわたしの膝を抱きしめてくれた。ああ、何と愛おしい事か。優しく抱き上げて、頬擦りもした。幸せだ……。


「なあ、寧々……俺にも希莉を……」


しかし、何てことでしょう!そんなわたしの大事な希莉を奪い取ろうと、政元様が手を伸ばしてきたではありませんか。


パシっ!


「痛いっ!」


だから、わたしはその手を叩いて「ダメです」と答える。


「そんな……ちょっと、そう、ちょっと位はいいだろ?希莉も、じいじの所に来たいよな?」


「そんな事はないわよね?希莉。ばあばと一緒にいる方がいいわよね?」


清洲ではお酒の臭いがどうのとか言って、長富丸を中々抱かしてくれなかったのだから、今日は譲るつもりはない。あの時は調子に乗って悪かったと今更になって謝ってきたけど、許してあげない。


すると、そこに莉々が現れた。腕には赤子を抱いているので、その子が勝千代なのだろうが……後ろには森三左殿とえい殿もいた。


「もう……二人揃って何やっているのよ。恥ずかしい……」


真にご尤もなことだ。顔を真っ赤にして怒る莉々に、わたしも政元様も我が身を振り返り素直に謝った。どうやら、少しはしゃぎ過ぎていたようだ。


「まあ、我々は毎日会えますが、管領様も寧々様も久方ぶりの再会ですからね。わかっております。わかっておりますから、どうか謝罪はもうその辺で……」


「すみません、三左殿……」


「本当にお恥ずかしい所をお見せしました……」


そして、謝っている間に希莉はわたしの元からえい殿の下へ行っていた。寂しいような気がしたが、三左殿から少し話があると言われて、わたしと政元様は莉々たちと別れて一先ず別室に入った。


「それで……どうかなされたのですか?お話とは……」


「この機会にお二人のご本心を伺いたく……」


「本心?」


一体何のことかと思っていると、三左殿はわたしたちに訊ねた。関東への左遷を不服として、幕府打倒の兵を挙げるつもりがあるのかと。


もちろん、そんなつもりなど毛頭ないが、わたしが答える前に政元様が三左殿に訊ね返された。「もし、有ると答えたら、三左殿は如何なさるおつもりか?」……などと言って、挑発するように。


(さて、どうお答えになられるのでしょう……)


勝蔵君ならきっと、「それなら最後までお供します!」……と言いそうだ。いや、寧ろ謀反を起こすことを勧めてくるかもしれない。


だけど、三左殿は違った。


「決まっておりまする。もし、そのようなお考えならば、全力でお止め致す所存。某は、上様の下で折角平和の世が築かれようとしているのに、これを壊されて希莉や勝千代が悲しい戦乱の世で生きるのを見たくはないのですよ」


満点回答だ。わたしにとっては、天下など元より必要ないし、そんな事よりもこの国が平穏を取り戻して、希莉や勝千代が笑顔で毎日を送る方が余程重要だ。それは、政元様もどうやら同じだったようで「それは某も同感ですよ」と答えられた。


「ですが、三左殿。そのような質問を成されるという事は……」


「周りは未だにそのように見ていないという事ですよ。関東で力を蓄えて、いずれ上様亡き後の世を奪いに来るのではないかと。少なくとも……安土や伏見ではそのような噂もチラホラ流れているようでして……」


こうした情報の出処はたぶん蘭丸君だろうが、それだけに軽視してよい話でもない。さて、どうしたものか……。


「三左殿なら……如何なさるか?」


「某ならば、隠居しますかな」


「隠居!?」


「家督を御嫡男にお譲りになられて、寧々様共々安土か伏見にお移りになれば、もう疑われることはないでしょう。どうですかな?そうお考えになられるのは……」


「隠居……かぁ……」


悪い話ではないのではとわたしは思った。ただ、多くの家臣を抱える身であるゆえに、勝手にこの場で決めるわけにはいかない。どうやら、帰ったら半兵衛を交えて相談しなければならないようだ。

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